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『逆賊の幕臣』登場人物の紹介と予想(小栗忠順、勝海舟、利左衛門、井伊直弼、朝比奈昌広)

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『逆賊の幕臣』

登場人物

をご紹介いたします。

また、今後発表されるであろう登場人物についても大胆に予想させていただきました。

明治維新の光と影。
その「影」の部分を背負い、不穏な最期を遂げる人物の多さたるや。

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主人公|小栗忠順(おぐり ただまさ)松坂桃李

 

小栗忠順(おぐり ただまさ)
1827〜1868
崩壊寸前の幕府に現れた、大局を見通すひとつの才能が小栗忠順です。
アメリカ訪問から戻ってきた俊英の旗本は、日本の近代化に必要な施策を次々と打ち出しました。造船所建設、株式会社の設立、軍制改革など。それらはたとえ幕府がなくなっても後に生かされるものばかりでした。
明治維新。小栗忠順はその混乱のなかで、幕府と運命をともにすることに。
新政府軍に恭順の意を示していた小栗忠順ですが、その高い能力と「軍資金を隠し持っている」というあらぬ疑いから、十分な取り調べもないまま処刑されてしまいました。

年齢 年(西暦) できごと
0歳 1827年 江戸の旗本の子として生まれる。
29歳 1855年 目付に抜擢される。
34歳 1860年 遣米使節団の目付としてアメリカへ渡る。
36歳 1862年 勘定奉行に就任。ロシアによる対馬占領事件の解決に奔走。
37歳 1863年 軍艦奉行に就任。海軍の近代化を推進。
39歳 1865年 横須賀製鉄所の建設に着手(フランス人技師ヴェルニーを招聘)。
41歳 1867年 徳川慶喜が大政奉還を行う。
小栗忠順は徹底抗戦を主張。
42歳 1868年 官職を罷免され、領地の上野国権田村(群馬県)へ隠居。
新政府軍に捕らえられ、烏川の河原で斬首刑となる。

 

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ライバル|勝海舟(かつ かいしゅう)大沢たかお

勝海舟(かつ かいしゅう)
1823〜1899
三河以外という名門旗本の嫡男として生まれた小栗忠順と、曽祖父が旗本の株を買い、父の小吉が旗本・勝家の養子となったという勝海舟では、血筋も身分も雲泥の差がありました。4歳と年長の勝海舟が、黒船来航という非常事態に「海防意見書」を提出してやっと下田取締掛手付に登用された時、忠政はすでに将軍・家定のそばに仕えていたのでした。
2人の運命が初めて交差するのは、1860年のアメリカ行きでした。
小栗忠順は監察という施設団の要人。勝は随行の咸臨丸艦長という立場の差はありながらも、この渡米が後の2人の生き方に大きな影響を与えました。
帰国後、小栗忠順が交渉を行ったロシア軍艦の対馬占拠事件では、江戸に戻り、対馬を幕府直轄領にすることや、外交関係において地方藩主と幕府の権限を定めるべきという建言を行っていた小栗忠順を横目に、勝は裏で工作し、イギリスのオールコック公使からロシアに抗議をさせました。その結果ロシア艦を退去させています。
また第二次長州征伐時、小栗忠順に打ち明けられた幕府強化のための対フランス借款計画には猛反対。身分という障害があるためになかなか幕府に重く用いられなかった勝海舟は、旧弊な体制の幕府を見限っていました。
忠心を貫き、幕府存続の上で改革を目指す小栗忠順の提案は、受け入れられるものではありません。
勝海舟は新しい国家体制を目指す諸雄藩と協力を強め、小栗忠順の造船所計画にも人材育成が先だと反対しました。ですが、横須賀造船所が明治政府に貴重な財産として受け継がれると、幕府の財政窮乏の中にあって「工場を起すに至るは、亦深く嘉尚すべき」と称賛せざるを得ませんでした。

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塾長|安積艮斎(あさか ごんさい)中村雅俊

安積艮斎(あさか ごんさい)
1791〜1861
佐藤一斎や林述斎に学び、昌平黌しょうへいこうで教えた当代一流の儒学者。小栗邸の長屋で塾を開き、小栗忠順が少年時代に通いました。その開国論に小栗忠順が影響を受けたといわれています。

