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大河ドラマ『べらぼう〜蔦重栄華乃夢噺』日本三大遊郭と遊女の格

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2025年NHK大河ドラマ
「べらぼう~蔦重栄華乃夢噺(つたじゅうえいがのゆめばなし)~」

主人公・蔦屋重三郎は、江戸吉原遊郭で生をうけ、吉原に生きる人々と深く関わりながら生きていきます。

ドラマにも「誰袖」「花の井」といった実在する遊女が登場し、重要な役どころを担っていきます。

こちらでは、遊郭とはどんな所か、遊郭の歴史や遊女の格、今、「日本三大遊郭」の跡地はどうなっているのか、について紹介いたします。

2025年大河ドラマの予習として楽しんでいただけましたら幸いです。

 

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遊郭とは

「遊郭(ゆうかく)」とは、主に江戸時代に”遊女(ゆうじょ)”を集めた区画を意味します。

豊臣秀吉が1585年(天正13年)に大坂と京都に公娼を集めたのが最初で、徳川幕府にも引き継がれました。江戸幕府公認の遊郭は全国に約20箇所。

遊郭は、城郭のような高い塀でぐるりと囲われていることからその名がつけられました。

塀は、夢の世界と一般社会とを切り離す役割を果たしますが、幕府が妓楼を一箇所に集めることで、妓楼に隠れる反対勢力を取り締まりやすくするために作られたものです。

遊郭に共通する「大門に通ずる胴町と直角に交わる三筋の横町」という構造は、唐の長安にあった妓館の集合地である「平康里」に倣ったものだとされています。

江戸の吉原遊郭は、高下駄を履いた遊女が練り歩く花魁道中などで知られており、最盛期には3,000人の遊女が在籍し、1日で1,000両の金が動くほど賑わっていたようです。

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遊郭・妓楼・見世の違い

遊郭・妓楼(ぎろう)・見世(みせ)には、次のような違いがあります。

遊郭:遊女たちが住む区画
妓楼:芸妓や遊女を置く店
見世:遊女たちが客を待っていた部屋

妓楼には、最上級の「大見世」「中見世」「小見世」という格の違いがあり、最大級である大見世には60~70人ほどの遊女と禿(見習いの童女)が在籍していました。

見世には、道路に面した場所に格子がついており、客に遊女の姿を見せて集客していました。

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「日本三大遊郭」はどこ?

幕府が許可した公認の遊郭は、20箇所ほどあります。

このうち「吉原遊郭(江戸)」「島原遊郭(京都)」「新町遊郭(大坂)」の3つが日本三大遊郭と呼ばれています。

 

吉原遊郭(江戸)

吉原大門跡

江戸時代に幕府公認の遊郭として誕生した日本有数の歓楽街・吉原

吉原遊郭は、もともとは現在の日本橋人形町にありましたが、明暦の大火(1657年)により焼失し、浅草の北側(現在の東京都台東区千束あたり)に移転します。
日本橋の「元吉原」に対する意味で「新吉原」とも呼ばれます。

遊郭は、1958年の売春防止法施行で廃止され、その後は歓楽街へと姿を変えました。
吉原の旧遊郭時代の建築物はほとんど残っていませんが、わずかな痕跡から街の記憶を探るのが吉原観光の楽しみ方です。

吉原には「吉原大門」という立派な黒塗りの入り口があったのですが、現在は道の両脇に柱が名残を残しているだけです。


〒111-0031 東京都台東区千束4丁目15 仲之町通り

2025年大河ドラマ「べらぼう」蔦屋重三郎ゆかりの地

島原遊郭(京都)


島原遊郭大門

京都島原の遊郭は、
豊臣秀吉時代:二条柳町
徳川家康時代:六条三筋町(六条柳町)
寛永17年(1640):西新屋敷に移転しました。

宴席の揚屋や茶屋、太夫や芸妓を抱える置屋など、現在の祇園と同じ営業形態をとっていた島原。
そのため、島原は「遊郭」ではなく「花街」ともいわれます。

江戸中期には、俳壇ができるなど京文化の中心的役割を果たしますが、明治から昭和にかけてお茶屋や芸妓の数が減り、戦後、お茶屋組合が解散しました。

新選組ゆかりの「輪違屋」が有名です。
(元禄年間(1688~1704年)創業。輪違屋の天神(芸妓)糸里は、新選組の副長である芹沢鴨の側近、平間重助のお気に入りとされていますが、記録には残っておらずフィクションだと考えられています)
「輪違屋」は、現在も主に太夫の育成と宴会の場として置屋兼御茶屋の営業を続けています。
ただ「観覧謝絶」と書かれた札が掲げられており、見学は不可です。


