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朝ドラ『ばけばけ』実在モデル一覧(八雲・セツ・フミ・司之介・銀二郎・勘右衛門・タエ・傅・三之丞・錦織・花田旅館・イライザ・梶谷)

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2025年度後期放送

NHK連続テレビ小説『ばけばけ』

こちらでは、朝ドラ『ばけばけ』の有情人物の実在するモデルについてご紹介いたします。

ドラマをより深く楽しむためにお役立ていただけましたら、幸いです。

 

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朝ドラ『ばけばけ』実在モデル一覧

実在モデル 役名 キャスト 役柄
小泉セツ 松野トキ 髙石あかり
福地美晴
ヒロイン 小泉八雲の妻
小泉八雲 レフカダ・ヘブン トミー・バストウ トキの夫 『怪談』などを著した文豪
蛇と蛙 蛇と蛙 阿佐ヶ谷姉妹
蛇:渡辺江里子
蛙:木村美穂
トキとヘブンを見守る 新婚時の屋敷の庭に住む
稲垣トミ 松野フミ 池脇千鶴 トキの母 孫を守って顔に傷
稲垣金十郎 松野司之介
岡部たかし トキの父 事業に失敗、無実の罪を着せられる
稲垣万右衛門保仙 松野勘右衛門 小日向文世 トキの祖父 前田為二に厳しい
小泉チエ 雨清水タエ 北川景子 トキの実母 子沢山だが物乞いに
小泉弥右衛門湊 雨清水傳 堤真一 トキの実父
セツに看病されるも51歳で亡くなる
小泉氏太郎 雨清水氏松 安田啓人 雨清水家長男 家を捨て駆け落ち
小泉藤三郎 雨清水三之丞 板垣李光人 雨清水家三男 セツの仕送りで暮らす
前田為二 山根銀二郎 寛一郎 松野家の婿 稲垣家から出奔
西田千太郎 錦織友一 吉沢亮 秀才英語教師 八雲とセツを取り持つ
本庄太一郎 庄田多吉 濱正悟 半分弱 西田の松江中学同期
教員試験全科目合格し教師に
籠手田安定 江藤安宗 佐野史郎 島根県知事 八雲を島根に
冨田太平・冨田ツネ・信
花田平太
花田ツル
ウメ
生瀬 勝久
池谷 のぶえ
野内 まる
花田旅館主人・女将・女中 八雲にセツを紹介?
エリザベス・ビスランド イライザ・ベルズランド シャーロット・ケイト・フォックス ヘブンの女友達 八雲亡き後、遺族に尽力
 岡本金太郎 梶谷吾郎 岩崎 う大 松江新報記者 山陰新聞社長から政治家に
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『ばけばけ』トキ実在モデル|小泉セツ

朝ドラ『ばけばけ』実在モデルである、小泉セツ・小泉八雲夫妻の生い立ちと出会いを年表を交えてご紹介いたします。

プロフィール

小泉セツ(小泉節子)
1968年(慶応4年)2月4日 〜1932年(昭和7年)2月18日
※戸籍上は「小泉セツ」ですが、本人は「小泉節子」と呼ばれることを好んでいたそうです。

生い立ち

1868年
江戸から明治への転換期に、松江の士族・小泉湊の次女として生まれた小泉セツさん。
節分に生まれたので「セツ」と名付けられました。
生後7日で遠戚である稲垣家に養女に入り、「お嬢」と呼ばれて大切に育てられますが、稲垣家は父が騙され、没落。
小学校の上等教科への進学は叶わず
11歳、実父の営む機織り工場の織り子として稲垣家を支えます。

18歳、士族の前田為二さんを婿に迎えたものの、為二さんは貧しさに耐えられず逃げ出します。

22歳、婚姻関係を解消して小泉家に戻ります。
困窮していたため、一人住まいの英語教師ラフカディオ・ハーンの家に住み込み女中として働き始めました。

「怪談好き」という共通点がある二人は、意気投合。
同居から半年後に結婚します。

ラフカディオ・ハーンさんはセツさんの語る日本の民話や伝説にのめり込みました。
3ヶ月後にはラフカディオ・ハーンの転勤で熊本に移住し、長男・一雄さんをもうけます。

夫婦は兵庫県神戸市に引っ越し。
セツさんは、執筆に専念する夫に民話を口頭で伝えていきます。

東京に引っ越し。
夫が亡くなった後も遺された遺産のお陰で困ることなく、三男一女( 小泉一雄(長男)、稲垣巌(次男)、小泉清(三男)、小泉寿々子(長女))を育て、64歳で亡くなります。

