「空飛ぶかにいくら」へようこそ!

『風、薫る』島田健次郎(佐野晶哉)モデル|木下尚江

スポンサーリンク
スポンサーリンク

『風、薫る』では、モチーフとなった人物たちのエピソードを大胆に再構成して制作されているため、登場人物のモデルが1人とは限りませんが、

島田健次郎のモデルは、社会運動家で作家の木下尚江さんだと考えられます。

さて、木下尚江さんはどのような人物だったのでしょうか?
島田健次郎との共通点、その半生について、私生活に注目しながら実像に迫ります。

スポンサーリンク

島田健次郎(佐野晶哉)と木下尚江の共通点

『風、薫る』島田健次郎とは

佐野晶哉さのまさやさん演じる「謎の青年」島田健次郎は、公式サイトでは次のように紹介されています。

新しく生まれた言葉や外国語に造詣が深い。りんの良き相談相手になっていく。
(引用:NHK公式サイト)

木下尚江とは

木下尚江(きのした なおえ)
1869年10月12日(明治2年9月8日)〜
1937年(昭和12年)11月5日
松本出身の社会運動家、作家

【学歴】
開智学校→松本中学→英吉利法律学校(中央大学)→東京専門学校(早稲田大学)

木下尚江は何をした人?
・日本初の社会主義政党「社会民主党」を結成
・『火の柱』で「戦争は最大の人道違反である」と反戦を主張
・足尾銅山鉱毒事件の救済と田中正造氏への協力
木下尚江さんは、「キリスト教的人道主義」と「平和主義」を根幹とした清廉で倫理的な思想を持ち、弱者の苦しみに寄り添い、不正を許さない実践的な活動家として、明治の社会運動に大きな足跡を残しました。

島田健次郎と木下尚江の共通点

『風、薫る』島田健次郎は、謎の青年として登場しますが、物語が進むにつれ少しずつその姿が明らかになっていきます。
木下尚江さんとの共通点は、以下のとおりです。

・英語が堪能
木下尚江さんは英語が堪能でした。島田健次郎も英語を駆使し、西洋の思想や技術を理解する人物として描かれています。

・新聞記事を書く
木下尚江さんは「毎日新聞(現在の毎日新聞とは別系統)」などで記者として筆を振るいました。島田健次郎もまた、ドラマの中で新聞記事を書いています。

・作家志望
作家になる夢を抱く島田健次郎。
日本初の社会主義小説『火の柱』などを執筆した作家・木下尚江さんを彷彿とさせます。

・廃娼運動との接点

スポンサーリンク

島田健次郎モデル|木下尚江年譜

1869年 0歳 松本で生まれる
1881年 12歳 松本中学
初恋
1886年〜 18歳〜 東京専門学校(早稲田大学)
失恋・父の死(胃癌)
→廓通いが始まる
1888年 20歳 帰郷
『信陽日報』記者に
1891年 22歳 新潟県高田町で廃娼演説
大関和と出会う
1893年 24歳 長谷川くま子と恋愛
代言人試験に合格
木下法律事務所を開設
受洗
1894年〜
1896年
25〜27歳 娼妓「松花」と交際
娼妓「七越」を身請け・同棲
1897年〜1898年 28〜29歳 収監
大関和に求婚
1899年 30歳 「毎日新聞」記者に
1900年 31歳 足尾銅山鉱毒事件の救済開始
田中正造への協力開始
和賀操と結婚
1901年 32歳 社会民主党結成
1902年 33歳 衆院選落選
1904年 34歳 毎日新聞で「火の柱」連載
1906年 36歳 母・くみが亡くなる
社会主義運動から離れる
1910年 40歳 『火の柱』『良人の自白』など発禁に
1936年 67歳 妻・操が亡くなる
1937年 68歳 胃癌で息を引き取る
スポンサーリンク

島田健次郎モデル|木下尚江の生涯

少年時代

木下尚江さんは、信濃松本藩(長野県松本市)の下級武士・木下家(祖母:てふ、父:木下秀勝、母:くみ、6歳下の妹:伊和子)に生を受けました。
大関和さんより11歳年下です。

