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『風、薫る』大家直美モデル鈴木雅家族一覧(父母・兄弟・夫・子ども・子孫)

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『風、薫る』大家直美モデル鈴木雅さんは、
女性の自立が困難な時代、新しく誕生した看護という仕事を「専門的な職業」として世の中に広く浸透させ、その存在価値を人々に伝えていった最前線の一人。
日本初の看護婦派遣団体「慈善看護婦会」の立ち上げを行った人物です。

こちらでは、鈴木雅さんの両親・兄弟・夫と子どもなど、ご家族について紹介いたします。

父・加藤信盛
母・田邉トヨ
妹・照代(9歳下)
弟・保太郎(11歳下)
夫・鈴木良光
息子・良一
娘・美津
孫・康夫

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鈴木雅の父母

父|加藤信盛

加藤信盛
1834年(天保5年)
〜 1902年(明治35年)12月22日

京都見廻組の浅川権三郎と、上総の医師・岡野養庵の娘との間に生まれた信盛さん。「千三郎」とも呼ばれていたことから、浅川家の三男として育ったと考えられます。

娘の雅さんが生まれた翌年1859年(安政6年10月)、25歳のときに加藤銀次郎さんの養子となりました。

養子先の加藤家は三河出身の旗本で、当時は緑豊かな小石川に居を構えていました。
信盛さんは「鳥羽・伏見の戦い」から「箱館戦争」に至るまで、旧幕府軍の幕臣として不屈の精神で激動の時代を戦い抜き、やがて「旗本大番格」の役職に就くまでに至ります。

時代の大きなうねりを経た明治維新後は、帰農し静岡へ。

1870年(明治3年)には浜松勤番組の世話役を務め、1873年(明治6年)3月頃までは浜松の地で過ごしていたようです。

そして、娘の雅さんが派出看護の仕事を引退し小石川に暮らし始めた翌年、68歳でその生涯を閉じました。
もしかすると、寄り添う鈴木雅さんの看護を受け、温かな最期の日々を過ごしていたのかもしれません。

母|加藤トヨ

加藤(田邉)トヨ
1839年10月7日(天保10年)
〜 1915年2月10日(大正4年)

鈴木雅さんの母・トヨさんは、江戸幕府において諸大名との連絡や折衝、大奥や江戸城の警備などを担うエリート「御留守居組」田邉家・田邉兵三郎の長女だとされています。

19歳で長女・雅さんを出産し、28歳で次女・照代さんを、30歳で長男・保太郎さんを出産。

夫と死別した雅さんが未亡人になり東京で看護の道に入ると、その子供たちをともに養育されました。

76歳でその生涯を閉じられました。

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鈴木雅の兄弟姉妹

妹|加藤照代

妹・加藤照代
1867年(慶應3年6月21日)生

加藤照代(テル)さんは、鈴木雅さんの9歳下の妹です。

1893年(明治26年)姉の設立した派出看護婦会は「東京看護婦会」と名称を変え、
大関和さんが会長に就任した前年の1895年(明治28年)に、照代さんが会長代理に就任しています。

このことから、照代さんは姉である雅さんの仕事を支えていたことがわかります。

弟|保太郎(1869年生)(11歳下)

加藤保太郎
1869年(明治2年)4月1日
〜1924年(大正13年)5月24日

鈴木雅さんの11歳下の弟。
詳細についてはわかりませんでした。

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鈴木雅の夫

夫|鈴木良光

鈴木 良光
1849年
〜1883年(明治16年)12月5日

1849年に幕臣の父・良右衛門さんのもとに生まれた鈴木良光さん。
鈴木家の屋敷は、小石川薬草園の近く小石川白山御殿大通りに面していました。

独身時代は、鳥羽伏見の戦いから五稜郭まで父とともに転戦したのち降伏。
雅さんの父・加藤信盛さんと良光さんは、ともに幕末の五稜郭(箱館戦争)で戦った仲間でした。
信盛さんが18歳の良光さんの戦いぶりを認めて「娘の結婚相手に」と見込んだという、家族の間で大切に語り継がれてきたロマンあふれるエピソードも、ご親族の口から明かされています。

明治に入ると榎本武揚の推薦で陸軍に入り、大阪鎮台歩兵第9連隊などを経て、1877年の西南戦争では別働第一旅団として田原坂の戦いなどに従軍。
桐野利秋の乗馬を分捕ったという逸話を残し、軍功により少佐へ昇進しました。

