「空飛ぶかにいくら」へようこそ!

『ブラッサム』木村保(金子大地) 実在モデル|宇野千代の夫②藤村忠

スポンサーリンク
スポンサーリンク

2026年朝ドラ『ブラッサム』

こちらでは、金子大地さん演じる

木村保の実在モデル・藤村忠さん

についてご紹介します。

スポンサーリンク

『ブラッサム』木村保と藤村忠の共通点・相違点

木村保(きむらたもつ)
キャスト:金子大地
叔母・照子の次男であり、珠のいとこ。
学業優秀でユニークな一面を持つ青年。
泰然自若で、誠実な人柄もあいまって、不思議なオーラを放つ。

金子大地さん演じる木村保は、ヒロインのおばの次男である点、学力優秀という点が、藤村忠さんと共通しています。

一方で、ドラマの木村保はヒロインの実母の「妹」の子の子として描かれますが、史実の藤村忠さんは宇野千代さんの実母の「姉」の子だとされています。

スポンサーリンク

『ブラッサム』木村保モデル|藤村忠とは

プロフィール

藤村忠(ふじむら ただし・ただす)
婚姻期間:5年(1919〜1924)

藤村忠は、宇野千代さんの従兄で、2番目の夫です。
三高時代を京都で、帝国大学在時代を東京で、千代さんが懸賞小説の入選を経て作家デビューを果たす頃は、札幌で千代さんとともに過ごしました。

藤村忠さんは、宇野千代さんの自伝的エッセイ『生きて行く私』などで「藤村悟」という名で登場しています。

これは、忠さんへの罪悪感から名前と職業を変えて執筆したのだと、宇野千代さん自身が打ち明けておられます。

2人の間にどのような経緯があったのでしょうか。

スポンサーリンク

『ブラッサム』木村保モデル・藤村忠と宇野千代

兄嫁・宇野千代

1911年(明治44年)、14歳の宇野千代さんが父に命じられて嫁いだ先は、藤村忠さんの兄・亮一さんのもとでした。
しかし、祝言からわずか10日後、千代さんは実家に逃げ帰り事実上の婚姻解消となりました。

この頃の千代さんは、まだ夫の弟である忠さんの存在すら意識していません。

岩国(山口)での出会い

ふたりの距離が激変したのは、1916年(大正5年)の夏のこと。

同僚教師との失恋に深く傷つき、朝鮮から逃げるように実家へ戻っていた千代さん。ある暑い日、妹弟たちを連れて川沿いの屋台でかき氷を頼んでいると、ふいに声をかけられました。

「ありゃ、千代さんかいの。」

振り向くと、そこにいたのは元姑で伯母の藤村カツさん。そしてその隣には、三本線の学生帽を被った一人の青年がいました。
京都の第三高等学校(三高)から夏休みで帰省していた元夫の弟・忠さんです。
三高といえば岩国にも聞こえたハイスペック。この瞬間、千代さんは初めて藤村忠さんを強く意識したのです。

冬になると、忠さんから千代さんへ手紙が届きます。
「冬休み帰省するから広島まで迎えに来てほしい」

吸い寄せられるように広島へ向かった千代さん。
広島駅で忠さんはちらっと顔を見ただけで、千代さんに何も声を掛けません。こういう性格だと知っていた千代さんは、黙って後について行き、ふたりはそのまま広島で一泊し、関係が深まります。

さらに冬休みには、伯母から
「この袷の着物が縫い上がったら、京都の悟のところへ、あとで届けておくれんか。」
と頼まれ、千代さんは背中を押されるように京都へ発ちます。

そしてそのまま、知恩院の境内にあるわずか六畳一間の下宿で、ふたりの同棲生活が始まりました。

第三高等学校(京都)兄妹としての2年半

どこか顔立ちの似ていた二人は、世間の目を忍ぶため表向きは「兄妹」と偽って暮らし始めます。そのため千代さんは、忠さんを「兄ちゃん」と呼んでいました。

やがて忠さんの父親が定年退職し、実家からの仕送りが途絶えるというピンチが訪れます。
着物や大切な教科書を何度も質屋に入れながら、必死に日々の食卓をやりくりする貧しくも楽しい日々。
千代さんの支えもあり、忠さんは無事に学校を卒業できました。

東京帝国大学(東京)での苦学生時代

1917年(大正6年)9月、忠さんが東京帝国大学(法科大学政治学科)へ進学すると、二人は東京へ住まいを移し、髪結いの2階部屋などでの暮らしが始まりました。

大学に籍を置きながら、役所で働く忠さん。
千代さんもまた、雑誌社の事務員や家庭教師、さらにはレストラン「燕楽軒」のウエイトレスとして働き詰め、家計を支えました。このレストランは出版社の向かいにあり、有名編集者や作家と千代さんが知り合うきっかけを与えます。