尚江は信州松本藩主戸田氏に使仕えた足軽の父・木下廉左衛門秀勝と母くみの次子であった。尚江の姉は三歳で死んだ。父の秀勝は無口だが慈愛あふれる人だった。(中略)秀勝は一八七六年に長野県巡査となり、北信地方に単身赴任したが、年に一度しか家に帰れないほどの激務だったという。
母くみは薄禄を補うために副業として耕作などをしていたが、家計のやりくりが大変だった。父の不在で男手が足りなかったので、病気がちの幼い尚江も畑に出て、麦刈り、桑摘みなどの仕事を手伝った。
(引用『木下尚江 その生涯と思想』鄭玹汀)

7歳で開智学校に入学。
開智学校では勉強の楽しさに触れ、とくに卒業式で英語演説をするほど英語が得意だったそうです。

近所の宝栄寺で開かれる政談演説会に家族や友人と通い、雄弁家に憧れを抱く木下少年。
納戸で見つけた家系図に、大阪城落城の際に浪人となり近江に退隠した先祖がいることを知るや、先祖が木下藤吉郎秀吉とつながりがあると確信。大望を抱きます。

12歳で松本中学に入学。
一学年下の相馬愛蔵さんが最初に知った先輩が、『クロムウェル伝』に心酔し「クロムウェルの木下」と呼ばれた木下尚江さんでした。

相馬愛蔵とは
相馬愛蔵さん(1870〜1954)は、新宿中村屋の創業者です。木下尚江さんとは同郷で、妻の黒田良(相馬黒光)さんとともに、日本初のパンの通信販売やクリームパンの考案、純印度式カリーの発売など、日本の食文化に革新をもたらしました。
東京専門学校入学前に第一医院に入院し大関和さんから手厚い看護を受けて以来、交流が続きます。

初恋

予が初めて彼女を見たのは、予と彼女と共に十二三才の時であった。仮令如何なる群衆雑踏の間にても、予は一目にして彼女を見出すことが出来た。彼女は其の服装に於ても挙動に於ても誠に質素であった。然しながら他の美しく飾りたてたる少女の、是れ見よがしに振舞ふ間に在りて、不思議にも鳩の如き彼女の眸子ひとみは、神々しき一段の光を放って居た。彼女は年と共に其のきよさ貴さを増し加えた。
(引用『懺悔』木下尚江)
尚江の初恋の相手は、小今といって、同年であった。彼女の父の浅井冽は、開智学校の教師だったが、松本中学へ転じ、尚江もそこで教えを受けた。
(引用『安曇野 第一部』臼井吉見)

この頃、嫌いな授業を抜け出して中学の隣の裁判所で傍聴し、法律に興味を持った木下尚江さんは、卒業すると上京して東京専門学校(早稲田大学)で法律を学び始めます。

ところが、尚江さんが上京している間に、結婚するつもりだった初恋相手は養女に出され、成金の息子を婿に取らされてしまいます。

小今の眼のたたえた清々しい光にすがって、懸命に法律の勉学をつづけてきたのだった。尚江を駆り立てた功名心は、死んだ祖母をはじめ、父母のためでもあったが、同時に小今への思慕をぬきにしては考えられなかった。
(引用『安曇野 第一部』臼井吉見)

そのうえ、婿の持参金が約束の三分の一だったことを理由に半年で離縁させられ、二度目の養子も一年で離縁。生まれた男児が2ヶ月で亡くなると実家に戻され、初恋相手自身も数年後に亡くなります。
この経験が、木下尚江さんを自由結婚論を始めとした社会主義活動に突き動かしたと言われています。

