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大河ドラマ『べらぼう〜蔦重栄華乃夢噺』吉原遊郭と遊女たち

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2025年NHK大河ドラマ
「べらぼう~蔦重栄華乃夢噺(つたじゅうえいがのゆめばなし)~」

「蔦重」こと、主人公・蔦屋重三郎が生まれ育ったのは、江戸で唯一の幕府公認の「吉原遊郭」でした。

吉原と深く関わりながら生きていきます。

蔦重以外にも「誰袖」「花の井」といった実在する吉原の遊女が登場し、重要な役どころを担っていきます。

こちらでは、遊郭とはどんな所か、遊郭の歴史や遊女の格、吉原の一日、現在の「日本三大遊郭」について紹介いたします。

観光のご参考に、また2025年大河ドラマの予習として楽しんでいただけましたら幸いです。

 

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「遊郭」とは

まず、「遊郭」とは何か。
混同しやすい「妓楼」や「見世」との違いもあわせてご紹介いたします。

遊郭とは

「遊郭(ゆうかく)」とは、遊女を集めた”区画”を意味します。

城郭のような高い塀でぐるりと囲われていることからその名がつけられました。
高い塀は、
①夢の世界と一般社会とを切り離す役割
②幕府が妓楼を一箇所に集め、妓楼に隠れる反対勢力を取り締まりやすくする役割
を果たしました。

遊郭・妓楼(ぎろう)・見世(みせ)には、次のような違いがあります。

遊郭:遊女たちが住む区画
妓楼:芸妓や遊女を置く店
見世:遊女たちが客を待つ部屋

妓楼には、最上級の「大見世」「中見世」「小見世」という格があり、最大級である大見世には60~70人ほどの遊女と禿(見習いの童女)が在籍していたといいます。

見世とは、客に遊女の姿を見せ集客するための、道路側に格子の付いた部屋のことです。

 

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遊女・遊郭の歴史

遊女と遊郭の歴史についてご紹介いたします。

遊郭以前の遊女

古代〜中世に、巫女と遊女の両方の役割を兼ね備えた「巫娼」が存在し、「遊び女(あそびめ)」と呼ばれていたのが、遊女の起源だとされています。

「遊」という漢字には、神様に舞や音楽を奉納し喜ばせるという意味があり、芸能に秀で、和歌にも長けた「遊び女」は、けっして蔑まれる存在ではありませんでした。
”児島”という遊び女の歌は万葉集にも選定されており、高い教養を持っていたことがわかります。

室町時代に入ると、遊び女から宗教性が失われていき、芸能に秀でた自由な女性の象徴となっていきますが、戦国時代を経て武士が台頭するようになると、その自由は少しずつ奪われていきました。

豊臣時代、江戸時代

遊郭の歴史は、豊臣秀吉が1585年(天正13年)に大坂と京都で公娼を集めたことに始まります。
1585年 秀吉は大坂の遊郭(道頓堀川北岸)を、
1589年 京都(二条柳町)を造り、武士の慰労のために訪れた記録が残っています。

この頃は、公家や武家と会話できる教養や知識を持ち合わせ、舞や楽器などの芸事に秀でた才色兼備の遊女たちが、宮中に招かれ芸を披露していたそうです。

また、遊女たちは塀や仕切りのない街の一角に集住させられるだけで、自由に出入りができていました。

徳川幕府にも引き継がれ、江戸吉原、大阪新町、京都島原、長崎丸山など全国に約20箇所の幕府公認遊郭が指定されると、高い塀が造られます。

京都の「島原遊郭」を模して江戸に作られた「吉原遊郭」には、犯罪者や非人となった女性、人身売買で売られてきた子どもなどが遊女にされることが多く、花魁など高ランクの遊女以外は自由のない生活を強いられていました。

吉原遊郭は、芸事ではなく性的目的が中心となりましたが、庶民も遊べる娯楽の場、一大歓楽街兼観光地として発展していったのです。

江戸の中心部から少し離れた場所にあり、周囲を堀や塀で囲まれたその景観は、まさに別世界の趣き。もちろん中心は いくつも立ち並んだ妓楼ですが、メインストリートの仲の町は桜の名所とも知られ、季節に応じて様々なイベントも行われました。

島原の乱のころになると、出島や唐人屋敷への出入り資格を制限していた幕府ですが、長崎の丸山遊廓の遊女は例外として許可されていました。

長崎・出島へ赴く遊女たちは「紅毛行」、唐人屋敷へ赴く遊女たちは「唐人行」と呼ばれました。これが「からゆきさん」の語源です。

遊郭の終焉

日本の近代化が進む1872年(明治5年)になると、明治政府によって「芸娼妓解放令」が発令されました。
ただ、遊女屋は「貸座敷」と名称を変えただけで実態はほとんど変わっていません。

1900年(明治33年)以降、大正時代末期にかけて遊廓に反対する廃娼運動が盛り上がりをみせます。

第二次世界大戦後の1946年(昭和21年)にはGHQの指令により公娼制度が廃止されるものの、カフェーや料亭などと看板を変えて、遊廓はほぼそのまま「赤線」の通称で呼ばれる地域として存続。

