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【ネタバレ】2026年大河『豊臣兄弟!』第18話あらすじ「羽柴兄弟!」

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2026年NHK大河ドラマ『豊臣兄弟!』

第18話「 羽柴兄弟!」

あらすじ

をご紹介しています。

お楽しみいただけると幸いです。

 

※ネタバレ含みます

第 1回 1月  4日 |二匹の猿
第 2回 1月11日 |願いの鐘
第 3回 1月18日 |決戦前夜
第 4回 1月25日 |桶狭間!
第 5回 2月  1日 |嘘から出た実
第 6回 2月15日 |兄弟の絆
第 7回 2月22日|決死の築城作戦
第 8回 3月  1日|墨俣一夜城
第 9回 3月  8日|竹中半兵衛という男
第10回3月15日|信長上洛

第11回 3月22日 |本圀寺の変
第12回 3月29日|小谷城の再会
第13回 4月  5日|疑惑の花嫁
第14回 4月12日|絶体絶命!
第15回 4月19日 |姉川大合戦
第16回 4月26日|覚悟の比叡山
第17回  5月  3日|小谷落城
第18回  5月10日|羽柴兄弟
第19回  5月17日|過去からの刺客
第20回 5月24日 |本物の平蜘蛛

第21回 5月31日 |風雲!竹田城

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大河ドラマ『豊臣兄弟!』第18話 あらすじ

羽柴兄弟!

足利義昭(尾上右近)を追放し、朝倉浅井との戦いにも勝利した織田信長(小栗旬)は、長篠の戦いで宿敵・武田信玄(髙嶋政伸)をやぶり、その勢力を拡大していきました。

近江坂本城を拠点とする明智光秀(要潤)。
若狭の丹羽長秀(池田鉄洋)。
北伊勢の滝川一益(猪塚健太)。
信長に反旗を翻した松永久秀にとってかわり大和を任された筒井順慶。
摂津という畿内の重要地を支配した荒木村重(トータス松本)。
新たな部将たちが頭角を現し、織田軍が強固になった1575年(天正3年)、
浅井長政(中島歩)の領地を与えられた秀吉(池松壮亮)は、北近江に長浜城を築城し、信長に仕えて20年、ようやく城持ち大名になりました。
常に影となり、日向となって兄を支え続けてきた小一郎(仲野太賀)も織田家重臣である丹羽・柴田の両巨頭から一文字ずつを譲り受け、羽柴小一郎長秀と名乗ります。

寧々(浜辺美波)の父・浅野長勝(宮川一朗太)が亡くなりました。
市松こと福島正則(松崎優輝)と虎之介(後の加藤清正:伊藤絃)も、健やかな青年に成長しています。

浅井三姉妹

一方、浅井長政の死から2年。
守山城に預けられていた市(宮﨑あおい)と3人の娘たちは、岐阜城で暮らすことになりました。

市は、3姉妹が信長を怖がっていると伝え、謝る兄に言いました。

おやめください。
私はこの手で長政殿を介錯した時、心を決めたのです。
行くも地獄、戻るも地獄、ならば前へ。
あの子らが同じ思いをせずに済む世を、兄上が作ってくだされ。

藤堂高虎

姉川の戦いで見た藤堂高虎(桂久創)が、盗人と間違われて追われています。
小一郎が争いを止め事情を聞くと、盗人から銭を取り返すため殺したと高虎。
高虎は、浅井家滅亡の2年の間、主君を転々としており、新たな主君を探しているところでした。

家臣選抜試験

越前一向一揆の討伐を終え、秀吉が帰ってきました。
手柄を持っていかれたと沈む秀吉と、民をまとめるのに慣れていない小一郎。
羽柴兄弟には、手足となる真の家臣が必要となります。

私のような者を選んではなりませぬ。
もっと若い才を。
さすればその者たちが、いずれ羽柴家の行く末を支えてくれましょう。

軍師・竹中半兵衛(菅田将暉)の進言を受け、「家臣選抜試験」を断行することにした小一郎。集まったのは、立身出世を夢見る血気盛んな若者たち。
秀吉の家臣として選ばれるのは、「秀でた才ある3人」です。

