2024年度前期放送朝ドラ『虎に翼』が放映され、
伊藤沙莉さん演じる主人公「猪爪寅子(佐田寅子)」が評判を呼んでいます。
『虎に翼』は戦争ですべてを失ってもなお希望を捨てず、追い詰められている人々を法律で救っていく日本初の女性弁護士「三淵嘉子」さんの実話を基にしたストーリーで、事件や裁判が解決されていく様も見どころです。
こちらでは、2番目の夫のモデルとなった「三淵乾太郎」さんとの出会いや結婚生活についてエピソードを交えてご紹介いたします。
朝ドラ『虎に翼』モデル三淵嘉子の生涯
では最初に、三淵嘉子さんの人生の流れを年表でご紹介いたします。
再婚されて16年後に、日本で初めての女性家庭裁判所長に就任されています。
1914年(0歳) | シンガポール | 台湾銀行に勤務する父と専業主婦の母のもと、シンガポールで生まれます。 5人兄弟の長女でした。 旧姓は武藤。シンガポールの漢字表記に用いられた「嘉」から「嘉子」と名付けられました。 (現在でもシンガポールに住む4分の3が華人であり、シンガポールにおいて漢字の使用は盛んに行われています) |
1916年(2歳) | 丸亀 | 母の実家である香川県丸亀市に住みます |
1920年(6歳) | 東京 | 父親の転勤に伴い渋谷区で暮らすことになり、東京府青山師範学校附属小学校に入学 |
1927年(13歳) | 東京 | 東京女子高等師範学校附属高等女学校、現在のお茶の水女子大学付属に入学 |
1932年(18歳) | 東京 | 明治大学専門部女子部法科に入学 |
1935年(21歳) | 東京 | 明治大学法学部に編入 |
1937年(23歳) | 東京 | 同校同学部を卒業し、同年の高等文官試験司法科試験に合格
第二東京弁護士会に弁護士登録して |
1940年(26歳) | 明治大学卒の和田芳夫さんと結婚 | |
戦時中・戦後 | 福島へ疎開 | 疎開中に最初の夫である和田芳夫が戦地で発病し亡くなり、戦後、両親も相次いで亡くなってしまいます。
そのため弟や子供を養うこととなります。 |
1947年(33歳) | 裁判官採用願いを司法省に提出。司法省民事部勤務
「男女平等が宣言された以上、女性を裁判官に採用しないはずはない」と考えた三淵嘉子さん。 すぐには裁判官になれませんでしたが、司法省民事局局付を経て最高裁判所発足に伴い最高裁民事局局付、家庭局創設に伴い初代の家庭局局付に就任し、新しい民法や家庭審判法といった法整備を手伝うとともに、家庭裁判所の創設にも尽力し、女性の権利を仕組みづくりに参加しています。 |
|
1949年(35歳) | 東京 | 東京地裁民事部の判事補(地方裁判所や家庭裁判所に配置される裁判官)として日本初の女性裁判官に就任。 |
1952年(38歳 | 名古屋 | 名古屋地方裁判所で日本初の女性判事に就任 転勤も経験してキャリアを積んでいきます。 |
東京 | 東京地方裁判所 | |
1956年(42歳) | 東京 | 裁判官の三淵乾太郎さん(初代最高裁長官だった三淵忠彦さんの息子)と再婚 |
1972年(58歳) | 新潟 | 新潟家庭裁判所で日本初の女性家庭裁判所長に就任
主に少年事件を担当されます |
1973年(59歳) | 浦和 | 浦和家庭裁判所長に就任 |
1978年(64歳) | 横浜 | 横浜家庭裁判所長に就任 |
1979年(65歳) | 東京 | 裁判官を退官し、弁護士に戻ります。
16年もの間、家庭裁判所に関わった三淵嘉子さんは 家庭裁判所の「育ての母」と呼ばれることもあります。 |
1984年(69歳) | 1984年5月28日午後8時15分 骨癌のため69歳で亡くなられます。 同日付けをもって、正三位勲二等に叙され瑞宝章を授けられました。 |
朝ドラ『虎に翼』モデル三淵嘉子・三淵乾太郎の出会いと再婚
朝ドラ『虎に翼』のモデルである三淵嘉子さんと三淵乾太郎さんの出会いと再婚のタイミングについてご紹介いたします。
再婚のタイミング
1952年(昭和27年)12月、
三淵嘉子さんは判事補から判事となりました。
任官後、法律家として10年間の経験を経て判事となります。(三淵嘉子さんの判事補期間は約3年でしたが弁護士としての期間が加算され約10年とみなされました)
優秀な裁判官の一極集中を避け、全国の裁判所を等質に保つため、裁判官は約3年ごとに転勤します。女性裁判官も例外ではありません。既婚者は夫と別居して新たな勤務地に向かいます。
三淵嘉子さんの最初の転勤は1952年(昭和27年)12月 、
配属先は名古屋でした。
一人息子も連れての転勤です。
東京時代は息子の面倒を同居する弟夫婦に見てもらっていましたが、名古屋では住み込みのお手伝いさんを雇うことにしました。
名古屋で3年間働いた1956年(昭和31年)5月。
東京地方裁判所へと戻ってきました。
そしてその3ヶ月後の8月に再婚し、目黒に住み始めます。
夫「三淵乾太郎」との出会い
相手は同じく裁判官 だった三淵乾太郎さんです。
最高裁の初代長官・三淵忠彦さんの息子でした。
