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大関和の家族一覧(両親・兄弟姉妹・夫・子供たち・子孫)

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2026年前期朝ドラ『風、薫る』では、栃木県の町で元家老の家に生まれた一ノ瀬りん(見上愛)と生後間もなく親に捨てられた大家直美(上坂樹里)のダブルヒロインが看護婦養成所を卒業後、医療現場で悩み、ぶつかり合いながらも成長していく姿が描かれます。

こちらのページでは、
朝ドラ『風、薫る』ヒロインのひとり、一ノ瀬りんのモデル・大関和(おおぜき ちか)さんのご家族(両親・兄弟姉妹・夫・子供たち・子孫)
についてご紹介いたします。

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大関和(おおぜき ちか)|家族一覧

大関和さんの家族を一覧表にまとめました。

生家
父:大関弾右衛門増虎だんえもんますとら
母:大関てつ
姉:大関八千代やちよ
弟:大関復彦ふくひこ
弟:大関まもる
妹:大関こく
婚家
夫:柴田豊之進福綱または渡辺福之進豊綱
子ども・子孫
長男:大関六郎
ろくろう

長女:大関しん
孫:大関一郎(六郎の子)
嫁:大関(澤本)操(息子・六郎と結婚)
親戚
姪:志村よしえ(姉・八千代の子)
甥:大関増博(弟・復彦の子)
姪:大関ノブ(弟・衛の子)
姪:大関美千代(弟・衛の子)
甥:川原さとし(妹・釛の子)
甥:川原博巳ひろみ(妹・釛の子)
その他:川原(鹿内)貞(甥・博巳と結婚)

 

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大関和の両親

父:大関弾右衛門増虎(だんえもんますとら)

大関弾右衛門増虎(おおぜきだんえもんますとら)
1826年(文政9年)〜1876年(明治9年)

代々200石の家柄で、下野国黒羽藩(現・栃木県大田原市)の国家老。
八千代やちよ・和・復彦ふくひこまもるこくの二男三女をもうけます。
次女・大関和さんは、32歳の時の子どもです。

幕府の軍事要職を歴任した英邁な下野国黒羽藩藩主・大関増裕さんの縁戚だった弾右衛門さんは、藩内で産出される硫黄(火薬の原料)の製造責任者を任されます。

1867年(慶応3年)12月8日
「王政復古の大号令」の日、藩主・増裕さんが非業の死を遂げると、家老職を辞し、一旦は家知事として地元に残りますが、和さんたち家族全員で上京し、商売を始めました。

家老職を辞す時、弾右衛門増虎さんは、和さんに
「今日より家禄二百石も家も屋敷も返上し、明日からは乞食するかもしれぬが、大関弾右衛門の娘に生まれた不幸と思え。」
と告げたそうです。

いわゆる「士族の商法」と揶揄される失敗を重ね病気がちになるなかで、弾右衛門さんは子どもたちに四書を講じ、「どんな時も学問だけは怠るな」と伝え続けました。
この言葉はその後の和さんの人生に大きな影響を与えます。

1876年(明治9年)50歳
18歳の和さんの縁談を整えた後、流行り病に倒れ、息を引き取りました。

母:大関哲(てつ)

大関哲(おおぜき てつ)
〜1912年(大正元年)

1868年、明治の幕開けとともに商売の世界へ身を投じた夫の傍らで、哲さんは幾多の辛苦を共に乗り越えてきました。

八千代やちよ・和・復彦ふくひこまもるこく。二男三女の母として家庭を支えましたが、長男・復彦の家出という、癒えぬ心の傷も抱えていました。

武家の誇りを矜持とする哲さんにとって、子どもたちが嗜む算術は「下級武士が身につける卑しいもの」に映り、眉をひそめずにはいられません。

一方で、娘の和には「布団が縫えねば嫁には行けぬ」と厳しく諭しました。あえて綿が寄りやすく、手練れを要する布団を一針一針に心を込めるよう徹底して仕込んだのです。

1876年(明治9年)、運命の暗雲が一家を襲います。

明治九(一八七六)年、弾右衛門は一八歳になった和の縁談をまとめると間もなく、五〇歳で流行り病に倒れた。このとき哲がなけなしの金をはたいて連れてきたのは、近所で評判の拝み屋であった。拝み屋の指示どおり疫病退散の札を貼り、まじないを唱えたが、弾右衛門は呆気なく逝ってしまった。
(引用『明治のナイチンゲール 大関和物語』田中ひかる)

