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『ブラッサム』夏井銀児 (錦戸亮)モデル|東郷青児を愛した女性たち

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2026年朝ドラ『ブラッサム』

こちらでは、錦戸亮さん演じる

夏井銀児の実在モデル・東郷青児(とうごうせいじ)さん

についてご紹介します。

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『ブラッサム』夏井銀児と東郷青児の共通点

夏井銀児(なつい ぎんじ)
キャスト:錦戸亮
常識に縛られない生き方で、世間の注目を集める洋画家。

錦戸亮さん演じる『ブラッサム』夏井銀児と東郷青児さんの共通点は、「世間の注目を集める洋画家」という点です。

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『ブラッサム』夏井銀児 モデル|東郷青児とは

プロフィール

東郷青児(とうごう せいじ)
東郷青児(1898〜1964)は、柔らかな曲線と磁器のような滑らかな肌を持つ独特の女性像(青児美人)で戦後昭和の一世を風靡した、日本を代表する洋画家です。本の装丁や、有名な洋菓子店「モンブラン」の包装紙デザインなども手がけ、大衆に愛される芸術を追求しました。「二科会」会長。

【生没】
1897年(明治30年)4月28日〜
1978年(昭和53年)4月25日
享年80歳

【本名】
東郷 鉄春

【出身】
鹿児島市稲荷馬場町(鹿児島市稲荷町)

【学歴】
余丁町小学校→
青山学院中等部→
リヨン美術学校(リヨン国立高等美術学校)

【代表作】
『望郷』(1959年)
『超現実派の散歩』(1929年頃)
『黒い手袋』(1933年)
『タッシリ』(1974年)

【死因】
急性心不全

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『ブラッサム』夏井銀児 モデル|東郷青児の経歴

東郷青児さんの経歴をまとめてみました。

年譜

年齢 西暦
和暦
出来事
0 1897
M30
鹿児島県鹿児島市に生まれる。本名・鉄春。
幼少期に東京に転居。
17 1914
T3
青山学院中等部(中学部)を卒業。
「青児」の名はこの卒業に由来する。
19 1916
T5
19歳で出品した作品『パラソルさせる女』が第3回二科展で二科賞を受賞し、初期の前衛画家として鮮烈なデビューを果たす。
23 1920
T9
9月西宮の資産家令嬢・永野明代(はるよ21歳)と結婚。
24 1921
T10
フランスへ留学し、リヨン美術学校などで学ぶ。
明代夫人も身重の体でパリへ追いかけ、現地で長男・志馬(しま)を出産。
ピカソや藤田嗣治ら当時の最先端の芸術家たちと交流し、未来派やシュルレアリスムの影響を受けた前衛的な制作活動を行う。
26 1923
T12
関東大震災が原因で実家(明代の弟)からの仕送りが途絶え、明代夫人は長男と帰国。
31 1928
S3
5月帰国。
6月海軍少尉令嬢・西崎盈子(みつこ19歳)に初対面で結婚を申し込むも、盈子の親の反対で破局。
9月第15回二科展で昭和洋画奨励賞を受賞。
32 1929
S4
明代夫人との離婚協議が難航するなか
2月、資産家令嬢・中村修子(20歳)と挙式。
3月、修子との新居に西崎盈子を連れ込み、ガス心中未遂事件を起こす。
睡眠薬を飲み、ガスを放ったうえで、剃刀で喉を切り裂くという壮絶なものだったが、発見が早く、一命を取り留める。
中村修子と破局。
西崎盈子は実家で軟禁。
5月、取材を通して宇野千代(33歳)と知り合い、その日から同棲を始める。
34 1931
S6
二科会の会員となる。
西崎盈子が別の男性と結婚。娘を授かる。
36 1933
S8
西崎盈子と再会し同棲。
宇野千代と破局。
永野明代と離婚。
迫田千万億「自由が丘 モンブラン」創業
包装紙に美人画が採用。
39 1936
S11
西崎盈子の離婚成立。
41 1938
S13
麻雀賭博で検挙。
42 1939
S14
西崎盈子の妊娠を機に入籍。
43 1940
S15
長女・たまみ誕生。
64 1961
S36
二科会会長に就任
80 1978
S53
4月25日、第62回二科展出席のため訪れていた熊本市にて、急性心不全のため死去。80歳没
没後2年 1980
S55
妻・盈子没。
没後5年 1983
S58
娘・たまみが父の性愛日記を公開。

 

