1927年(昭和2年)7月24日の未明、薄暗い書斎で、大量の催眠薬を煽り、35年の生涯に自ら幕を引いた芥川龍之介。
夜が明けると同時に「天才・芥川龍之介、自殺」の凶報が日本全土を駆け巡ります。文壇のみならず、社会全体に激震が走ったこの一報。
号外が飛び交い、新聞各紙は一世を風靡した寵児の死を、ひとつの時代の終焉を告げる象徴的な大事件として大々的に報じました。
こちらでは、芥川龍之介の生涯とその死の理由についてご紹介いたします。
芥川龍之介とは
プロフィール
芥川龍之介(あくたがわ りゅうのすけ)
芥川龍之介(1892〜1927)は、『羅生門』や『鼻』などの名作で知られ、芸術至上主義の立場から人間のエゴイズムを理知的かつ洗練された文体で描いた、大正文学を代表する小説家です。
35歳で自死。
小説「葱」は、レストラン「燕楽軒」ウェイトレス時代の宇野千代をモデルにしたといわれています。
主な代表作
• 『羅生門』
• 『鼻』
• 『地獄変』
• 『藪の中』
• 『杜子春』
• 『河童』
• 『歯車』
自殺の概要
• 日時: 1927年(昭和2年)7月24日 午前
• 場所: 自宅
• 手段: 睡眠薬(ベロナール、ダイヤル)の致死量服用
• 命日: 「河童忌(かっぱき)」と呼ばれている
芥川龍之介|35年の生涯
生い立ちと恐怖
1892年(明治25年)芥川龍之介は、に牧場を経営する父・新原敏三、母・フクの長男として東京・明石町で生まれました。
翌年に母が精神を病んだため、由緒ある母方の芥川家に引き取られました。芥川家は御数寄屋坊主という、由緒ある家柄でした。
養父・道章をはじめ芸術や芸能を愛する家庭環境は、彼の芸術的センスに大きな影響を与えます。
10歳で母を亡くした芥川は、「自分もいつか精神を病むのではないか」という恐怖を生涯抱え続けました。
学生時代と文壇デビュー
芥川は菊池寛や久米正雄、山本有三らと同級生になり、ヨーロッパの世紀末文学を濫読しました。
1915年(大正4年)東京帝国大学に入学すると、夏目漱石の「木曜会」へ参加して彼を「師」と仰ぎ、同年に『羅生門』を発表。
翌年、第四次『新思潮』に載せた『鼻』が漱石に大絶賛されたことで、華々しい文壇デビューを果たします。
その後も『芋粥』などで作家としての地位を固めますが、1916年(大正5年)12月に敬愛する恩師・漱石が急逝。
呆然と葬儀の受付をしていた芥川は、弔問に訪れた文壇の巨頭・森鷗外と出会い、人生の大きな転換点を迎えます。
結婚と谷崎潤一郎との縁
1918年(大正7年)、26歳の芥川は一目惚れした16歳の塚本文(中学の友人の姪)と熱烈なラブレターの末に結婚。
「その理由は たつた一つあるきりです。さうして その理由は僕は 文ちゃんが好きだと云ふことです。(中略)繰返して書きますが、理由は一つしかありません。僕は 文ちゃんが好きです」
なお、宇野千代さんがレストラン「燕楽軒」でウェイトレスしていたのは、結婚の前年1917年(大正6年)で、「葱」の構想を得たのもこの頃だと思われます。
芥川と文に比呂志、多加志、也寸志という3人の息子に恵まれます。
この頃、のちに谷崎潤一郎の妻となる松子(当時は芥川のファン)との会食に谷崎を招いたことが、二人の馴れ初めとなりました。
松子に一目惚れした谷崎は、約700通ものラブレターを送り、のちに関西へ移住して名作を重ね、1935年(昭和10年)に結婚を果たすことになります。
忍び寄る精神の危機と困窮
1921年(大正10年)の中国旅行から帰国後、芥川は神経衰弱に陥り、翌年の森鷗外の死去も重なって精神的に行き詰まっていきます。
さらに、多くのファンの期待に応えようと「人に褒められるためのネタ」を探して執筆するようになり、自らを精神的に追い詰め、自作を客観視できなくなっていきました。
私生活でも、文と結婚したものの、歌人「秀夫人(秀しげ子)」ら人妻との不倫を繰り返すようになります。
彼女が産んだ男児が芥川に似ているという噂は、彼の神経を苛み、自殺の一因になったと言われています。文への遺書でも「過去の大事件」と言及されるほどでした。