〒600-8825 京都府京都市下京区西新屋敷中之町114

新町遊郭・飛田新地(大阪)

日本三大遊郭の一つである大坂新町遊郭は、現在の大阪市西区の新町エリアにありました。

新町遊郭は、幕府から公認された最初の遊郭の一つです。
17世紀初めの大坂城再建時から1956年の国法による禁止がなされるまで350年にわたり、花街として知られました。
現在の新町エリアは、落ち着いた街並みで治安が良く、住みやすい場所として評価されています。


飛田新地

現在の大阪では「飛田新地(とびたしんち)」が、遊郭の名残りが色濃く残っている場所として有名です。

飛田新地の歴史は浅く、明治末期に大阪ミナミ一帯を襲った大火災で全焼した難波新地に代わり、大正7年に大阪府大阪市西成区の山王3丁目あたりに作られました。
その後、大正時代後半から昭和初期にかけて最大級の遊廓といわれていました。

現在も遊郭の面影を残す歓楽街、料亭街として知られ、近年では海外からの観光客も増えています。

飲食店として営業している「鯛よし百番」の建物は、大正中期に妓楼として建てられたもので、2000年に国の登録有形文化財に登録されています。


〒557-0001 大阪府大阪市西成区山王3丁目5−25

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遊女・遊郭の歴史

では、遊女はいつ誕生し、遊郭はなぜ作られ

遊郭以前の遊女

古代〜中世に、巫女と遊女の両方の役割を兼ね備えた「巫娼」が存在し、「遊び女(あそびめ)」と呼ばれていたのが起源だとされています。

「遊」という漢字には、神様に舞や音楽を奉納し喜ばせるという意味があり、芸能に秀で、和歌にも長けた「遊び女」は、けっして蔑まれる存在ではありませんでした。
児島という遊び女の歌は万葉集にも選定されており、高い教養を持っていたことがわかります。

室町時代に入ると、遊び女から宗教性が失われていき、芸能に秀でた自由な女性の象徴となっていきますが、戦国時代を経て武士が台頭するようになると、その自由は少しずつ奪われていきました。

豊臣時代、江戸時代

遊郭の歴史は、豊臣秀吉が1585年(天正13年)に大坂と京都で公娼を集めたことに始まります。
1585年 秀吉は大坂の遊郭(道頓堀川北岸)を、
1589年 京都(二条柳町)を造り、武士の慰労のために訪れた記録が残っています。

この頃は、公家や武家と会話できる教養や知識を持ち合わせ、舞や楽器などの芸事に秀でた才色兼備の遊女たちが、宮中に招かれ芸を披露していたそうです。

また、遊女たちは塀や仕切りのない街の一角に集住させられるだけで、自由に出入りができていました。

徳川幕府にも引き継がれ、江戸吉原、大阪新町、京都島原、長崎丸山など全国に約20箇所の幕府公認遊郭が指定されると、高い塀が造られます。

京都の島原遊郭を模して江戸に作られた吉原遊郭には、犯罪者や非人となった女性、人身売買で売られてきた子どもなどが遊女にされることが多く、花魁など高ランクの遊女以外は自由のない生活を強いられていました。

吉原遊郭は、芸事ではなく性的目的が中心となり、庶民も遊べる娯楽の場として発展していったのです。

島原の乱のころ、出島や唐人屋敷への出入り資格を制限していた幕府ですが、長崎の丸山遊廓の遊女は例外として許可されていました。

長崎・出島へ赴く遊女たちは「紅毛行」、唐人屋敷へ赴く遊女たちは「唐人行」と呼ばれました。これが「からゆきさん」の語源です。

 

遊郭の終焉

日本の近代化が進む1872年(明治5年)、明治政府によって「芸娼妓解放令」が発令されました。
遊女屋は貸座敷と名称を変えただけで実態はほとんど変わっていません。

1900年(明治33年)以降、大正時代末期にかけて遊廓に反対する廃娼運動が盛り上がりをみせます。

第二次世界大戦後の1946年(昭和21年)にはGHQの指令により公娼制度が廃止されるものの、カフェーや料亭などと看板を変えて、遊廓はほぼそのまま「赤線」の通称で呼ばれる地域として存続。

