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鈴木雅|『風、薫る』大家直美モデル

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女性の職業自立が難しかった明治期、日本初の看護婦派遣団体「慈善看護婦会」を立ち上げた鈴木雅さん。

26歳でシングルマザーとなり、苦難を乗り越えながら看護の社会的地位と労働環境の改善に尽力した、知られざる先駆者・鈴木雅さんの生涯と功績をご紹介いたします。

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鈴木雅とは

プロフィール

鈴木雅
1858年2月9日(安政4年12月26日)〜
1940年(昭和15年)6月11日

女性の自立が困難な時代、新しく誕生した看護という仕事を「専門的な職業」として世の中に広く浸透させ、その存在価値を人々に伝えていった最前線の一人。
最大の功績は、日本初の看護婦派遣団体「慈善看護婦会」の立ち上げです。

家族

父・加藤信盛(1834年〜1902年)
母・田邉トヨ(1839年〜1915年)
妹・照代(9歳下)
弟・保太郎(11歳下)
夫・鈴木良光
息子・良一
娘・美津

 

経歴

18歳|フェリス・セミナリー入学
20歳|結婚
23歳|共立女学校(横浜共立学園)入学説あり
25歳|夫と死別
28歳|桜井看護学校入学
30歳|附属第一医院内科(東大病院)
33歳|「慈善看護婦会」設立
35歳|「東京看護婦会」に改称
43歳|引退
82歳|没

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鈴木雅|生涯

語学力に長けた才女

1858年2月9日(安政4年12月26日)
鈴木雅さんは、静岡の士族である加藤信盛さんとトヨさんの長女としてこの世に生を受けました。のちに活動を共にする大関和(おおぜき・ちか)さんより、1歳年上になります。

父の信盛さんは、「鳥羽・伏見の戦い」から旧幕府軍が降伏することになる「箱館戦争」までを不屈の精神で戦い抜いた幕臣。

母のトヨさんは、江戸幕府において諸大名との連絡や折衝、大奥や江戸城の警備などを担う「御留守居組」田邉家の長女。

新しいものを受け入れる柔軟な心を持っていた鈴木雅さんは、横浜のフェリス・セミナリー(フェリス女学院大学)で英語を学んだとされています。

雅の孫の鈴木康夫さんが遺した手記『次代への申し送り』には、「フェリスで覚えた英語を役立て、その頃多かった外国人医師の通訳として活躍した。時代の先端を行く彼女は、洋服を着てかの有名な鹿鳴館にも通ったそうである」という記述があります。
(引用『婦人公論.jp』)

夫と死別、看護への道

1878年(明治11年)20歳頃、
父親と同じく静岡県の士族の家系である鈴木良光(よしみつ)さんと結婚。
良光さんは陸軍の歩兵少佐を務めており、1877年(明治10年)に起きた西南戦争では大隊長として輝かしい武功を立てた人物でした。

結婚してからも、鈴木雅さんは多くの女性留学生を輩出した名門・共立女学校で学び続ける勉強熱心な女性だったという情報も存在します。

長女(みつさん)と長男(良一さん)を授かりますが、良光さんは西南戦争で負った脚の銃創が原因で体調を崩し、1883年(明治16年)に仙台の陸軍病院で帰らぬ人となってしまいます。

こうして鈴木雅さんは、わずか26歳という若さで、4歳と2歳という幼い二人の子どもを育てるシングルマザーとなりました。

夫が亡くなったとき、「自分がもっとしっかりとした看病をしてあげられていれば」と、強い悔しさを抱いたそうです。この痛切な経験こそが、鈴木雅さんが看護の専門道を歩むきっかけとなりました。

同時に、「二人の幼い子どもを一人で養わなければならない」という現実は、鈴木雅さんの人生を紐解くうえで大きな意味を持っています。

鈴木雅さんにとって看護の世界に入ることは、単なる人道的な理想の追求だけではなく、母親として我が子たちを無事に育て上げる生活基盤を築くための挑戦でもあったのです。

近代看護の修得、盟友・大関和との出会い

1887年(明治20年)1月28歳、
鈴木雅さんは、かつて学んだとされる共立女学校の同窓生である桜井ちかさんが設立した桜井女学校附属看護婦養成所の門を叩きます。

こちらは黎明期の日本において、最も早い段階から本格的な看護指導を行っていた教育機関であり、近代的な看護のあり方を体系的に学べる先進的な場所でした。

そこで生涯の同志となる大関和さんと運命的な出会いを果たします。

高い英語力を持っていた鈴木雅さんは、外国人教師・アグネス・ベッチさんが行う講義や医療現場での実践指導の現場で、みずから通訳を買って出て、他の学生たちを牽引したそうです。