1958年(昭和33年)4月1日に施行された「売春防止法」により公娼地域としての遊廓の歴史は完全に幕を閉じました。

東京吉原はそのまま風俗街に、大阪の飛田新地では料理旅館に転向しつつ営業を続けているようです。

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遊女の格と値段

「遊女」は遊郭などで客を遊ばせる女性のことで、
江戸時代やそれ以前は「うかれめ」「あそびめ」「ゆうくん(遊君)」「けいせい(傾城)」などとも呼ばれていました。

遊女には階級がありましたが、その呼び方は時代や地域により違いがあります。

たとえば、「吉原遊郭」には「呼び出し(昼三)」「座敷持ち」「部屋持ち」「振袖新造」「禿(かむろ)」という格があり、部屋持ち以上の遊女をひとまとめに「花魁(おいらん)」と呼びます。

「大坂新町」の遊女の階級は、最も高い「太夫(たゆう)」から順に「天神(てんじん)」、「鹿子位(かこい)」、「端女郎(はしじょろう)」の4つに分類されていました。

各言葉の意味を、ご紹介いたします。

呼び出し

見世には出ず、茶屋を通して客と接する最上級の遊女。
莫大な金で身請けされることもありました。

座敷持ち

客と過ごす部屋とは別に自室を持っている遊女です。

部屋持ち

自室を持ち、そちらで客をとっていました。

振袖新造(ふりそでしんぞう)

15歳くらいになると、振袖新造と呼ばれ客をとるようになります。
大部屋ぐらしで、共有する部屋で客をとっていました。

禿(かむろ)

遊女見習いの少女。
多くの遊女は禿として妓楼に入り、遊女の世話をして育ちます。

太夫(たゆう)

京都島原・大阪新町の遊女のトップ。
部屋持ち以上の遊女で、気位が高く、容姿や客あしらいが優れており、歌舞伎や浄瑠璃などの芸能に秀でているのが特徴です。
豪商の社交や商談の場、公家や大名の忍び遊びなどの場に出るため、秘密を守ることのできる知性が求められました。

花魁(おいらん)

江戸吉原のトップ。
江戸吉原で、主人が都の島原太夫を見て、店の遊女に真似をさせたのが花魁の始まりとも言われています。
禿(かむろ:見習い童女)や男衆が自分の仕える太夫や格子などを「おいらの(店の姐さん)」と呼ぶので「おいらん」と呼ばれ始めたとか。
吉原で花魁人気が出たため、全国的に「太夫」という呼び名が「花魁」に変化したと言われています。

格子(こうし)

江戸吉原のNo.2。
遊女の階級の一つで、太夫に次ぐ階級でした。
1617(元和3)年に江戸吉原に遊郭ができると、太夫に次ぐ遊女として「格子(こうし)」が登場。見世(道路に面している格子のついた部屋)に遊女たちが並んで客を待っていたことに由来しています。

天神(てんじん)

格子と同格。関西のNo.2。
太夫に次ぐ階級です。
名前の由来は、遊女をお座敷に呼ぶ揚げ代が25匁(もんめ)で、25日の北野天神の縁日と同じだったからと言われています。

鹿子位(かこい)

関西で「天神」と「端女郎」の間のランクの遊女。
正しくは「囲」と書き、島原では鹿恋と表記されていました。

散茶女郎(さんちゃじょろう)

吉原が火事に見舞われ日本橋から浅草に移転した際に新吉原に集められた遊女を指します。
会いに行ける庶民的アイドルのような特徴で人気がありました。
散茶というのは挽いて粉にしたお茶のことで、袋から振り出さずに湯に入れることから、格上の遊女のように客を振らないという意味があったとか。

他には、
遊女の最下位で、置屋がなく、店付茶屋に住み込んでいた「端女郎(はしじょろう)」や「局女郎(つぼねじょろう)」など、遊女の階級は時代や地域によって多少異なります。

遊郭のトップに立つのが「花魁(おいらん)」や「太夫(たゆう)」で、美貌、教養、芸事の才能を併せ持つ遊女が選ばれました。

花魁と太夫の違い

花魁と太夫は、どちらも遊郭の最高位の女性を指す言葉ですが、次のような違いがあるそうです。
太夫
歌舞伎や浄瑠璃、などの芸能やお茶、お花、和歌、俳諧などの教養に秀でた遊女。
主に公家や大名、文化人などの上流階級の男性たちを接待。
「島原遊郭」「大阪新町」での呼び名。
花魁
娼妓部門の最高位。
「吉原遊郭」での呼び名。吉原で高級遊女を「花魁」と呼ぶのが一般的になるにつれて、全国的に高級遊女の呼び方が「太夫」から「花魁」と変化したと見られています。

遊女の値段

遊郭で高級遊女を指名するためには莫大なお金が必要でした。

一度の揚代の値段は

呼び出し:金三分〜一両一分
(現在の価値では7、8万円〜12、13万円程度)

