2026年NHK大河ドラマ『豊臣兄弟!』
第40話「あさひの輿入れ」
あらすじ
をご紹介しています。
お楽しみいただけると幸いです。
※ネタバレ含みます
大河ドラマ『豊臣兄弟!』第40話 あらすじ

石川数正の臣従

そなたが我らのもとに参ったとあれば、さすがの徳川殿とてこれ以上歯向かうことはできますまい。
石川数正が豊臣に臣従した――。
これにより、徳川家康との全面戦争を回避できるのではないかと、秀長は一縷の望みを託します。
書き置き
一方、腹心の出奔に浜松城はにわかに騒然。
家康は数正が残した書き置きを凝視し、悔しさを押し殺すように爪を噛み締めます。
たとえこの身はは豊臣につこうとも、我が心は殿とともにありまする
かつて「三方ヶ原の戦い」で武田軍に無残な大敗を喫したあの夜、家康は、二度と同じ失態を繰り返さぬよう自分を見守り、いさめてくれと数正に告げていました。
数正はその緊迫した約束を、一瞬たりとも忘れてはいなかったのです。
家康VS秀吉
ほどなくして、家康は北条氏政のもとへと密かに足を運びました。
数正の裏切りによって、家康が羽柴軍に膝を屈するのではないかと懸念を隠せない氏政。
しかし、家康は、そんな懸念を微塵も意に介さぬ姿勢を貫きます。

手の内を明かされた今の我らが攻撃を仕掛けるなど、敵も思うておりますまい。
今こそ攻め時きでござる
家康が着々と戦の支度にかかっているとの報を受け、秀吉は諸将を大広間に集め、高らかに軍令を告げました。

徳川はいまだ上洛に応じず。この関白秀吉の命に背き、真田との和睦をも拒んだ。
世を乱さんとする徳川を、このまま見逃すことはできぬ。
出陣の命が下り、並み居る家臣たちが一斉に平伏する中、秀長一人だけが葛藤に胸を締め付けられます。
天正地震
後日、秀長は数正と密かに酒を酌み交わし、流血を避けるために何とか家康の心を翻させるすべはないかと、必死に知恵を絞っていました。
その時、手元の盃がカタカタと不気味に揺れ始めます。
次の瞬間、視界が激しく歪み、大地を引き裂くような大激震が二人の体を直撃しました。
1585年(天正13年)11月29日。
中部から畿内一円を、突如として巨大地震が襲ったのです。
兄弟の再会
被害はあまりにも甚大でした。
寧々たちが怪我人の手当てや救援に奔走するなか、大坂城の天守には、静寂のなかで一人座り込む秀吉の姿。
そこへ、秀長が息を切らせて駆けつけます。
互いの無事を確認し、深く安堵する兄弟。
しかし、各地からの報告は絶望に満ちていました。
徳川との和睦へ
美濃の大垣城も近江の長浜城も無残に崩壊し、数多の兵が容赦なく瓦礫の下敷きになったという凶報の連続。
秀吉はじっと天を仰ぎ、重い決断を口にしました。

残った兵糧はことごとく民に分け与えよ。
もう戦などしている時ではない。
徳川と和睦する。
和睦の条件
それからおよそ二ヶ月。
秀吉は家康との和睦交渉を急ピッチで進めました。
その大役を担ったのは織田信雄。
ところが家康は、和睦を受け入れる代償として、秀吉の肉親を正室として迎え入れるという過酷な条件を突きつけてきたのです。
残された道はただ一つ、妹・あさひを差し出すこと。
しかし、あさひには副田吉成という愛する夫がいました。
秀長が「何とか自分が二人を説き伏せる」と名乗り出るも、秀吉は今回ばかりは譲らず、自らの足で二人を説得しに向かいます。
あさひの説得
秀吉から残酷な現実を切り出され、あさひと吉成はただ言葉を失うばかり。
秀吉はどれほど二人に感謝しているかを切々と語り、吉成には但馬の国を与えるという破格の恩賞を申し出ました。
しかし、その必死の訴えも虚しく、吉成は「離縁する気など毛頭ない」と頑なに拒絶。
ついに秀吉は、「逆らうなら厳罰に処す」と言い放ち、部屋を去ります。
あさひの決断
奈落の底に突き落とされた吉成は、あさひを連れて城を逃げ出すことを決意。
闇夜に紛れ、息を潜めて裏の通用口を抜け出す二人。
しかし、いざ門を出ようとしたその刹那、あさひの足がぴたりと止まります。
あさひが「やっぱり行けない」と、ぽつりと漏らした瞬間、闇の中から秀長や福島正則たちが姿を現しました。

密告があったのじゃ。
お主らが逃げるかもしれぬと。
あさひは家康もとへ嫁ぐという宿命を受け入れます。
あさひの輿入れ
1586年(天正14年)5月。
盛大なあさひの輿入れの儀。
生まれ育った家族と別れを告げ、あさひは浜松城の一室で、ついに宿敵・家康と対面します。
あさひは静かに、にっこりと微笑みを浮かべるのでした。
1585年11月29日(天正13年旧暦11月29日)
マグニチュード8.1前後と推定。
当時、豊臣秀吉と徳川家康は対立しており、秀吉は家康を討つための軍事行動を計画していました。
しかし、震源に近い美濃や尾張など秀吉側の地域で甚大な被害が出たため、秀吉は家康討伐どころではなくなります。
一方、家康の領地(三河など)は被害が比較的小さかったため、秀吉は軍事行動を断念せざるを得なくなり、のちに家康との和睦・臣従へと路線を転換したと言われています。
旭姫(あさひ)は、秀吉の命により当時結ばれていた夫と強制的に離縁させられました。
諸説ありますが、夫の副田甚兵衛(一説には吉兵衛)は、離縁後に自暴自棄となり出家したとも伝わっています。
1586年(天正14年)5月、旭姫は莫大な結納品や数千人の随行員と共に、家康の待つ駿府(静岡市)へ向かいました。
家康はあさひを「駿河御前」と呼び、正室として形式上は非常に丁重に迎えました。
新居として豪華な御殿を新築し、到着時には自ら出迎えて宴を催したと記録されています。
その一方で、徳川家内は「秀吉の毒殺謀略ではないか」と激しく警戒していました。家康は旭姫が持参した婚礼の膳に毒が入っていないか調べるため、豊臣側の人間に先に毒見をさせたという逸話も残されています。
44歳という当時としては高齢での再婚、しかも見ず知らずの敵地・徳川家へ、天下平定の人質として差し出される形となった旭姫。
翌年、病気の母(大政所)を公然の理由として京都へ戻ると、そのまま体調を崩してわずか数年後、48歳で亡くなっています。