と同時に、遊郭通いが始まります。

大関和との出会い

1888年(明治21年)19歳
卒業後は地元へ帰り、新聞記者をしながら社会運動をし、代言人(弁護士)を目指した木下尚江さん。

1891年(明治24年)22歳
新潟県高田町で廃娼演説をした際、知念堂病院で単身赴任中の大関和さん(33歳)に会いに行き、文通を申込みました。

さて愛蔵はかねがね親しい木下氏に、当代信頼すべき婦人として女史のことを話し、木下氏もそういう婦人ならば一度会ってみたいものだと言っているうちに、ちょうど用事ができて高田に行き、病院に女史を訪問して、愛蔵の紹介に違わぬ女史の風格に、まず深い第一印象を得たのであった。
(引用:『相馬愛蔵・黒光著作集1穂高高原』)
何でもその時女史は木下氏を案内して病院内をまわり、婦人科研究室に入ると、壁面の解剖図を指して一々詳しい説明を行い『全く弱ったよ、だがあの真剣さには敬服した』と愛蔵も何気なく聞き過して、やがてそれが女史と木下氏の愛のはじめになろうなどとは、夢にも予期しなかったという。
(引用:『相馬愛蔵・黒光著作集1穂高高原』)

長谷川くま子との交際

関山達子との交情は、それ以上には進まなかった。彼女に代って、風巻久美子が現れたからだった。だが、関山達子の活気に溢れた、情熱的な人柄は、尚江の胸奥に忘れがたいものを刻した。
(引用『安曇野 第一部』臼井吉見)

※『安曇野』の「関山達子」は大関和さん、「風巻久美子」は長谷川くま子さん。

新潟と長野の遠距離だった大関和さんに並行して
妹・伊和子さんの教会友達・長谷川くま子さんと親しくなっていきました。
長谷川くま子さんは、木下尚江さんより2歳ほど下。木下尚江さんの「理想の女性」でした。

えび茶の袴のすそから、黒い靴さきをのぞかせた外出すがたは、東京の風俗の一端を思わせ、すれちがう人を立ちどまらせた。顔だちは地味で、人目につくという風ではなかったが、おだやかで考え深い人柄からくるおちつきが、接する誰彼に、好ましい印象を残した。
文学好きで、英語が読めて、いつも小型の英詩集を携えていた。
(引用『安曇野 第一部』臼井吉見)

ですが、妹の伊和子さんから結婚に向け後押しをされると臆病になり長谷川くま子さんと疎遠に。

1893年(明治26年)23歳
1月、代言人試験に合格。
2月に、地元松本に「木下法律事務所」を開設。
10月、洗礼を受けます。

大関和との熱情と求婚

1897年(明治30年)31歳
事件が起こります。
廃娼運動(公娼制度の廃止運動)の際、相手側から渡された示談金が「恐喝によるもの」として訴えられたのです。

松本の旧家の某氏が貴族院議員選挙で金にものをいわせたことが知れて問題となるや、木下氏は中村氏とともに某氏に面会して不都合を責め、某氏はそれに対してなにとぞ穏便にと嘆願し、また、千円を普通運動に寄付することを約束したという。このことが漏れて反対派の乗ずるところとなり、両氏は恐喝詐偽取罪の嫌疑で東京に送られ未決入りとなって、約一年間幽囚の憂目にあった。
(引用:『相馬愛蔵・黒光著作集1穂高高原』)

重禁錮8か月・罰金10円・監視6か月の判決に控訴し
1898年(明治31年)2月
東京へ護送され鍛冶橋監獄署に収容されると、これまで「会いたい」という要望を断り続けていた大関和さん(40歳)が、すぐに面会に来てくれました。
綿入れを縫い、週に一度、食べ物や衣類を届け続けて10ヶ月。

獄中の氏の感激はやがて思慕の情となり、女史もまた持ちまえの熱烈な同情が昂じて、ついに両者の激しい恋愛、そして出獄の上は結婚という絶頂にまで達した。
(引用:『相馬愛蔵・黒光著作集1穂高高原』)
氏はよく自嘲するような持ち前の、あの明らかにわざとらしさのある調子で言った。
『人形のような小娘はつまらないが、中年の女はその熟した智恵が面白い』と。
容貌、情熱、年齢、当年の大関女史はまさにこの木下氏の再び得がたい対象であったといえよう。
(引用:『相馬愛蔵・黒光著作集1穂高高原』)