一ノ関「槍」

1つ目の関は「槍」の試験。
蜂須賀正勝(高橋努)相手にどんどん死体が積み上がる様子を見て、逃げ出す受験者たち。
実は、死体は小一郎が用意したサクラ。
藤堂高虎はじめ、逃げなさなかった勇気ある者、そして死体が偽物だと見破った者が次へ進みます。

二ノ関「米俵」

次は計算です。
積み上げられた米俵。

100人が籠城するとして、これだけの米で何日もたせられるかな。

みなが「12日」と答えるなか「粥にすれば20日」と答える冷静な石田三成(松本怜生)。
「1日ももたぬわ」と中身が米ではないことを見抜いた藤堂高虎。

三ノ関「火事」

寺で、動かぬよう坐禅を組まされる受験者達。
煙が立ち込めるなか、逃げる者、残る者。
嘘だと見抜きながらも御本尊と経典を持ち脱出す片桐且元(長友郁真)。
坐禅を組んだまま動かぬ三成を運び出す高虎。
その高虎を見ながら小一郎は兄に話します。

小一郎
小一郎

バカはバカでもバカ正直なのじゃ。
思ったこと思ったことを口にして思った通りに動く。
気が短いのもそれだけ素早く知恵が回る証じゃ。
皆、奴の考えに追いつけず、腹立たしくなる。
何度も主君を変えるのも、無理ないわ。
じゃが、奴のやってることは間違ってはおらぬ。
むしろ正しすぎて皆にそれを分かってもらえぬ苛立ちで、つい暴れてしまうのじゃ。

最終試験「調略」

石田三成、藤堂高虎、片桐且元、平野長泰(西山潤)。
予選を勝ち抜き、最終試験の場に残ったのは、一癖も二癖もある猛者たち4人でした。

最後の試験は「調略」。
自分たち自身で4人から3人に絞る、という試験です。

自分が一番役に立たないと身を引こうとする高虎ですが、煙のなか高虎に救われた石田三成は一つの提案をします。それは、三成と高虎が1人分の禄を分け合うことで、4人全員を雇ってもらうという案でした。

お殿様はこの最後の関で相手を調略せよと申されました。
それゆえ私は今、お殿様を調略しているのでございます。

家臣選抜試験、合格者発表

石田三成、片桐且元、平野長泰の3人は、秀吉の家臣として、
藤堂高虎は、小一郎の家臣として採用されました。

小一郎は、高虎が盗人と間違われた際に追手が堀に落ちないよう向きを変えたことに気づいた時から、家臣にしたいと考えていたのでした。
忠誠を誓う高虎。

この若き才能たちが、後に豊臣の世を支える巨大な屋台骨になるとは、まだ誰も知ることはありません。

 

豊臣家臣団
一門衆 羽柴秀長、羽柴秀勝、杉原家次、浅野長政、木下家定、三好吉房、小出秀政
国衆 近江衆 宮部継潤、脇坂安治、寺沢広政、田中吉政、増田長盛、石田正継、石田三成、大谷吉継、片桐且元、中村一氏
尾張衆 蜂須賀正勝、前野長康、山内一豊、堀尾吉晴、桑山重晴、加藤清正、福島正則、加藤嘉明
美濃衆 竹中半兵衛、生駒親正、加藤光泰、仙石秀久、坪内利定、石川光政、佐藤秀方
播磨摂津衆 黒田官兵衛、明石則実、別所重宗、小西行長
母衣衆