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『ばけばけ』ヘブン実在モデル|小泉八雲

プロフィール

小泉八雲(パトリック・ラフカディオ・ハーン)
(1850年6月27日~1904年9月26日)
※「ラフカディオ(レフカズィオス)」は出身地「レフカダ島の」という意味
日本では「ハーン(Hearn)」から「ヘルンさん」と呼ばれていました。
帰化名「八雲」は、一時期島根県の松江市に在住していたことから、「出雲国」にかかる枕詞の「八雲立つ」に因むとされています。

生い立ち

1850年
イギリス軍軍医少佐としてレフカダ島に駐在中の父と裕福なギリシャ人の母の間に生まれます。
1歳の頃、父が西インド転属したため、父の実家アイルランドに母と移住。
まもなく母が精神を病み、両親は離婚。
厳格なカトリックの大叔母に育てられ、逆にキリスト教嫌いになります。
16歳の時に片目を失明。
そのコンプレックスから内気な性格になっていきます。17歳、育ててくれた大叔母が破産。
カレッジを退学。
移民として渡米し、極貧状態を経験します。
得意のフランス語を活かし、20代前半からジャーナリストとして活躍。
24歳、黒人の血を継ぐマティ・フォリーと結婚。
当時のオハイオ州では黒人との結婚が違法とされていたため、最初に頼んだ牧師から断られ、次に依頼した黒人牧師により式が執り行われましたが、3年後に離婚。
40歳
出版社の通信員として来日したのですが、通信員ではなく英語教師になり、翌年結婚。
妻を一番の協力者として執筆を続け、生涯仲良く暮らしました。
54歳、狭心症で亡くなります。

代表作

『骨董(Kotto)』1902年
幽霊滝の伝説、茶碗の中、常識、他

『怪談(kwaidan)』1904年
耳なし芳一のはなし、むじな、ろくろ首、雪女、葬られた秘密、食人鬼、他
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『ばけばけ』松野司之介モデル|稲垣金十郎

稲垣金十郎(いながききんじゅうろう)
(1832年〜1900年11月19日)
セツさんの養父。

島根の士族(並士)。
子供好きで気のいい好人物だったと言われています。
稲垣トミさんと結婚しましたが、子宝に恵まれず、26歳の時に遠戚の小泉家から生まれたばかりのセツさんを養子にします。

その後、士族の家禄奉還の際に6年分の家禄を一括して受け取り、事業を始めようとしますが、詐欺に遭いました。

事業資金を騙し取られ、屋敷を明け渡しただけでなく、無実の罪まで着せられ、裁判費用で財産がなくなります。

最初の婿には逃げられますが、セツさんが2度目の結婚をすると、小泉八雲さんの赴任地で同居し。
1900年に胃潰瘍で亡くなります。

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『ばけばけ』松野フミモデル|稲垣トミ

稲垣トミ
(1834年〜1912年8月)

小泉セツさんの養母。

松江城下・北堀町に住む原忠兵衛(家禄100石)の娘として生を受け、幼少の時に杵築きづきにある高浜家(出雲大社の社家しゃけで、代々上官じょうがん(高級神官)を務める)の養女となり、成人するまで高浜家で過ごします。

2歳上野の稲垣金十郎さんに嫁ぐと、セツさんを養女として迎え入れました。

出雲大社上官を務める家に育ったトミさんは、出雲の神々の物語、生き霊や死霊のお話などをセツさんに物語り、大切に育てます。

妻のトミは二歳年下で、無学であったが、何事につけても器用で骨身を惜しまず立ち働く、実直で愛情豊かな女であった。
(引用『八雲の妻 小泉セツの生涯』長谷川洋二)

八雲さんの目には、働き者で無私の精神で家族に尽くす典型的な日本女性として映っていたようです。

78歳で亡くなるまで、八雲さんやセツさん、孫たちと穏やかに暮らしました。

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『ばけばけ』松野勘右衛門モデル|稲垣万右衛門保仙

六代目 稲垣万右衛門保仙(いながきまんえもんほせん)
セツさんの養祖父

稲垣家当主。
黒船来航以降、壱岐では砲術方を務め、大阪、京都御所の警備などにあたった人物で、武士としてのプライドが高かったようですが、セツさんのことを可愛がっていました。