1919年(大正8年)8月、苦労を乗り越えた二人は、両家の許しを得て正式に結婚します。

自伝的小説『生きて行く私』には、卒業を控えた頃、北海道で事業を成功させた伯父が突如現れ、「北海道へ来ないか」とまとまった資金を置いて去っていったエピソードも記されています。

北海道拓殖銀行(北海道)

1920年(大正9年)、東京帝国大学を卒業した忠さんは北海道拓殖銀行への就職が決まり、夫婦で札幌へと赴任しました。

裁縫が得意だった千代さんは、仕立て仕事でコツコツと貯めたお金で東11条に念願の小さな家を購入します。
家事の合間、静かな北の大地で千代さんが一人机に向かってペンを走らせたこと――これが、宇野千代さんを東京の文学界へ引き入れる運命の布石となりました。

妻・千代の作家デビュー

1921年(大正10年)、千代さんは忠さんが購読していた新聞『時事新報』の懸賞短編小説の募集を目にし、書き上げた作品「脂粉の顔(しふんのかお)」を投函しました。

結果はなんと「一等入選」。

彗星のごとく現れた天才として賞賛された「藤村千代」。
千代さんの胸の中では、抑えきれない文学への情熱が激しく燃え上がり始め、次作「墓を発く」を毎日毎日書き続けました。
そして、レストラン「燕楽軒」の向かいの「中央公論」編集長・滝田樗陰のもとに送ります。ですが、待てど暮らせど返事は来ません。

しびれを切らした千代さんは、家に汚れた洗濯物や洗い物を残したまま採否を確かめに一人で上京すると、「墓を発く」はすでに当時の文壇の檜舞台「中央公論」創作欄に掲載されていたのです。

妻の帰りを待ちわびて

東京で一躍脚光を浴び、作家としての才能を大きく開花させていく千代さん。
しかしそれは、忠さんとの穏やかな夫婦生活の終焉を意味していました。

千代さんは新進気鋭の作家・尾崎士郎さんと出会い、激しい恋に落ちていたのです。

札幌の家に帰ってこなくなった妻を心配し、意を決して会いに行く忠さん。

尾崎士郎との対峙

尾崎士郎さんの代表作『人生劇場』には、この時の忠さんが、”頭を綺麗に分けたほそ面の眼鏡越しに神経質な眼がチカチカと輝いている”「熊木一郎」として描かれています。

妻「小岸照代」からの手紙を読み、上京した熊木一郎は、妻の愛人「青成瓢吉あおなりひょうきち」に馴れ初めを話しながら、妻の手料理をともに囲みます。

そんなときにも何の屈託もかんじないではしゃいでるのは小岸照代だけだ。(中略)
熊木一郎はときどき沈痛な表情になって顔をしかめたり、唇を喰いしばったりしていたが、それさえも、今、彼の身辺をおびやかしつつあるところの事実に対してではなくて何かもっと遠く深い、――言わば彼の一生涯を支配しようとしている運命に対しておそれおののいているかんじである。

涙を流しながらも冷静さを保とうとする熊木一郎を「あっさりほこをおさめようとする敵」と感じる青成瓢吉。

「僕等は――」
熊木一郎の声がかすれてきた。「もう敵でもなければ、味方でもない人間になっていたんです。これが一つの事実だとしたら、やはり事実に当面するよりほかに仕方がないでしょう、僕もジタバタしないでこれから新しく立ちなおることにしますよ、唯、君に言いたいことは、僕がどんなに照代を愛していたかということだけです」

妻の不貞の事実に激しい衝撃を受けながらも、千代さんの覚悟を悟った忠さんは、言葉を飲み込み、静かに送り出すほかありませんでした。

その後、忠さんが両親を札幌に呼び寄せたと聞いた千代さんは、汚れ物を伯母に見られたと思い、きまりが悪かったそうです。

1924年(大正13年)協議離婚が成立すると、宇野千代さんは尾崎士郎さんと結婚。
「藤村千代」から「宇野千代」と名乗るようになりました。

スポンサーリンク

宇野千代の人生と藤村忠

宇野千代誕生のきっかけ

藤村忠さんは、単なる「夫の一人」というだけでなく、宇野千代さんを文学の世界へと引き寄せた重要人物として位置づけられています。

それまでも同人誌に応募していた千代さんに、高度な文学や知識、新聞・雑誌に触れる環境を与えたこと。

札幌時代の静かで安定した生活の中で、宇野千代さんの創作意欲を育んだこと。

千代さんの奔放な性格を理解し、「作家・宇野千代」の誕生を支えた人物でした。

 

【参考文献】
『生きて行く私』宇野千代
『人生劇場』尾崎士郎

タイトルとURLをコピーしました