腰母衆 古田重則、佐藤直清
黃母衆 尾藤知宣、神子田正治、大塩正貞、一柳直末、中西守之、一柳三右衛門、小野木重勝
大母衆 戸田勝隆、宮田光次、津田信任
福島正則(1561〜1624)
福島正則は加藤清正とともに少年時代から秀吉に使えた子飼いの武将。
賤ヶ岳の戦いでは一番槍の武功を挙げ、7本槍筆頭の恩賞を得た、子飼いの出世頭。後に尾張清洲24万石の領主となります。
ですが秀吉没後は、加藤清正に同調して石田三成らと対立。
徳川家康による豊臣政権の秩序回復を期待し関ヶ原の戦いでは家康に味方。戦後は毛利輝元の退去交渉や三成方の宇喜多秀家の助命嘆願などに奔走しています。
大阪の陣では参陣を許されず、豊臣家の滅亡を見届けるしかありませんでした。
加藤清正(1562〜1611)
長浜城主に出世した秀吉が有望な若者を集めて養育した子飼いの代表格が加藤清正です。
尾張国中村生まれで秀吉とは母同士が又従姉妹という関係にあったそうです。
清正は鳥取城の戦いで初陣を飾ると、賤ヶ岳の戦いでは敵の武士を討ち取り七本槍の1人に数えられました。領国経営の際も見込まれ、1588年(天正16年)統治の難しい肥後半国を与えられました。
ただ、石田三成らと対立したことが豊臣政権の弱体化を招きます。政権内で清正と三成が反目し、朝鮮出兵で清正が講和を妨害したと三成にみなされたことで対立が決定的になりました。
関ヶ原の戦いでは徳川家康に期待して東軍に加担しましたが、結果的に家康の天下を確定させてしまいます。それでも豊臣家への忠誠は変わらず、秀吉を補佐し続けた清正は、家康と秀頼の二条城の会見で秀頼の傍らに付き添い体験を成功に導きました。
ですがこれに安堵したのか、会見後に発病し、帰国後に亡くなります。
加藤清正は築城の名手でもあり、1607年(慶長12年)に完成した熊本城は、実戦的で堅固な要塞でした。清正はこの城を秀頼を迎える要害として築いたとも言われています。
石田三成(1560〜1600)
石田三成は長浜時代に豊臣秀吉と出会いました。
秀吉が鷹狩の際に立ち寄った寺の小姓だった光成が、秀吉の喉の渇きに応じて温度と量を変えて3杯のお茶を提供したところ、その心配りに感心した秀吉が自身の小姓にしたとい「三献の茶」というエピソードがあります。
賤ヶ岳の戦いでは、物見や戦術を務め、1585年(天正13年)には大名に出世。
武功よりも財務などの実務面で活躍した石田三成は、太閤検地などの困難な政務を的確に実行し、秀吉の信頼を得ていきました。
秀吉の中央集権確立のため厳格に接するうちに他の家臣と溝ができ、秀吉が亡くなると加藤清正ら7人の襲撃を受けました。
また、徳川家康の画策により失脚させられるも、1600年(慶長5年)に関ヶ原の戦いを起こします。文弱と見られた三成は、配下の島左近とともに激闘を繰り広げ、東軍の部将を驚かせます。敗北し処刑されましたが、死の直前まで志を捨てない姿が語り継がれています。
藤堂高虎(1556〜1630)
「武士は7度主君を変えるべき」と語り、主家を点々と変えて「世渡り名人」と皮肉られた一方、築上の名手でもあった藤堂高虎。
身長190cmという堂々たる体を持つ高虎は、主君の近江浅井氏滅亡後、浅井旧臣の阿閉貞征、磯野員昌、織田信長の甥・織田信澄と次々と主君を変えましたが、理想の主君は現れませんでした。
1576年(天正4年)長浜城主・羽柴秀長に招かれ仕官。
秀長こそが高虎にとって心服できる理想の主でした。高虎は秀長に従い、数々の戦いで武功をあげ、さらに、秀長の下で築城技術を学ぶ機会を得、和歌山城築城、大和郡山城修築などで才能を開花させていきました。
秀長の死後は、落胆して高野山に入るも、秀吉に大名に取り立てられ復帰。
秀吉の没後は、家康に接近し、関ヶ原の戦いでは小早川秀秋らの工作を担い、家康の勝利に貢献。
伊予20万国の大名となってからの後半生は、江戸城、今治城、津城などの縄張りを担当。高虎の考案した犬走りを伴う石垣と堀のセットなどは、豊臣包囲網の一環となり、豊臣家の滅亡の一因となりました。

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