29歳で雅さんと結婚すると、夫婦は、大津、京都で新婚時代を過ごし、31歳に戸山学校教官となり上京しますが、翌年には、司令官拝命により仙台へ移ります。

長女・美津さんと長男・良一さんを授かるも、良光さんは西南戦争で負った脚の銃創が原因で体調を崩し、1883年(明治16年)に仙台の陸軍病院で帰らぬ人となってしまいます。
34歳、結婚生活はわずか5年でしたが幸せなものだったと伝えられています。

明治十二年明治天皇御下命の「人物写真帖」にその姿を見ることができます。

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鈴木雅の子ども

鈴木雅さんには、夫との間に男女2人の子どもがおり、その資料や経歴、実家の加藤家などの子孫・親族によって正確な史料や証言が現代に伝えられています。

娘|鈴木美津

鈴木美津(みつ)
1879年(明治12年)ごろの生まれと推察

父・鈴木良光さんが亡くなった時には、4歳だった鈴木美津さん。美津さんは女子学院を経て女子美術学校(女子美術大学)を卒業後、洋画家・安田稔さんと内縁関係になりました。

盛大な結婚披露宴を開いたものの入籍しなかったのは、母の雅さんが良一さんを廃嫡していたため、美津さんが鈴木家を継ぐ必要があり、稔さんもまた安田家の跡継ぎだったという事情によるものでした。

その後、美津さんは40歳で息子の康夫さんを授かります。

安田稔さんは文展や帝展で何度も入賞を果たすなど、高い評価を受けた洋画家でしたが、残念ながら作品の多くが関東大震災で焼失してしまいます。現在も聖徳記念絵画館に展示されている『樺太国境画定之図』は、その安田稔さんの手による代表作です。

1926年(大正15・昭和元年)ごろ、静岡県沼津で暮らしていた美津さん親子は、京都にいた母・雅さんと兄・良一さんを呼び寄せ、同居を始めました。

当時、美津さんはすでに安田稔さんの内縁関係を解消していたとされています。

最後に母の鈴木雅さんを看取ったのは、娘の美津さんだったと考えられています。

息子|鈴木良一

鈴木良一
1881年(明治14年)ごろの生まれと推察

父・鈴木良光さんの死亡時にはわずか2歳だった鈴木良一さん。
良一さんは学習院初等学科(学習院初等科)から、獨逸学協会学校中等部(獨協中学校・高校)に進学しました。

学生時代に胃腸を患ったとも深酒がたたったとも言われており、母の雅さんは体の弱い良一さんを廃嫡(跡継ぎとしての権利を剥奪すること)しています。

約20年ほど東京で過ごしたのち、関東大震災の前年、雅さんとともに関東から京都へ転居。(雅さんが京都を選んだ理由は「夫と過ごした地という思い入れがあったからだ」と親族の方が証言されています。)

さらに4年後、雅さんは良一さんを連れて、娘の美津さんが暮らす静岡県沼津市へ移りました。

良一さんは、雅さんが亡くなる2年前の
1938年(昭和13年)、57歳で亡くなりました。

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鈴木雅の子孫

孫|鈴木康夫

鈴木康夫
1919年(大正8年)ごろの生まれと推察

美津さんと洋画家・安田稔さんの息子で、祖母にあたる鈴木雅さんと同居されており、手記『次代への申し送り』を遺された人物です。

第一線を退き約40年という鈴木雅さんの長い晩年は長年謎に包まれていましたが、この手記によって、雅さんらしい日常が明かされます。

1925~27年頃、幼い康夫さんを連れてデパートへ出かけた雅さんは、発売されたばかりの「キユーピーマヨネーズ」を探して食品売り場を訪れます。
マヨネーズを知らない若い店員から「おばあさん、これは舶来品だから英語で書いてあるんですよ」とマスタードの瓶を差し出されると、雅さんはその瓶を手に取り、流暢な英語でラベルをさらりと読み上げてみせたそうです。

周りにいた客の中に新聞記者がいて、「ハイカラなおばあちゃん」として写真入りで紹介されたとのこと。

康夫さんの手記を元に子孫たちの間で語り継がれる鈴木雅さん。

For example, some descendants described her as “cool, sharp, and very charismatic.”
(引用『Suzuki Masa: The Samurai’s Daughter Who Helped Found Modern Japanese Nursing』)

「例えば、子孫の中には彼女を「冷静で、頭の回転が速く、非常にカリスマ性があった」と評する人もいる。」
ここに鈴木雅さんの実像を見ることができます。

 

【参考資料】

『大風のように生きて 日本最初の看護婦大関和物語』ドメス出版
「Unseen Japan」

『婦人公論.jp』
『明治のナイチンゲール 大関和物語』中央公論社

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