2026年NHK大河ドラマ『豊臣兄弟!』
第21話「 風雲!竹田城」
あらすじ
をご紹介しています。
お楽しみいただけると幸いです。
※ネタバレ含みます
第 1回 1月 4日 |二匹の猿
第 2回 1月11日 |願いの鐘
第 3回 1月18日 |決戦前夜
第 4回 1月25日 |桶狭間!
第 5回 2月 1日 |嘘から出た実
第 6回 2月15日 |兄弟の絆
第 7回 2月22日|決死の築城作戦
第 8回 3月 1日|墨俣一夜城
第 9回 3月 8日|竹中半兵衛という男
第10回3月15日|信長上洛
第11回 3月22日 |本圀寺の変
第12回 3月29日|小谷城の再会
第13回 4月 5日|疑惑の花嫁
第14回 4月12日|絶体絶命!
第15回 4月19日 |姉川大合戦
第16回 4月26日|覚悟の比叡山
第17回 5月 3日|小谷落城
第18回 5月10日|羽柴兄弟!
第19回 5月17日|過去からの刺客
第20回 5月24日 |本物の平蜘蛛
第21回 5月31日 |風雲!竹田城
第22回 6月 7日 |播磨大誤算
第23回 6月14日 |さらば半兵衛
第24回 6月21日 |軍師官兵衛!
第25回 6月28日 |変事の予兆
第26回 7月 5日 |信長を笑わせろ!
第27回 7月12日 |本能寺の変
第28回 7月19日 |急げ!秀吉
第29回 7月26日 |天下への道
第30回 8月 2日 |清須会議
第31回 8月 9日 |これで、お別れにございます
第32回 8月16日 |賤ケ岳の決闘
第33回 8月23日 |市の最期
大河ドラマ『豊臣兄弟!』第21話 あらすじ

播磨攻略へ

すぐに播磨へ行け。
織田信長は、羽柴秀吉に毛利攻めの足がかりとして播磨への出兵を命じました。
当時の播磨は、まさに群雄割拠。
赤松や別所をはじめとする大小様々な国衆がひしめき合い、ある者は織田に、ある者は毛利にと、それぞれが生き残りをかけて敵味方に分かれ、激しく血を流し合っていました。
すでに播磨は2年前から荒木村重が調略を行い、地元の国衆を3日につけ、毛利攻めの足場を固めていました。
播磨に手を出すということは、その背後に控える巨大な西国の覇者・毛利一族と真っ向から対峙することを意味しており、この先の一路が一筋縄でいかぬことは誰の目にも明らかでした。
織田信長の厳命を受け、播磨攻めという大戦の準備を急ピッチで進める秀吉。
荒木村重の安堵
一方、有岡城。
これまで播磨の攻略を最前線で進めてきた荒木村重(トータス松本)の元に、配下の高山右近や中川清秀が

成り上がりの秀吉に、まんまと大役を横取りされた
と不満をぶつけます。
しかし、当の村重自身は、どこか憑き物が落ちたような表情を浮かべていました。
妻と2人の時間に本音を漏らす村重の胸中にあったのは、

正直、播磨やら備前やら任されても、どうも思うようにいかず、いつ上様に叱られるかと思うと、もう恐ろしゅうて恐ろしゅうて、生きた心地がせんかったわ。
わしはこれまでただ必死に生き延びてきたんじゃ。
運良く摂津の大名にまでなって、そなたのような美しい妻や子にも恵まれた。
後は楽して楽しゅう面白ろう生きていけたらそれでええんじゃ。
あわよくばこれまでやってきた播磨国衆とのつながりを生かして、筑前に貸しの一つも作れれば、それで十分じゃ。
すまんのう、無欲な男で。
悔しさではなく、巨大すぎる重責から解放されたという、深い安堵の念だったのです。
官兵衛の手腕
1577年(天正5年)10月
秀吉は小一郎、竹中半兵衛、そして荒木村重を引き連れ、播磨の要衝・姫路城へ入城を果たします。
城門をくぐった一行を真っ先に出迎えたのは、小寺家の家老として城代を務める、若き小寺官兵衛(のちの黒田官兵衛:倉悠貴)でした。
官兵衛は迷いのない声で言い放ちます。

この官兵衛、これからも織田様のため、羽柴様のお力になりまする。
今よりこの城は、羽柴様に差し上げまする。
驚く一同。
城主を説き伏せた官兵衛はただ城を明け渡したわけではありません。
事前に地元へ秀吉の輝かしい評判を広めて人心を掴み、さらに播磨の二大巨頭である赤松と別所の双方に対し、「相手方が毛利と密通して播磨を乗っ取ろうとしている」と偽の噂を流していたのです。
互いに猜疑心を植え付けられた両家は、生き残るために織田を味方につけざるを得ない状況へと追い込まれていました。
「人質をいただきたい」
一同が若き軍師の強引な調略に驚くなか、まるで興味なさげに居眠りをしている男がいました。
稀代の策士・竹中半兵衛です。
小一郎に意見を問われた半兵衛は静かに答えます。