藩主の「御子様方御番方」を務めてきたこともあって、大の子供好きであった。そのような次第で、稲垣家は養女のセツを迎えて大いに喜び、一家を上げて可愛がり、また、身分の高い家に生まれた女の子であるからといって「おじょ」と呼んで育てたのである。
(引用『八雲の妻 小泉セツの生涯』長谷川洋二)

また、小泉八雲さんの帰化名「八雲」は、

八雲立つ 出雲八重垣 妻籠つまごみに 八重垣つくる その八重垣を

という、クシナダヒメを娶ったスサノオノミコトの歌の「出雲」にかかる枕詞「八雲立つ」に因んで、保仙さんがつけたと伝えられています。

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『ばけばけ』雨清水傅モデル|小泉弥右衛門湊

八代目 小泉弥右衛門湊(こいずみやえもんみなと)
(1837年〜1887年)
セツさんの実父。
代々松江藩主松平家に仕えた小泉家の8代目。

青年時代から武芸に秀でており、1866年の長州戦争では、長州軍に鉄砲を浴びせ撃退するという武功をあげています。
軍の小隊長として号令をかける美声も評判でした。

明治維新後は、機織会社を設立し、社長として旧藩士の娘を集めて機を織らせます。
実の娘・セツさんも織り子として11歳から勤め始めますが、湊さんがリウマチ(免疫異常によって関節や臓器に炎症が起こる病気)を患うと、セツさんが人の世話の苦手な実母の代わりに看病します。

伏せっている湊さんは
「ああ、おシェさん、ありがとう。お前には済まん」
と何度もセツさんに感謝の言葉をかけていたそうです。

機織会社は倒産し、
セツさんが最初の結婚をした翌年
1987年に50歳で亡くなりました。

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『ばけばけ』雨清水タエモデル|小泉チエ

小泉チエ
(1838年3月21日〜1912年)
セツさんの実母。
代々「江戸家老」を務める家柄(小泉家よりも格上で家禄1500石)の塩見増右衛門の長女。

美人で、三味線にも長け、藩内でも評判の女性だったチエさん。
12歳で高位の侍に嫁入りしたことがありますが、婚礼の夜、寝所に姿を見せない新郎が、庭で身分違いの女性と無理心中をはかり、
14歳で小泉湊さんと結婚し、6人の子供に恵まれます。

何不自由なく暮らしていたチエさんですが、夫亡き後も働くことができず、物乞いになってしまいます。

セツの実母のチエは、ただ食べるために家に残る品々を次々と売り払った末、極端な貧困に陥った他の士族と同じように、人にじきを乞う身となったのである。
(引用『八雲の妻 小泉セツの生涯』長谷川洋二)

その後、セツさんからの仕送りを受けて、大阪に移住して暮らしました。
小泉チエさんは、セツさんと同居していた養母トミさんと同じ1912年に、大阪で息を引き取りました。

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『ばけばけ』雨清水氏松モデル|小泉氏太郎

小泉氏太郎
1858年3月21日〜
セツさんの10歳上の長兄
小泉家嫡男

父が病気になり繊維会社が倒産した後、町家の娘と駆け落ちしました。

19歳で亡くなった次兄の名前が小泉武松なので、両方の名前からつけられた「氏松」という登場人物名だったと思われます。

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『ばけばけ』雨清水三之丞モデル|小泉藤三郎

小泉藤三郎
1870年6月25日〜1916年
セツさんの2歳下の実弟
小泉家後継者に

藤三郎さんは小泉6人兄弟の5番目で、あまり学校に行かず、野山で鳥を捕まえては飼うことに夢中の日々を送っていたそうです。

父の会社が倒産し、
15歳の時に4歳上の次兄・武松さんが19歳で亡くなり、小泉家の次期当主の長兄・氏太郎さんも町家の娘と駆け落ちをして行方知れずになると、藤三郎さんは、突然、小泉家の後継者となりました。