二科賞

青山学院中学部を卒業後、山田耕筰の研究所にアトリエを提供されて制作に励んだ東郷青児は、18歳で初の個展を開催し、画家・有島生馬に師事していました。
翌年の第3回二科展で「パラソルさせる女」が二科賞を受賞し、日本の初期アヴァンギャルド(前衛美術)の旗手として注目されます。

フランス留学

24歳でフランスリヨン美術学校に留学。
パリではピカソらと交流を持ち、ルーブル美術館で西洋の古典名画(ダ・ヴィンチやラファエロなど)の甘美な女性像に感銘を受け、キュービズムやシュルレアリスムを吸収しながら、幾何学的構成と抒情性を融合させた独自のスタイルを築いていきます。

「モダニズム文化」の寵児へ

日本に帰国後、滞欧作を二科展に出品して第1回昭和洋画奨励賞を受賞。
震災から復興を遂げる東京のモダンな都市文化に広く受け入れられ、シンプルでしゃれた挿絵や装幀、壁画や舞台装置などのデザインを精力的に手がけました。

二科会の再建と美術界の重鎮へ

東郷青児は終戦直後の1945年(昭和20年)8月19日、疎開中の幹部から名簿や印鑑を譲り受け、若い画家を集めて二科会を再建。

二科会を再建したというより、二科会をまんまと乗っ取った、と言われても仕方がないかも知れない。(『心寂しき巨人東郷青児』田中穣)

その後、1961年(昭和36年)には会長に就任して大企業から寄付を募り、海外交流を推進するなど、「二科会のドン」として長年組織を牽引しました。

晩年にはアフリカやアラブ諸国への旅から刺激を受け、荒々しいタッチのデフォルメや彫刻・版画など、確立した自身の画風をさらに壊して前進するような作風にも挑んでいます。

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『ブラッサム』夏井銀児 モデル|東郷青児を愛した女性たち

東郷青児のタイプの女性は一貫して
「長身で色白で、細くて長い首と手足を持つ、美しい才媛」
そして裕福であることが条件でした。
女性達とのエピソードをご紹介します。

岸たまき

岸たまき(1882年生まれ)
絵葉書店「つるや」オーナー

1914年(大正3年)青山学院中等部を卒業した17歳の東郷青児は、日本橋呉服町に竹久夢二が開いた絵草紙屋「港屋」に出入りし、下絵描きなどを手伝っていました。

夢二の別居中の妻・岸たまきは青児を気に入ります。
ある夜、たまきの家に宿泊していた青児のもとへ夢二が突如乱入し、裸で逃げ出す青児をバットを持って追いかけ回すという騒動を起こします。

さらに、青児と出かけようとするたまきの着物を刃物でズタズタに切り裂くなど、その行動はエスカレート。

そして翌1915年(大正4年)、二人の仲を疑い続ける夢二は、出張先の富山県の海岸にたまきを呼び出します。

そこで短刀を突きつけ、髪を掴んで振り回しながら青児との関係を責め立てた末にたまきの左腕を刺し、破局を迎えたとされています。

永野明代と結婚

永野明代(1899年生まれ)
梅華女学校卒

1920年(大正9年)9月、23歳の東郷は2歳下の永野明代(はるよ)と結婚します。

明代は代々続く兵庫西宮の資産家の次女。
明代の父・永野寿造は東京帝国大学医学部を出た後、大阪で眼科を開業していましたが、結婚の前年2月に亡くなっています。

遺産を相続した明代及び永野家を相続した弟の支援で、東郷は翌年に明代を日本に残して渡仏。

現地で合流して長男・志馬を授かりますが、遺産が底をつき、明代は先に帰国しダンサーやバーの女給をして家計を支えます。

その後、長きにわたり別居と離婚協議が続くことになります。

西崎盈子に一目惚れ

西崎盈子(1909年生まれ)
お茶の水高等女学校→日本女子大家政科卒

1928年(昭和3年)5月7日に帰国した東郷は、6月下旬、不二家でお茶をした女子大生の一人・西崎盈子(みつこ)に一目惚れします。

彼女の明眸と、すこやかな指と、かたく結んだ唇から、彼女の内部に波打っている純粋な姿を初一見で感じつくした。
(『情死未遂者の手記』東郷青児)

しかし、盈子はエリート海軍少将の令嬢です。
戸籍上の妻子があり素行も奔放な東郷との交際を盈子の厳格なクリスチャンの家族が許すはずもなく、二人は一度引き離されました。