となっていましたが、揚代の他にも豪華な料理や高価なお酒、若い衆などへのチップなども用意しなければなりません。

現代の価格に換算すると、一晩でざっと300~500万円ほどかかったといわれています。

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吉原遊廓の一日

吉原の1日は、前夜に遊女とひと時を過ごした客を送り出す早朝(夜明け前)に始まります。
では、その一日を簡単にご紹介します。

①早朝:見送り。
夜が明ける前に 前の晩の客の見送りをします。
(朝帰りせずに妓楼に連泊し続ける客もいました)

②朝寝。
客を見送った後、遊女たちは 朝寝をします。

③午前10時頃:起床・身支度
入浴や化粧をほどこし、身支度を整えます。
同時に座敷の掃除などの裏方仕事も行われています。

④昼見世。
吉原の営業は昼と夜の1日2回 。
昼見世は昼過ぎから行われ、遊女は見世に出ます。
昼の客は武士が多かったそうです。

⑤夜見世。
夜見世は日没ごろから始まります。
暮れ六つ(午後6時頃)〜夜四つ(午後10時頃)まで遊女たちは見世に出ます。
客たちは、遊女を気に入ると指名して登楼します。
この流れを「直入り(じかいり)」と呼びます。

また、高級遊女は見世に出ないので、通な客は仲の町の両側にある手引茶屋で遊女を手配してもらいます。そこで盃を交わしてから妓楼へ向かいます。

⑥宴会、床入り。
どちらも妓楼では宴会を催し、その後床入りするという流れになります。

 

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「日本三大遊郭」はどこ?

幕府が許可した公認の遊郭は、20箇所ほどあります。

このうち「吉原遊郭(江戸)」「島原遊郭(京都)」「新町遊郭(大坂)」の3つが日本三大遊郭と呼ばれています。

吉原遊郭(江戸)

吉原大門跡

江戸時代に幕府公認の遊郭として誕生した日本有数の歓楽街・吉原

吉原遊郭は、もともとは現在の日本橋人形町にありましたが、明暦の大火(1657年)により焼失し、浅草の北側(現在の東京都台東区千束あたり)に移転します。
日本橋の「元吉原」に対する意味で「新吉原」とも呼ばれます。

遊郭は、1958年の売春防止法施行で廃止され、その後は歓楽街へと姿を変えました。
吉原の旧遊郭時代の建築物はほとんど残っていませんが、わずかな痕跡から街の記憶を探るのが吉原観光の楽しみ方です。

吉原には「吉原大門」という立派な黒塗りの入り口があったのですが、現在は道の両脇に柱が名残を残しているだけです。


〒111-0031 東京都台東区千束4丁目15 仲之町通り

2025年大河ドラマ「べらぼう」蔦屋重三郎ゆかりの地

島原遊郭(京都)


島原遊郭大門

京都島原の遊郭は、
豊臣秀吉時代:二条柳町
徳川家康時代:六条三筋町(六条柳町)
寛永17年(1640):西新屋敷に移転しました。

宴席の揚屋や茶屋、太夫や芸妓を抱える置屋など、現在の祇園と同じ営業形態をとっていた島原。
そのため、島原は「遊郭」ではなく「花街」ともいわれます。

江戸中期には、俳壇ができるなど京文化の中心的役割を果たしますが、明治から昭和にかけてお茶屋や芸妓の数が減り、戦後、お茶屋組合が解散しました。

新選組ゆかりの「輪違屋」が有名です。
(元禄年間(1688~1704年)創業。輪違屋の天神(芸妓)糸里は、新選組の副長である芹沢鴨の側近、平間重助のお気に入りとされていますが、記録には残っておらずフィクションだと考えられています)
「輪違屋」は、現在も主に太夫の育成と宴会の場として置屋兼御茶屋の営業を続けています。
ただ「観覧謝絶」と書かれた札が掲げられており、見学は不可です。


〒600-8825 京都府京都市下京区西新屋敷中之町114

新町遊郭・飛田新地(大阪)

日本三大遊郭の一つである大坂新町遊郭は、現在の大阪市西区の新町エリアにありました。

新町遊郭は、幕府から公認された最初の遊郭の一つです。
17世紀初めの大坂城再建時から1956年の国法による禁止がなされるまで350年にわたり、花街として知られました。
現在の新町エリアは、落ち着いた街並みで治安が良く、住みやすい場所として評価されています。


飛田新地

現在の大阪では「飛田新地(とびたしんち)」が、遊郭の名残りが色濃く残っている場所として有名です。

飛田新地の歴史は浅く、明治末期に大阪ミナミ一帯を襲った大火災で全焼した難波新地に代わり、大正7年に大阪府大阪市西成区の山王3丁目あたりに作られました。
その後、大正時代後半から昭和初期にかけて最大級の遊廓といわれていました。

現在も遊郭の面影を残す歓楽街、料亭街として知られ、近年では海外からの観光客も増えています。

飲食店として営業している「鯛よし百番」の建物は、大正中期に妓楼として建てられたもので、2000年に国の登録有形文化財に登録されています。


〒557-0001 大阪府大阪市西成区山王3丁目5−25

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