大関和さんは、誕生日に木下尚江さんから桜の押し花を贈られ感激したそうです。
12月初旬、無罪判決で出獄する直前、木下尚江さんは大関和さんにプロポーズ。
大関和さんは、驚き返事ができません。

求婚の撤回

出所してすぐに結婚の意思を確認すべく東京看護婦会に訪れた木下尚江さん。大関和さんが差し入れた大島紬を着ています。
その時、大関和さんは講義で席を外しており、待っている間、若い受付スタッフ和賀操さんが話相手を務めます。

講義を終えた大関和さんの目に飛び込んできたのは2人の談笑姿。
年の近い2人はお似合いに見えたかもしれません。

大関和さんは、自身の進退を考えるため、いったん返事を保留にし、
木下尚江さんは帰省し、安曇野の相馬夫妻に報告をすることに。
すると、夫妻から思いがけず猛反対を受けたのです。

結婚を迷っていた大関和さんのもとへ、相馬愛蔵さんから謝罪の手紙が、木下尚江さんから結婚の申込み撤回の手紙が届きます。

反対理由:年齢と社会的格差

相馬夫妻はなぜ反対したのでしょうか。

何よりまず、関山達子なら尚江より十一、二年長のはずだ。尚江が高田から帰った時、三つで亡くなった姉の生れかわりのように思われてならないという意味の、関山達子についての印象を聞いた覚えを愛蔵は思い浮かべた。十一、二も年のちがう姉のような相手との結婚など奇怪というほかはなかった。それだけではない。関山達子といえば、看護婦会の統率者として知られた社会的な名士であって、無名無一物の尚江などと同列に見るわけにはいかない。どう想像を逞しくしたところで、あの自信と情熱で顔を火照らし、どこへ出てもおしの利く関山女史を引きまわす資格なぞ、尚江にあろうはずもない。といって、彼女の指図に甘んじている尚江ではないこともはっきりしている。この結婚には、どうあっても反対しなくてはならないと、愛蔵は心に決するところがあった。
(引用『安曇野 第一部』臼井吉見)

いつの世も、著名な女性と格下の年下男性の「格差婚」には、心配がつきまとうものかもしれません。

反対理由:恋愛遍歴「松花」と「七越」

さらに、木下尚江さんの恋愛遍歴にも懸念点がありました。

一つは、芸姑から紹介された仙台出身の娼妓「松花」(時子さん)との恋。
俳句を交わすなどプラトニックな交流を重ねるうち、恋仲になった2人ですが、遊女との恋愛は発展しません。

とにかく氏は最後はその誓いを破った。月清き欄干にならび手をとって賛美歌をうたうというようなそれは、とりもなおさず最大の禁戒で、それほど痛めつけたもう一つの野人は、極度におかれてついに爆発のほかなかったのであろう。一瞬にただの男性と化し去った木下氏を女は慟哭して顔もあげ得ず、さてそれからどういう経路が中にあったか、やがて苦界の足を洗って尼となり、さる片田舎に行いすますということが風の便りに聞かれたという。
(引用『相馬愛蔵・黒光著作集1穂高高原』)
ある夜、松花は尚江と枕を並べているとき、「遊女の借金は、法律に照らすと無効だというのは本当ですか」と尋ねる。すると尚江は「一日中法律の仕事で疲れ切り、あなたに癒されたくてここに来ている。そのあなたに法律の話をされたら、自分はいったいどこに逃げたらいいのだ!」と怒り出す。松花は泣いて詫びたが、二人の関係はこれで終わる。
(引用『明治のナイチンゲール 大関和物語』田中ひかる)

「松花」の代わりとなったのが、名古屋出身の娼妓「七越」(浅野くわ子さん)。
「七越」が「松花」の客を横取りしたと噂になり遊郭にいづらくなったので、仕方なく身請けをした木下尚江さん。

やむなくこの女性を落籍し、諏訪の出張所に借りた家に入れた。そして廓通いをやめた。
(引用『明治女性史』村上信彦)

ところが、母・くみさんから結婚に猛反対され

いったん泥水に染んだ女など嫁女として迎え入れるわけにはいかない。もし尚江がどうしても母の命に服さないならば、自分は自害して先祖に謝するほかはない。
(引用:『相馬愛蔵・黒光著作集1穂高高原』)」