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大老|井伊直弼(いい なおすけ)岡部たかし

井伊直弼(いい なおすけ)
1815〜1860
安政の大獄を主導し、幕府強化を目指した大老。
日米修好通商条約の批准書交換のため、小栗忠順を遣米使節に抜擢するものの、帰国を待たずに桜田門外で殺害されました。

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父|小栗忠高(おぐり ただたか)北村有起哉

小栗忠高(おぐり ただたか)
1809〜1855
2500石取りの直参旗本・小栗家の11代当主で小栗忠順の実父。
旗本・中本忠英の四男でしたが、隣家小栗家の養子に。新潟奉行を務めました。

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母|くに 鈴木京香

小栗くに(くに子)
1806〜?
小栗家10代当主忠清の娘で、小栗忠高を婿養子に迎えます。小栗忠順と娘・貞子を生みます。忠順捕縛の前日に道子とともに権田村から避難。

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妻|みち 上白石萌音

小栗道子(おぐりみちこ)
1834〜?
林田藩主・建部政醇の長女で、小栗忠順の妻。忠順断首後、身重の体で会津まで落ち延び、国子を出産。維新後は、三野村利左衛門の援助を受けました。

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親友|栗本鋤雲(くりもと じょうん)青木崇高

栗本鋤雲(くりもと じょうん)
1822〜1897
艮斎塾以来の小栗忠順の親友。医師から転身し、外国奉行などを歴任。フランス語に通じ、横須賀造船所建設などで小栗忠順に協力。維新後は、新聞記者となりました。

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友人|駒井朝温(こまい ともあつ)高橋光臣

駒井朝温(こまい ともあつ)
1823〜1896
勘定奉行や大目付を歴任。小栗よりも早く目付に昇進し、一時は上役でもありました。
小栗に子供がいなかった際、駒井家の次男(忠道)と三男(忠祥)が小栗家の養子に入っており、家族ぐるみで非常に深い交流がありました。

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友人|滝川具挙(たきがわ ともたか)宮野真守

滝川具挙(たきがわ ともたか)
?〜1881
外国奉行、神奈川奉行、京都町奉行、大目付などを歴任。
若い頃から小栗と意見を交わし合う仲であり、幕臣として厳しい情勢の中で奔走しました。

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友人|朝比奈昌広(あさひな まさひろ)モグライダー芝大輔

朝比奈昌広(あさひな まさひろ)
1827〜1905
長崎奉行、外国奉行、勘定奉行、江戸町奉行などを歴任。
外国奉行として「日伊修好通商条約」の締結に携わるなど、外交の最前線で活躍しました。

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奉公人|三野村利左衛門(みのむら りざえもん)荒川良々

三野村利左衛門(みのむら りざえもん)
1821〜1877
利左衛門の出自は謎が多く不明な点が多いものの、江戸深川の商家に奉公していた頃、縁あって小栗の屋敷の住み込み中間になったと言われています。利左衛門は文字の読み書きもできない男でしたが、小栗に気に入られ、その仲介で油や砂糖を商っていた三河町紀ノ国屋の婿養子となりました。その後、利左衛門は「紀ノ利」という両替商を始めます。
利左衛門と小栗忠順の仲が深まったのは1865年(慶応元年)4回目の勘定奉行となった小栗忠順が江戸一の豪商三井に100万両の御用金を命じたことがきっかけでした。それに応える資力はなく困り果てた三井家は、下請けの両替商として出入りのあった利左衛門と小栗忠順の関係を知り、彼に減免嘆願の交渉を依頼しました。
その頃、三井は開港後生じた関税収入の出納の役で預かった公金を勝手に貸し出して焦げ付かせており、小栗忠順の御用金命令は、それに対する懲罰的な意味合いがありました。それを察した利左衛門は江戸の商人に対する商品担保の市中貸し出しを三井の責任で行うという「江戸市中荷物御引当御貸付金」という斬新なシステムを小栗忠順に提案。この幕府の資金を一切使わずに市場を活性化させるという公的融資システムは、外資に日本経済が支配されることを危惧する小栗忠順の思惑にもかない、三井は大幅な御用金減免を勝ち取ることに成功したのでした。
この功によって三井両替所の番頭となった利左衛門は、さらに小栗忠順と組んで日本初の正式な兌換紙幣の発行も実現。ですが、ほどなく利左衛門は苦渋の決断を下すことになります。
幕府転覆を狙う新政府軍の軍資金調達に協力するのです。
三井が維新後一大財閥に成長することを考えれば、この決断は結果としては正しかったのですが、恩義のある小栗忠順に対しては裏切りでもありました。
ですが利左衛門には節義がありました。逆賊として殺された小栗忠順の妻子のために深川に家を用意し、手厚く保護したのです。利左衛門が小栗忠順の妻子に与えたお金は、10年間で現在の金額で数千万円という額だったと言われています。