1958年(昭和33年)4月1日に施行された「売春防止法」により公娼地域としての遊廓の歴史は完全に幕を閉じました。

東京吉原はそのまま風俗街に、大阪の飛田新地では料理旅館に転向しつつ営業を続けています。

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遊女とは

「遊女」は遊郭などで客を遊ばせる女性。
江戸時代やそれ以前「うかれめ」「あそびめ」「ゆうくん(遊君)」「けいせい(傾城)」などとも呼ばれていました。

遊郭で高級遊女を指名するためには莫大なお金が必要で、豪華な料理や高価なお酒、チップなども用意しなければなりません。現代の価格に換算すると、一晩でざっと300~500万円ほどかかったといわれています。

遊郭のトップに立つのが「花魁(おいらん)」や「太夫(たゆう)」で、美貌、教養、芸事の才能を併せ持つ遊女が選ばれました。

花魁と太夫の違い

花魁と太夫は、どちらも遊郭の最高位の女性を指す言葉ですが、次のような違いがあります。

・太夫は歌舞伎や浄瑠璃などの芸能に秀でた遊女を指すのに対し、花魁は娼妓部門の最高位を指すといわれています。

・太夫は舞や音曲のほか、お茶、お花、和歌、俳諧などの教養を身に付けていましたが、花魁はそうとは限りません。

・太夫は主に公家や大名、文化人などの上流階級の男性たちを接待していました。

・島原と新町では「太夫」、吉原では「花魁」と呼び方が異なっていました。

吉原で高級遊女を「花魁」と呼ぶのが一般的になるにつれて、全国的に「太夫」が「花魁」に変わっていきました。

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遊女の階級

遊女には、階級がありました。

たとえば、大坂新町の遊女の階級は、最も高い「太夫(たゆう)」から順に「天神(てんじん)」、「鹿子位(かこい)」、「端女郎(はしじょろう)」の4つに分類されていました。

階級は、時代や東西の地域により違いがあります。

太夫(たゆう)

京都島原・大阪新町の遊女のトップ。
遊女の最高位で、気位が高く、容姿や客あしらいが優れており、歌舞伎や浄瑠璃などの芸能に秀でているのが特徴です。
豪商の社交や商談の場、公家や大名の忍び遊びなどの場に出るため、秘密を守ることのできる知性が求められました。

花魁(おいらん)

江戸吉原のトップ。
江戸吉原で、主人が都の島原太夫を見て、店の遊女に真似をさせたのが花魁の始まりとも言われています。
禿(かむろ:見習い童女)や男衆が自分の仕える太夫や格子などを「おいらの(店の姐さん)」と呼ぶので「おいらん」と呼ばれ始めたとか。
吉原で花魁人気が出たため、全国的に「太夫」という呼び名が「花魁」に変化したと言われています。

格子(こうし)

江戸吉原のNo.2。
遊女の階級の一つで、太夫に次ぐ階級でした。
1617(元和3)年に江戸吉原に遊郭ができると、太夫に次ぐ遊女として「格子(こうし)」が登場。見世(道路に面している格子のついた部屋)に遊女たちが並んで客を待っていたことに由来しています。

天神(てんじん)

格子と同格。関西のNo.2。
太夫に次ぐ階級です。
名前の由来は、遊女をお座敷に呼ぶ揚げ代が25匁(もんめ)で、25日の北野天神の縁日と同じだったからと言われています。

鹿子位(かこい)

関西で「天神」と「端女郎」の間のランクの遊女。
正しくは「囲」と書き、島原では鹿恋と表記されていました。

散茶女郎(さんちゃじょろう)

吉原が火事に見舞われ日本橋から浅草に移転した際に新吉原に集められた遊女を指します。
会いに行ける庶民的アイドルのような特徴で人気がありました。
散茶というのは挽いて粉にしたお茶のことで、袋から振り出さずに湯に入れることから、格上の遊女のように客を振らないという意味があったとか。

他には、
遊女の最下位で、置屋がなく、店付茶屋に住み込んでいた「端女郎(はしじょろう)」や「局女郎(つぼねじょろう)」など、遊女の階級は時代や地域によって多少異なります。

 

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