17歳
リウマチを患い、寝床から動けないほどだった父・湊さんが、ある朝、突然立ち上がります。

「おのれ、親不幸者め。そちの腐れ根性を打ちすえてくれるわ」と叫ぶとともに、滅多打ちに鞭を振るい出した。家中がその場に駆けつけて湊を抑え、寝床に連れ戻したが、病人は喘ぐ呼吸とともに肋骨を波立たせるのであった。彼の病勢はにわかに高じ、間もなく齢五十一歳で亡くなったのである。
(引用『八雲の妻 小泉セツの生涯』長谷川洋二)

父の死後、先祖代々の墓を売り、セツさんには絶交されますが、セツさんが実母に送った仕送りで生活。

30歳、突然、東京に住む姉夫婦の屋敷を訪ね、八雲さんに叱りつけられ、その後まったく顔を診せなかったということです。

45歳、本籍を置いている住所の近くの空き家で亡くなっているところを、遺体で発見されました。

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『ばけばけ』山根銀二郎モデル|前田為二

前田為二(まえだためじ)
(1858年〜)
小泉セツさんの元夫
因幡(旧鳥取藩)前田家次男

28歳で10歳下のセツさん(18歳)と結婚し、稲垣家に婿入りしました。

為二さんも、セツさん同様に物語好きで、近松門左衛門の浄瑠璃ものを愛読するような人物でした。
セツさんが後に八雲さんに話して聞かせる『鳥取の蒲団』という怪談も、鳥取出身の為二さんから聞いたものだと言われています。

セツさんとは仲が良かったようですが、為二さんは婿入り1年足らずで失踪してしまいました。

理由は、
稲垣家の困窮ぶりと格下の前田家を見下し、稲垣家の家風を叩き込もうとする厳しい義祖父の態度に反発を覚えたからだと言われています。

ドラマでは東京へ逃げる山根銀二郎ですが、実際の前田為二さんは、大阪に逃げています。

これを突き止めたセツさんは、旅費を工面して大阪へ向かいます。
ですが、セツさんの必死の懇願は受け入れられず、為二さんは、セツさんを冷たい言葉で拒絶したのです。

1890年1月(32歳)
離婚届が正式に受理されました。
結婚してから4年、
逃げ出してから3年が経っていました。

後継ぎとして稲垣家に籍を残したままだった前田為二さん。
1901年8月、小泉八雲さんとセツさんに産まれた次男巌さんを稲垣家養子としることが決まり、
翌9月(43歳)、
失踪を理由にようやく除籍となりました。

働き者の前田為二さんは、大阪で商いをして成功を収めたということです。

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『ばけばけ』錦織友一モデル|西田千太郎

西田千太郎
(1862年11月9日〜1897年3月15日)
小泉八雲の勤務校の教頭にして親友

1862年11月9日
松江藩(現島根県)の足軽(下級武士)出身の西田半兵衛の長男として生を受けた西田千太郎さん。

西田家は、小泉セツさんの実の母・小泉チエさんの実家(塩見家)の家来筋だったとも言われています。

17歳
学年トップの秀才だった西田千太郎さんは、家が貧しく体が弱かったため松江中学を退学。
母校で生徒に教える授業手伝となりますが、教員免許がなく、独学で教員試験のため勉強をしました。

21歳で結婚し、翌年には長女が生まれます。

妻子を残し単身上京して、2年ほど外国人教師から英語や西洋の学問を学び、
23歳、東京で教員免許を取得。
姫路や坂出に赴任後
25歳、島根県尋常中学校の教諭となり
26歳、教頭に。
27歳
当時の籠手田安定島根県知事(『ばけばけ』江藤安宗モデル)が高待遇で小泉八雲さんを松江中学に迎え入れると、職務上はもちろん、資料収集や取材活動への協力を惜しまず、私生活の世話を焼き、八雲さんが不自由なく過ごせるよう尽力しました。

頭脳明晰だけではなく、親切で清廉だった西田千太郎さんは、「人格者」として多くの人に評価されていたそうです。

八雲さんは、親切で人間味あふれる西田千太郎さんのことが大好きになり、

「利口と、親切と、よく事を知る、少しも卑怯者の心ありません。私の悪い事、皆いってくれます、本当の男の心、お世辞ありません、と可愛らしいの男です」
と、褒めていたそうです。