さらに、自殺した年の正月には義兄の放火容疑と鉄道自殺が発生。残された姉家族の面倒や多額の借金がのしかかり、子供たちの成長とも重なって、生活費を稼ぐため困窮の中で原稿を書き続けなければなりませんでした。
谷崎との論争と早すぎる最期
1927年(昭和2年)、晩年の芥川は雑誌『改造』などを舞台に、谷崎潤一郎と激しい「小説の筋(プロット)論争」を展開します。
小説における「物語の面白さ」を主張する谷崎に対し、芥川は「文芸的な、余りに文芸的な」を執筆し、筋よりも詩的な「美」を求めるべきだと反論しました。
しかし、純粋すぎるゆえに自らを精神的に追い詰めた芥川は、自分がどこに美を求めていいのか見失い、自らの道を閉ざしていきます。
論争から間もない7月24日、「ぼんやりとした不安」を抱えたまま35歳で自ら命を断ちました。
芥川は、親しい友人や関係者に複数の遺書を残しています。
遺書には、睡眠薬(ベロナール、ダイヤル)を使ったことに対し、首つりや溺死といった醜悪な方法を避ける美的意識が綴られていました。
妻・文に宛てた遺書には
「僕は過去の生活の総決算のために自殺するのである。しかしその中でも大事件だったのは僕が二十九歳の時に秀夫人と罪を犯したことである。(中略)良心の呵責は感じていないが、自分の生存に不利を生じたことは後悔している」
と綴られ、
久米正雄への遺書には
「何か僕の将来に対する唯(ただ)ぼんやりとした不安」
と書かれていました。
芥川龍之介のの不滅の功績は、のちに友人・菊池寛が創設した「芥川賞」として、今もなお文学界にその名を轟かせています。
芥川龍之介|自殺の理由
芥川の死は大きな衝撃をもたらし、論争が巻き起こります。
そして主に3つの理由が重なったためではないかと考えられています。
- 心身の不調と発狂への恐怖
深刻な不眠症、胃腸疾患、神経衰弱に悩まされていた芥川龍之介。
実母が精神を病んでいたため「自分もいつか狂ってしまうのではないか」という強い恐怖を抱えており、実際に幻覚の症状もでていました。 - 家族からの経済的負担
1927年1月、義兄(姉の夫)が放火と保険金詐欺の疑いをかけられ鉄道自殺。芥川はその莫大な借金や残された遺族の面倒を一人で背負い込み、経済的にも精神的にも限界を迎えていました。 - 時代の転換期のプレッシャー
大正から昭和へと移り変わるなか、文壇では社会運動と結びついた「プロレタリア文学」が台頭。自身の芸術至上主義的な文学スタイルが時代遅れになっていくのではないかという、作家としての行き詰まりを感じていたといわれています。
芥川龍之介|年譜
| 西暦 和暦 |
年齢 | 出来事・作品 |
| 1892 M25 |
0 | 3月1日、東京市京橋区に生まれる。生後まもなく母の病気のため、引き取られた母の実家・芥川家で育つ。 |
| 1904 M37 |
12 | 伯父・芥川道章の養子となり、正式に「芥川」姓となる。 |
| 1910 M43 |
18 | 第一高等学校に首席で入学。 菊池寛や久米正雄らと親交を深める。 |
| 1913 T2 |
21 | 東京帝国大学英文科に入学。 |
| 1914 T3 |
22 | 同人誌『新思潮』を創刊。 処女作『老年』を発表。 |
| 1915 T4 |
23 | 『羅生門』を『帝国文学』に発表。 夏目漱石の門下に入る。 |
| 1916 T5 |
24 | 『鼻』が夏目漱石に絶賛され文壇での地位を確立。 大学卒業後、海軍機関学校の英語教官となる。 |
| 1918 T7 |
26 | 塚本文と結婚。 『蜘蛛の糸』『地獄変』などを発表。 |
| 1919 T8 |
27 | 職を辞し、大阪毎日新聞社に入社。 創作活動に専念。 |
| 1921 T10 |
29 | 新聞社の海外視察員として中国へ渡航。 心身の健康を損なう原因となる。 |
| 1922 T11 |
30 | 『藪の中』を発表。 |
| 1927 S2 |
35 | 晩年の傑作『河童』『歯車』を発表。 7月24日、「ぼんやりした不安」を理由に自宅で服毒自殺。 |