大黒柱を失った哲さんは、和さんを嫁ぎ先へ送り出し、残された衛さん、釛さんを女手一つで育てる覚悟を決めました。

1880年(明治13年)
和さんは長男・六郎を連れて里帰り出産すると、そのまま婚家と離縁。
当時、女性から離縁を願い出ることはご法度でしたが、孫可愛さに親子を受け入れ、ここから「働く母、家を守る祖母」という二人三脚の生活が始まります。

和さんが女中奉公に出ると聞いた際は「元家老の娘が……」と難色を示した哲さんも、娘が当時「卑職」と蔑まれていた看護婦の道を志した時には、静かにその背中を押しました。

幼い孫たちの世話を一手に引き受け、和さんが職務に邁進できるよう家庭を死守したのです。

武士の妻としての誇りを持ち、名もなき「家庭の守り手」として全力を尽くした哲さん。
哲さんの無償の愛こそが、日本の看護の黎明期を支えていたのかもしれません。

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大関和の兄弟姉妹

姉:大関八千代(やちよ)

大関八千代(おおぜき やちよ)
志村家へ嫁ぎ、志村八千代に。

弟:大関復彦(ふくひこ)

大関復彦(おおぜき ふくひこ)
〜1907年(明治40年)

黒羽藩家老・大関家の嫡男として、輝かしい将来を約束されていたはずの復彦さん。
しかし、父が家老職を辞する意向を固めていたがゆえに、幼い復彦さんに与えられたのは、他の家老家とは比べものにならぬほど僅かな禄でした。その不条理な格差は、少年の心に深い影を落としたに違いありません。
復彦さんはやがて実家を飛び出し、消息を絶ちました。

放浪の歳月の中で、一人の女性との間に息子・大関増博さんを授かります。
しかし、生活は困窮を極めていました。

1907年(明治40年)。
和さんが運営する「東京看護婦会」の目と鼻の先、貧民街の湿った空気が停滞する薄暗い裏長屋。そこには、結核に冒され、死の影に怯える復彦さんの姿がありました。
偶然にも六郎さんの妻である操さんと出会ったことで、運命の糸が再びつながります。

絶縁状態にあった姉や老いた母・哲との再会。
かつての嫡男は、家族の温もりに包まれながら、日本赤十字社医療センターの前身である日赤病院へと収容されました。

7月16日、復彦さんはついに力尽き、息を引き取ります。
その静まり返った枕元には、まだ八、九歳ほどの幼き息子・増博さんが、父の最期をじっと見つめて立ち尽くしていました。

弟:大関衛(まもる)

大関衛(おおぜきまもる)

大関家のルーツである栃木県職員となり、栃木で結婚されています。

妹:大関釛(こく)

大関釛(おおぜきこく)・川原釛(かわはらこく)
1866年(慶応2年)〜

1866年(慶応2年)、
黒羽藩家老・大関弾右衛門増虎さんと妻・哲さんの間に、三女として産声を上げた釛さん。五人兄妹の末っ子として慈しまれた彼女は、情熱のままに突き進む行動派の姉・和さんとは対照的に、春の陽だまりのような「物静かで穏やかな性格」の持ち主でした。
1884年(明治17年)
18歳になった釛さんは、栃木県烏山町の川原健次郎さんに嫁ぎ、「川原釛」としての人生を歩み始めます。
諭さん、博巳さんという二人の息子を授かり、平穏な幸せを噛みしめていたある日のこと。姉・和さんから、亡き兄・復彦さんの遺児である増博さんを預かってほしいと懇願されます。釛さんは迷うことなく増博さんを迎え入れ、実の子と分け隔てなく深い慈しみをもって育てました。
しかし、1909年(明治42年)
43歳になった彼女を悲しみが襲います。最愛の夫・健次郎さんが急逝。大黒柱を失うという試練に見舞われたのです。
1912年(明治45年)46歳を迎える頃。
次男・博巳さんを東京専門学校(現在の早稲田大学)英文科へ進学させるため、釛さんは意を決して上京。子供の頃から育ててくれた姉・和さんと支え合う生活が始まります。
釛さんは、和が将来を嘱望し、目をかけていた鹿内貞さんと博巳さんの縁談をまとめ、家族の絆をより強固なものにしていきます。
そして、激動の時代を駆け抜けた姉がその生涯を閉じようとする時。その枕元で、静かに、そして温かく最期を看取ったのは、誰あろう釛さんでした。
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大関和の夫と姑