小泉セツさんは、西田千太郎さんの仲介で小泉八雲さんと出会い、結婚したと話されています。

31歳、島根県私立教育会から功績賞を受けますが、
34歳、結核で亡くなりました。

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『ばけばけ』花田平太・ツル・ウメモデル|冨田太平・ツネ・信

ヘブンが松江で初めて泊まる宿「花田旅館」。
モデルは、文豪・小泉八雲さんが滞在した「冨田旅館」です。

冨田太平
冨田旅館の主人。
旅館経営以外にも、町内会にも積極的に参加し、地域活動に力を入れていた。

冨田旅館の主人である太平さんは、後述する女中・お信さんへの対応により、小泉八雲さんを怒らせ「不人情者」と呼ばれています。

冨田ツネ
(1859年生まれ)
八雲さん滞在当時、31歳の若女将。

みずから、小泉八雲さんとセツさんの出会いの仲介者の一人だと話されています。

小泉八雲さんの生活や人柄のディテールを語った内容が、貴重な資料となっています

お信
(1875年前後生まれ)
6歳から冨田旅館の女中として働く。

八雲さんが訪れた時14〜15歳だったお信さんは、八雲さんにとても可愛がられており、夏祭りや薬師参りに同行したエピソードが残っています。

1990年11月の「山陰新聞」では、
目を患ったお信さんを小泉八雲さんみずからお信さんを眼科に連れていき、治療費を支払ったというエピソードを、美談として報道しました。

さらに「西田先生が表面の晩酌人となっているかも知れませんが実際は申せばお信の世話でした。」
と女将ツネさんが話しておられ、小泉八雲夫妻との縁が深いようです。

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『ばけばけ』梶谷吾郎モデル|岡本金太郎

岡本金太郎
1860年6月8日〜 1926年3月22日
山陰新聞記者。
西田千太郎と同級生。
後に山陰新聞社長となり、政治の世界に。

『ばけばけ』「松江新報」のモデルは、当時小泉八雲さんのことを詳細に報道していた「山陰新聞」がモデルだと考えられます。

『山陰新聞』の当時の主筆(岡本金太郎)は、西田の中学の同期生であり親友である。
(引用『八雲の妻 小泉セツの生涯』長谷川洋二)

西田千太郎さんと同じ松江中学を卒業した岡本金太郎さんは、東京の専門学校に進み、島根に帰ってきて、山陰新聞に就職します。

当時「山陰新聞」で、セツさんのことを
「ヘルン氏の妾」「愛妾」と報道していたのですが、記事の主筆は、岡本金太郎さんでした。

の後、新聞社の社長にのぼりつめ、すぐ政治家へと転身されています。

44歳、第9回衆議院議員総選挙
松江市選挙区から「無名倶楽部」公認として立候補して当選。
66歳、その生涯をまっとうされました。

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『ばけばけ』イライザモデル|エリザベス・ビスランド

エリザベス・ビスランド・ウェットモア
Elizabeth Bisland Wetmore
(1861年2月11日〜1929年1月6日)
アメリカのジャーナリスト・編集者。
才知と美貌に恵まれ、実業家の妻となり、世界中を旅した女性。

1861年2月11日
アメリカ・ルイジアナ州セントメアリー郡のプランテーションで生を受けました。

12歳、新聞ニューオーリンズ・タイムズ・デモクラットに詩を投稿し始めます。

21歳、ラフカディオ・ハーン(小泉八雲)の記事を読み、ジャーナリストを志し、
八雲さんと同じ「ニューオーリンズ・タイムズ・デモクラット」で働き始めました。

28歳、企画のため、同じ女性記者のネリー・ブライと世界一周レースを競い、世界の注目を集めます。
その際に2日間日本に滞在し、小泉八雲さんに日本行きを勧めます。

30歳、法律家チャールズ・W. ウェットモアと結婚。
八雲さんがセツさんが結婚したのと同年です。

八雲さんとは生涯文通を続け、生前、家族のことを頼まれていたエリザベス・ビスランドさんは、八雲さんが亡くなるとセツさんとコンタクトをとり、方針を一緒に考えます。

八雲さんと交わした手紙を本にして、印税を遺族の手に渡るようにしたり、八雲さんの版権を手に入れたり、夫妻の息子の進学を考えたり。
セツさんと子供たちが不自由なく暮らしていけたのは、エリザベス・ビスランドさんの尽力のおかげでもあったとされています。

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