三淵乾太郎さんとの結婚は、三淵嘉子さんの恩師と知り合いだった三淵忠彦さんとの縁にありました。
三淵忠彦さんの民法本の改訂作業を手伝うなど交流を深めていた三淵嘉子さん。
1950年(昭和25年)三淵忠彦さんが亡くなるとすぐにアメリカから帰国し三淵家を弔問されました。
このときに三淵乾太郎さんや家族と知り合ったと思われます。
三淵乾太郎さんには4人の子供がいましたが、妻は病気で亡くしていました。
前の夫が亡くなって10年が経ち、三淵嘉子さんは新たな伴侶を得ます。
三淵嘉子さん41歳、三淵乾太郎さん50歳のことでした。
三淵乾太郎さんの長女は結婚して家を出ていたため、お互いの連れ子を合わせて計 6人での新生活が始まりました。
朝ドラ『虎に翼』モデル三淵嘉子・三淵乾太郎の結婚生活
さらに、結婚後のお二人がどのように過ごされていたのか、エピソードをもとにご紹介いたします。
重い肩の荷を降ろさせてくれた存在
再婚によって三淵嘉子さんは
「自分でも驚くほど心に余裕が生まれたことに気がついた」
と語っておられます。
最初の夫と死に別れて以来
「息子や弟たちを養わなくては!」
という決意が知らず知らずのうちに精神的な重圧となっていたのかもしれません。
弟たちが自立し、三淵乾太郎さんと再婚したことで、一家の大黒柱から解き放たれた三淵嘉子さんは、心持ち新たに仕事に臨みました。
月日が経つにつれ女性の裁判官や調査官も増えていきました。
三淵嘉子さんは、朗らかな性格で面倒見が良いけれども、決して甘やかすことはしません。そんな三淵嘉子さんを慕う者は多く、裁判官室は女性たちのたまり場になることも珍しくなかったと言います。
再婚による余裕から、仕事にもいい影響が出たのかもしれません。
別居をさみしがる
再婚相手である三淵乾太郎さんとの夫婦関係は長きにわたって大変良好でした。
三淵嘉子さんの夫に対する愛情深さがうかがえるエピソードがあります。
三淵嘉子さんが東京家庭裁判所の少年部で働いていた頃、転勤により三淵乾太郎さんの浦和地方裁判所長の着任が決まりました。
言うまでもなく栄転であり、妻として、同じ裁判官として、喜ぶべきことだったのですが、別居することが決まると、離れ離れの生活を想像して何とも言えない寂しさが押し寄せ胸を締め付けたそうです。
三淵嘉子さんは、珍しく仕事中に暗い表情を浮かべ、 同僚たちも何事かと心配するほどだったと言います。
多忙な夫婦にとって、東京と浦和という距離でさえも果てしなく遠く感じたということです。
夫のためにゴルフを始める
また、三淵嘉子さんは現役時代からゴルフを楽しんでおられますが、このきっかけも夫の三淵乾太郎さんでした。
判決に忙殺される夫の姿を見てふと健康を案じた三淵嘉子さん。
「運動不足ではないかしら?心のリフレッシュも必要でしょう」
そこで三淵乾太郎さんにゴルフを勧めようと思ったのですですが、 あいにく身近に教えてくれる人がいません。
「それならば私自身が覚えればいい!」
と三淵嘉子さんみずからゴルフを始めたのだと言います。
ご自身も忙しい身でありながら、常に夫の健康を気ににかけていた三淵嘉子さんでした。
夫の退官後には毎週お寺参り
夫の退官後は、毎週日曜日に一緒にお寺参りをすることを提案。
2人っきりの時間を楽しみつつも、夫の健康を祈っていました。
三淵嘉子さんは新潟家庭裁判所の勤務を経て、浦和裁判所、横浜裁判所の所長を歴任します。
横浜裁判所に着任した時は、63歳でした。
裁判官の定年は65歳。
1979年(昭和54年 )定年退官されます。
夫に献身的に寄り添う
三淵嘉子さんの退官後は、様々な仕事を抱えながらも以前よりは自由な時間が増えてきました。
ですが、この頃から三淵乾太郎さんが体調を崩し、歩行が困難な状態に陥ってしまいます。三淵嘉子さんは、仕事と並行して可能な限り三淵乾太郎さんに寄り添いました。
金沢に効果的な治療法があると聞きつければ仕事の合間を縫って現地に赴きました。
こうした献身的な支えもあり三淵乾太郎さんは少しずつ回復していきました。
1982年(昭和57年)の元日。
初詣で2人は明治神宮にお参りしました。
天気がよく日差しも暖かい 絶好の散歩日和です。
参拝を終えて、 原宿から代々木まで向かいます。
三淵乾太郎さんは休むことなくしっかりとした足取りで進んでいくことができました。
三淵嘉子さんの献身的な支えもあり、回復したのでした。
確実に老いを感じながらも、「できるだけ長くこんな日は続けばいい」と最愛の夫の姿を眺めつつ三淵嘉子さん考えておられたそうです。
まとめ
初代最高裁長官・三淵忠彦さんとの縁で出会った三淵嘉子さんと三淵乾太郎さんは、とても仲睦まじい御夫婦だったようです。
再婚後の三淵嘉子さんは献身的で、夫と支えあいながら傍にいることを望んでおられた様子が伺えます。
また、職場では「観音菩薩」にも例えられていた三淵嘉子さんですが、三淵乾太郎さんは、酒豪の妻のことを「うわばみ姫」と呼んでいたという話があります。
クレバーで凛としているだけではなく、豪快で朗らかな三淵嘉子さんとの楽しい結婚生活が想像できますね。