夫:柴田豊之進福綱/渡辺福之進豊綱

柴田豊之進福綱/渡辺福之進豊綱
1838年(天保9年)〜1925年(大正14年)

『風、薫る』原案『明治のナイチンゲール 大関和物語』においては「柴田豊之進福綱」、栃木県大田原市の資料においては「渡辺福之進豊綱」と記載されてます。

二人の年の差は、「20歳」。
1858年生まれの和さんに対し、夫となる渡辺福之進豊綱さんは1838年生まれ。親子ほども離れた結婚でした。
豊綱さんも黒羽藩の出身で、200石を食む士族。かつては物頭や砲術教示方を務め、戊辰戦争での軍功を引っ提げて、明治維新後は陸軍少尉として東京、熊本、広島の鎮台を歴任した筋金入りの軍人です。

明治9年(1876年)5月、増虎は50歳で死去しますが、この年、和は渡辺豊綱(わたなべとよつな)(1838‐1925)と結婚しています。
(引用:大田原市公式サイト)

1876年、38歳の豊綱さんにとって、この再婚は切実なものでした。妾との間には子がいたものの、死別した先妻との間に継嗣はおらず、名門・大関家の血を引く和さんを本妻に迎えることは、士族として「家」を繋ぐ重要なものでした。
大地主との縁談は、大関家にとっても決して悪い話ではありませんでした。

ですが、祝言にあたって交わしたはずの「妾との関係を清算する」という約束は、実行されません。
豊綱さんのそばには、千代さんという女性の影がありました。
戊辰戦争で夫子を失い、流浪の果てに黒羽へ辿り着いた千代さんは、家格の違いゆえに本妻にはなれませんでしたが、豊綱さんは別宅を構えて彼女との生活を続けます。
当時40歳前後だった千代さんは、豊綱さんにとって年の近い気心が知れた連れ添いだったのかもしれません。

この歪な家庭環境に、誇り高い和さんが耐えられるはずもありません。和さんはついに実家へ戻り、自ら離縁を突きつけました。
長男・六郎の親権を巡り火花を散らした二人でしたが、豊綱さんにとって六郎さんは「六番目の男児」であったためか、最終的には引き渡すことを承諾します。

その後、時代が激変する中で豊綱さんは生き抜き、
1925年、87年の天寿を全うされました。

夫の母

『風、薫る』原案『明治のナイチンゲール 大関和物語』の中では、大関和さんの反面教師として描かれています。

嫁入りした和さんに痩せた土地をあてがい、地主の嫁として米を作るよう言い渡した姑。和さんは一日の作業が終わらないと屋敷に入れてもらえませんでした。

和さんにとって生涯忘れられない事件が起こります。和さんの舅には複数の妾がおり、若い妾と同じ屋根の下で暮らし、和さんとも仲良くなっていたのですが、その若い妾がある日突然姿を消してしまったのです。

女郎屋に売られたのだと考えた和さんは深く悲しみます。そして、正妻として大地主のもとに嫁いだ姑もまた、幸せではないのだと気づきます。

この事件は、廃娼運動と和さんの関わりに影響を与えます。

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大関和の子ども・子孫

長男:大関六郎(ろくろう)

大関六郎(おおぜき ろくろう)
1877年(明治10年)〜1910年(明治43年)

1877年
和さんにとっては初めて抱く我が子でしたが、与えられた名は「六郎」。
父には何人もの妾がおり、すでに5人の男児がいたためです。

父と離婚した母が実家に戻り家計を一人で支えるなか、代わりに六郎さんの寂しさを埋めたのは、祖母・哲さんの慈愛でした。

六郎さんは、超難関の旧制第一高等学校(現:東京大学)を突破し、東京慈恵会医科大学の前身東京慈恵医院医学校へと進学。
秀才と呼ばれた六郎さんですが、医術開業試験にはなかなか合格できません。