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『逆賊の幕臣』登場人物(予想)

将軍|徳川家慶(とくがわいえよし)

徳川家慶(とくがわ いえよし)
1793〜1853
江戸幕府12代将軍。
水野忠邦を重用し、天保の改革を行いました。そのころ初登城した小栗忠順を謁見。
その後は安部正広を用いますが、ペリー代行直後に死去。

将軍|徳川家定(とくがわ いえさだ)

徳川家定(とくがわ いえさだ)
1846〜1866
江戸幕府13代将軍。
小栗忠順が進物番として仕えました。病弱で子がなかったため継嗣が問題となり、信頼を受けていた井伊直弼が次期将軍を家茂に決定しました。

将軍|徳川慶喜(とくがわ よしのぶ)

徳川慶喜(とくがわよしのぶ)
1837〜1913
水戸家に生まれた幕府15代将軍。一橋家を相続後、将軍となると、大政奉還を敢行。戊辰戦争では小栗忠順の抗戦策を拒否し、新政府軍に恭順。幕府を終焉させました。

義父|建部政醇(たてべ まさあつ)

建部政醇(たてべまさあつ)
1795〜1875
播州林田藩8代当主。多芸多能で知られた。神田明神下の屋敷を訪れた忠順少年と議論をしたとの逸話が残っています。この後、長女を忠順の嫁に。

家臣|塚本真彦(つかもと まひこ)

塚本真彦(つかもとまひこ)
1840〜1868
もと建部家家臣で、みちに従い小栗家に移ります。遣米使節では小栗忠順の従者として随行。権田隠棲にも従った後、忠道とともに新政府軍に断首されます。

養子|小栗忠道(おぐり ただみち)

小栗忠道(おぐりただみち)
1848〜1868
小栗忠順の養嗣子。
旗本・駒井朝温の次男で、小栗忠順が渡米直前に迎えた養女・鉞子の婚約者として養子となりました。
忠順処刑の翌日、高崎城内の牢屋の前で断首されます。

養女|小栗鉞子(おぐり よしこ)

小栗鉞子(おぐり よしこ)
祖父小栗忠清の実子・日下数馬の娘である鉞子は、6歳で小栗家の養女となり、小栗忠道と婚約。
忠順が幕府崩壊により上野で帰農した際にこれに従ったのち、新政府軍の追及を受けて忠順の意向により養母みち(道子)らと信濃・越後を経て会津へ落ち延び、翌2年に静岡へ移住したと言われています。

先輩|川路聖謨(かわじ としあきら)

川路聖謨(かわじとしあきら)
1801〜1868
海防掛や外国奉行を歴任した幕臣。対ロシア交渉などで活躍。
小栗忠順の先輩格で、息子をフランス語伝習所に入れました。
江戸開城の翌日、拳銃自殺をします。

老中|阿部正弘(あべ まさひろ)

阿部正弘(あべまさひろ)
1819〜1857
老中となった福山藩主。小栗忠順が出仕した年に老中首座となりました。
直属の海防掛を新設、岩瀬忠震ら優秀な人材を登用しますが、若くして病没。

目付|岩瀬忠震(いわせ ただなり)

岩瀬忠震(いわせただなり)
1818〜1861
日米修好通商条約に調印した幕府目付。
総領事ハリスとの交渉で遣米使節を提案するも、安政の大獄で井伊直弼により更迭されました。蟄居中に病没。

容姿端麗|新見正興(しんみ まさおき)

新見正興(しんみまさおき)
1822〜1869
御小姓出身の遣米使節の正使。
容姿端麗で親しみ深い応接態度と押し出しの良さから抜擢されたと言われています。
批准書交換の大任を果たし、帰国後300石加増されました。

 

 

 

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