それを本人に伝えたところ、「七越」から結婚を辞退。
その後、「七越」は、明治女学校の巌本先生の家の子守として身を寄せた後、看護婦として自立されたということです。
これらの話を打ち明けられた相馬夫妻は、木下尚江さんに幻滅したといいます。

和賀操と結婚

木下氏がこの忠告をいれて結婚を断念したというに至っては、氏の恋が絶対無二のものでなかったことを自白するに等しく、それに対して大関女史が自分の代りに若き愛弟子を氏の伴侶として送ったというのも、当の操子夫人の人格を没した仕方であるのみか、木下氏がその人を迎えて、立入った内面の消息はとにかく、無事に夫婦として家庭を成して行けたことは、何としても氏の女性観並びにその情操の根底に、一つの疑いなきを得ない。そう考えて来ると、愛蔵が反対して木下氏に結婚を思い止まらせたことは大関女史のため誠に幸いであったし、両者の友情を永く保持するためにもよかった。
(引用:『相馬愛蔵・黒光著作集1穂高高原』)

東京で毎日新聞の記者となり、足尾銅山鉱毒事件や普通選挙運動に取り組み始めた木下尚江さんは、大関和さんへの求婚から2年後の31歳、東京看護婦会で出会ったスタッフ和賀操さんと結婚します。

大関和さんの仲介だったという説もありますが、結婚が白紙に戻って以来、大関和さんは木下尚江さんへの連絡をきっぱりと絶ったともいわれています。

足尾銅山鉱毒事件
明治時代、栃木県の足尾銅山から流出した鉱毒(銅や硫酸)が渡良瀬川を汚染し、広大な農地や健康に甚大な被害を与えた日本初の公害事件です。田中正造さんらが天皇への直訴や議会で解決を訴え、反対運動を展開しました。

母の死

日本最初の社会主義政党である社会民主党を結成すると
1904年(明治37年)35歳
日露戦争では非戦運動を展開。

様々な演説をし、著書をしたため、キリスト教社会主義運動を主導しますが、
1906年(明治39年)37歳
最愛の母・くみさんが亡くなると、絶望から毎日新聞を退社し、社会主義運動からも退くようになります。

その後は、心の安定を求めて岡田虎二郎の岡田式静坐法に入門。
中村屋や相馬夫妻との交流は続きました。

妻を亡くした翌年の
1937年(昭和12年)11月5日
胃がんにより亡くなります。69歳でした。

辞世の句
「何一つ もたで行くこそ 故さとの 無為の国への みやげなるらし」
「何一つ持たずにこの世を去って行くことこそが、故郷である『悟りの世界(無為の国)』へ持っていく、最高の手土産になるのだなあ」

スポンサーリンク

島田健次郎モデル|木下尚江まとめ

清廉な主張とは裏腹に、自己矛盾もあった木下尚江さんの内面。

廃娼運動に身を投じながら遊郭へ通う自分。階級社会を批判しながら士族のプライドを捨てきれず、遊女と結婚できない自分。平和主義を唱えながらペンで人を傷つける自分。

こうした理想と現実の乖離に誰よりも苦しみ、抜けない棘のように抱え続けた葛藤が、自伝『懺悔』に赤裸々に綴られています。

正論だけでは割り切れない矛盾の中で、もがき、模索し続けた木下尚江さん。
理想通りには生きられなかったかもしれない前半生と、心の安定を求めた後半生。
その姿に深い人間性を感じ、人生の難しさを思わずにはいられません。

 

【参考文献・参考サイト】
『木下尚江 その生涯と思想』鄭玹汀:
『明治女性史』村上信彦:理論社
『火の柱』木下尚江:青空文庫
『安曇野』臼井吉見:筑摩書房
『相馬愛蔵・黒光著作集1穂高高原』相馬黒光:郷土出版社
『明治のナイチンゲール 大関和物語』田中ひかる:中央公論社
PDF『木下尚江ーその発想と回心について』藤田美実

タイトルとURLをコピーしました