1904年(明治37年)27歳
家に出入りする和さんの右腕看護婦・沢本操さんと結婚します。
定職を持たず試験に落ち続ける六郎さんに対して、操さんは優秀な看護婦でした。

1909年(明治42年)32歳
結婚から5年。夫婦の間にようやく息子・一郎さんが誕生すると、六郎さんは家族を置いて聖書販売の職を手に、単身東南アジアへと旅立っていきました。

和は操に対し、申し訳ない気持ちでいっぱいになる。生まれたばかりの一郎のことも不憫でならない。六郎にとって、子どもの存在は重圧でしかなかったのだろうか。
(引用『明治のナイチンゲール 大関和物語』田中ひかる)

1910年(明治43年)夏
わずか一年。灼熱の地・ジャワ島でマラリアに倒れた六郎さんは、33歳という若さで帰らぬ人となりました。

長女:大関心(しん)

大関心(おおぜき しん)
1880年(明治13年)〜1900年(明治33年)

1880年(明治13年)生まれ
母・和さんは、出産のため東京の実家へ里帰りした際、すでに父との離婚を固く決意しており、心さんは産声をあげたその時から、父の顔を知ることなく、母とともに歩む運命にありました。

幼い心さんにとって、和さんは憧れであり、同時に寂しさの象徴でもありました。
休みだけ自宅へ戻り、再び看護婦養成所の寮へと発ってしまう母。その背中を見送るたびに寂しさを噛みしめていたようです。

やがて成長した心さんは、母が学んだ養成所の母体・桜井女学校の後身である女子学院を卒業。母と同じ志を胸に「慈恵看護婦教育所」の門を叩きます。白衣を纏い、誰かの支えになろうと夢に燃えていた矢先のことでした。
1900年(明治33年)。
講義を受けていた心さんは、ふとした身体の異変に気づきます。「少し長引く風邪だろう」――そう自分に言い聞かせ、診察室の扉をくぐりました。ですが、医師から告げられたのは、当時不治の病として人々を震え上がらせていた「結核」という診断でした。
宣告から、わずか4ヶ月。
これから多くの命を救おうとしていた心さんですが、自身の命を繋ぎ止めることは叶わず、20歳という蕾のような若さで、天へと召されていったのです。

孫:大関一郎(いちろう)

大関一郎(おおぜきいちろう)
1909年(明治42年)〜

1909年(明治42年)
大関和さんにとって、目に入れても痛くないほど愛おしい初孫・一郎さんが誕生しました。一家の希望そのものでした。

しかし、運命はあまりに無慈悲でした。
一郎さんがようやく歩き始めた頃に、父・六郎さんが急逝。
さらに1915年(大正4年)、わずか6歳の時、
母・操さんまでもが34歳の若さでこの世を去ってしまいます。

たった数年のうちに両親を失い、深い喪失の淵に立たされた幼い一郎さん。その小さな手を力強く握りしめ、溢れんばかりの愛情を注いだのは、祖母である和さんでした。

かつて「日本初の看護婦」としての使命に燃え、多忙の極みにあった和さん。我が子の育児を母・哲さんに任せきりにしてしまったという、消えることのない負い目が和さんの胸にはありました。
「あの子にできなかった分まで」――。
その溺愛ぶりは、欲しがるものをすべて買い与えるほどで、周囲を驚かせました。
ですが、一郎さんが旧制中学へ進学する時期を迎えると、教育者としての顔を見せます。
より良い教育環境を求め、鎌倉の知人宅へ一郎さんを寄宿させると、そこから明治学院(現在の明治学院大学)へと進学させたのです。

1932年(昭和7年)、春。
一郎さんは明治学院を卒業し、立派な社会人として第一歩を踏み出しました。
その晴れ姿を見届け、心の底から安堵したのでしょうか。
同年5月、和さんは導かれるように、74年にわたる激動の生涯に静かに幕を下ろしました。

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