東大病院での勤務と葛藤

その後、帝国大学医科大学第一医院(東京大学病院)に採用され、看護の実務に就いたものの、近代的な知識を身につけた鈴木雅さんを待っていたのは、理想とは程遠い病院の古い因習でした。

当時の医療現場では、看病婦は病人の看護だけでなく、雑用を行うことが常態化しており、さらに、十分な休息や交代のシステムも整っていなかったため、看護にあたる女性たちは疲弊しきっていました。
これでは、患者の体調の変化を見逃さず、質の高いケアを提供することなど到底できません。

また、病院を利用できるのは経済的に余裕のある一部の人々に限られているという現実にも直面します。

日本初「派出看護婦会」の立ち上げ

次なるステップを模索する鈴木雅さんは、大関和さんがが帝大医科大学を辞職した翌年の1891年(明治24年)33歳で第一医院を去り、女子学院となった桜井女学校を訪れました。

すると恩師マリア・トゥルーさんが7年ぶりの休暇を得て、アメリカに帰るという話を聞くことに。

すでにツルーはこのとき体調をくずし、船で二〇日以上かかる船の旅の無事が心配される状態だった。鈴木はツルーに付き添ってアメリカへ行き、そこで新しい看護学の研究のために留学することを思いついたのだった(『女学雑誌』第二六〇号、明治二四年四月一一日)。
四月一一日、ツルーが出発することになったが、その直前になって鈴木雅は人力車と衝突するという事故にあい、渡航を断念せざるを得なくなったのだ。その後、回復した鈴木は、独力で派出看護婦会を設立することを思い立ち、同年一一月には本郷森川町一番町一七〇号に「慈善看護婦会」の看板を掲げた。
(引用『大風のように生きて 日本最初の看護婦大関和物語』)

「患者さんのための看護をより高いレベルへ引き上げたい。
けれど、病院という組織の中にいるだけでは変えられない。
それなら、病院の壁を越えて、社会の仕組みそのものを新しく作ればいい」

理想の看護を目指し、看護の専門家を家庭などへ派遣する組織を考えついたのでした。

看護の歴史に関する記録では、1891年(明治24年)に鈴木雅さんが立ち上げた「慈善看護婦会」が、日本における最初の派出看護婦会であると位置づけられています。

鈴木雅さんは欧米の先例にならってこの会を組織し、病院に行けない在宅の患者さんへの往診看護をスタートさせました。さらに、治療費を払えない貧しい人々に対しては無償で看護を提供するなど、当時の社会常識を覆す非常に先進的な活動を行います。

一方で、鈴木雅さんは看護を「女性の確固たる職業」として自立させることにも尽力しました。
どれほど尊い奉仕であっても、それに見合う正当な報酬が得られなければ、女性たちの生計は成り立たないと考えたからです。

鈴木雅さんは、適正な価格設定として、看護婦の格を四等に分け、一日の派出料を定めます。会則には、
一等70銭、二等50銭、三等30戦銭、四等20銭
(伝染病の場合は、一等1円、二等75銭、3等50銭)
と記されています。

さらに、「看護婦への関係のない雑用依頼の禁止」や「重症患者の看病を終えた後の確実な休日の確保」など、今でいう労働環境の改善に向けた明確な規則も制定しました。

1893年(明治26年)移転に伴い、名称を「東京看護婦会」に変えると、
1895年(明治28年)妹の照代さんを会長代理に立て、
1896年(明治29年)38歳には、盟友である大関和さんがこの派出看護婦会の会長に就任しました。
引き継がれた派遣看護の取り組みは、多くの人々を救い、日本の社会にしっかりと根づいていくこととなっていきます。

長い隠居生活

鈴木雅さんは、引退を機に、体調を崩した息子・良一さんとともに、東京の小石川から京都の稲荷山、そして静岡の沼津へと居を移し、地域の人に看護を施しながら暮らしていたと考えられています。

沼津では娘のみつさんとお孫さんも加わり、にぎやかな暮らしとなりました。

1940年(昭和15年)6月、良一さんを亡くした2年後に、鈴木雅さんも82歳で天寿を全うされました。それは、大関和さんが亡くなってから8年後のことでした。

【参考資料】
『大風のように生きて 日本最初の看護婦大関和物語』ドメス出版
『婦人公論.jp』
『明治のナイチンゲール 大関和物語』中央公論社

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