中村修子と重婚

中村修子(1909年生まれ)
良家の子女のための英語塾卒

盈子と引き離された失意のなか、阿部金剛の紹介で会った少女のうちの一人が中村修子でした。

日本の娘にしては珍しい整つた脚の線を組み合せて、少し腫れぼつたい顔から病身らしい特有な微笑を洩らした
(『情死未遂者の手記』東郷青児)

初対面で明代と盈子の話題を振ってきた修子は、東郷好みの派手で裕福な女性でした。

1929年(昭和4年)2月、東郷は実業家中村幹治の令嬢である中村修子と婚姻関係を結ばないまま既婚の身で結婚披露宴を強行し、周囲を驚かせます。

毎週水曜になると帝国ホテルのダンスパーティーに繰り出す二人。

西崎盈子と心中未遂

そんな修子との新婚生活が始まったばかりの1929年(昭和4年)3月30日、東郷は関係を密かに復活させていた西崎盈子と新居の寝室にこもり、ガスを放ったうえで剃刀(メス)で互いの首を切り裂くという壮絶な心中未遂事件を起こします。

洋画の鬼才東郷青児氏
愛人と情死を企つ
ゆうべ大井鹿島谷の自宅で
ガスを放ち咽を切る
(「朝日新聞」昭和4年3月31日)

女中の発見が早く、二人は一命を取り留めましたが、少将令嬢と鬼才画家のスキャンダルとして新聞各紙に大々的に報じられました。

修子も盈子もこの事件を機に実家へ連れ戻されています。

宇野千代と同棲

宇野千代(1897年生まれ)
人気女流作家

1929年(昭和4年)5月、心中事件のわずか1ヶ月後、首にまだ白い包帯を巻いていた東郷のもとへ、小説『罌粟はなぜ紅い』の取材のため作家の宇野千代が訪ねてきます。

二人は意気投合し、出会ったその日から同棲を開始するという驚異のスピードで深い関係になりました。

お互いに大きな失恋やスキャンダルの直後であり、傷を癒やすための避難所のような関係だったとも言われています。

世田谷にモダンな洋館を建てて暮らし、千代は東郷の絵を売り歩いて支えました。
夫・尾崎士郎に手紙と離婚届を送り、正式に独身に戻った宇野千代。

私たちは結婚式をする代りに、知人に当てて、私たちが結婚したことを知らせる刷り物を、それぞれに送ったのであった。
(『残っている話』「遠い過去」宇野千代)

それを受け取った梶井基次郎が「しょうもない奴と結婚しやがって」と言った話も残っています。

東郷の離婚が成立しないうちに結婚を周知していることから、ただの同棲ではなかったことがわかります。

また、千代はこの心中事件をモデルにした私小説『色ざんげ』を執筆し、文壇で確固たる地位を築きます。

千代は後年、「一番好きだったのは尾崎士郎、二番目に好きだったのは東郷青児」と語っており、別れた後もその才能を愛し続けました。

西崎盈子の結婚

西崎盈子は、青児と宇野千代の同棲を知り、長唄の杵屋千代の孫・北条千吉氏と1931年(昭和4年)に結婚し、一女を儲けています。

西崎盈子と再婚

1933年(昭和8年)に最初の妻である明代との離婚が正式に成立。

東郷はかつて心中を図った西崎盈子と再びヨリを戻し、宇野千代と破局。
1934年(昭和9年)に正式に結婚(入籍は1939年)しました。

1940年(昭和15年)には、長女・東郷たまみ(のちに歌手・画家として活躍)が誕生します。

晩年盈子と添い遂げる形にはなったものの、娘の東郷たまみ氏の証言によると、結婚後も東郷の浮気は絶えず、晩年の夫婦間にはほとんど会話がなくなっていたとされています。

(なお、東郷青児と別れた後、永野明代も再婚し、中村修子も外国人医師と結婚、宇野千代も北原武夫と再婚しています。)

 

”美術界の太宰治”とも称されるほど破天荒だった東郷青児ですが、これらの激しい情熱と泥沼の愛憎劇こそが、のちに大衆を魅了した甘美な「青児美人」のインスピレーションの源泉となっていたのかもしれません。

 

東郷青児のまとまったコレクションは、東京・新宿にある「SOMPO美術館(旧・東郷青児美術館)」に遺族から寄贈された作品を中心に多数収蔵されており、初期の貴重な前衛画から晩年の作品までその足跡を辿ることができます。

 

【参考文献】
『情死未遂者の手記』東郷青児
『心寂しき巨人東郷青児』田中穣
『東郷青児論 昭和怪物伝』大宅壮一
『残っている話』宇野千代
「朝日新聞」昭和4年3月31日

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