人質をいただきたい。
播磨の国衆が本当に信用できるか否か、臣従の絶対的な証として、すべての国衆に「人質」を出すよう要求したのです。
官兵衛は怯むことなく、まだ幼き嫡男・松寿丸を人質として差し出すことをその場で約束するのでした。
渋い顔をする半兵衛。
上月城
数日後、播磨の国衆たちは秀吉のもとに出仕しますが、別所家は若き当主・別所長治ではなく、後見人である叔父・別所賀相が現れます。
万事うまくいき浮かれる羽柴兄弟ですが、毛利が黙っているはずがないと考えた半兵衛の目は、地図の一点を見つめます。

進むのです。このまま西へ。
まずは上月城を手に入れるべき
上月城は、播磨、備前、美作の国境に位置し、毛利・宇喜多方の赤松正範が守っています。逆を言えば、ここさえ奪い取ってしまえば、いくら西国の雄・毛利といえども、そう簡単には播磨へ攻め入ることができなくなるのです。
生野銀山
半兵衛の策はそれだけに留まりません。

あともうひとつ、手に入れたきものが
毛利という巨大な強国とまともに渡り合うには、兵糧、武器、根回し……すべてにおいて莫大な軍資金が必要不可欠です。
そこで半兵衛は、但馬の国主である山名家の家臣・太田垣輝延(おおたがき てるのぶ)が支配する、「生野銀山」が秘める膨大な富に目をつけたのでした。
秀吉は、最も信頼する弟にこの一大任務を託すことを決断しました。
官兵衛を試すため、わざと策を小出しにしていた半兵衛は、「この策には穴がある」と得意げな官兵衛に苛ついています。

半兵衛、間違うていたらすまぬ。
何か急いておるのか?
進軍開始
1577年(天正5年)11月。
秀吉は上月城を総攻めにするべく、一軍を率いて西播磨へと進軍を開始。
一方の小一郎もまた、自らの重責を背負い、藤堂高虎、宮部継潤、前野長康といった猛将・知将たちを引き連れて、但馬の険しい山々にそびえ立つ竹田城を目指し、漆黒の進軍を開始するのでした。
無血開城をめざす小一郎
小一郎は今回の戦は一滴の血も流さずに終わらせたいと考えていました。
敵の防備をじっくりと観察していた小一郎は、あることに気づきます。
どうやら城内の井戸はすでに枯れ果てている様子。
もし城内の水がすべて外部からの運搬に頼っているなら、力ずくで城を攻め立てる必要はありません。
城の出入り口を完全に封鎖し、水が底をつくのをじっと待ってから降伏を勧めれば、兵を失うことなく城を落とせるはずだと、小一郎は確かな勝機を見出しました。
不気味なほど静かに羽柴軍に包囲され、退路を断たれた竹田城。
城主の太田垣輝延は、焦燥と苛立ちを募らせていました。
極限状態の中、輝延は残量の半分を自分のものにし、家臣たちに、朝霧に紛れて山を下りて水を汲みに行くよう命令を下します。
しかし、天は輝延に味方しませんでした。
それから数日の間、竹田城の周囲に霧が立ち込めることは一度もなかったのです。
いよいよ城内の水が完全に尽き、喉の渇きと恐怖で家臣たちが憔悴しきっていくなか、小一郎から一本の書状が届きます。
そこにしたためられていたのは、丁重な降伏勧告でした。
しかし、太田垣輝延は、山名からの援軍が来るまで、断じて降伏などしないと宣言。
このままでは無血どころか全員死んでしまう…。
焦る小一郎。
風雲!竹田城
ある朝、待ち望んだ朝霧が竹田城を包み込みました。
濃霧に紛れて大きな水桶を担いだ男たちが城内に入ってきます。渇ききった城主の太田垣輝延は我先にと水に飛びつこうとしますが、その瞬間、水を運んできた男たちが一斉に輝延へ刃を突きつけました。
その正体は、変装して潜入した小一郎と藤堂高虎たちだったのです。
輝延は周囲の家臣たちに防戦を命じますが、激しい脱水状態にあった家臣たちは主君の命令を無視し、目の前の水桶へ一斉に群がります。

お前ら敵の施しを受けるとは恥を知れ!
飲むなと言うとろうが!
何をしておる!早くこいつらを斬らんか!
刺し違えてでもわしを助けよ!
斬れ!斬れ!斬らんか!
それがお前らの役目であろう!
見かねた小一郎が、太田垣輝延の左頬にグーパンチ。

家臣の命をなんじゃと思うとるんじゃ!
太田垣輝延は鼻血を流します。

一滴も血は流されるつもりであった…が、無理じゃった
こうして竹田城は、ほぼ無血開城され、小一郎は初めて城代を任されることになりました。
小一郎が城内で戦後処理に励んでいるところへ、前野長康がやってきます。
西播磨の上月城で秀吉が大勝利を収めたという報告でした。
兄の無事にひとまずは安堵した小一郎でしたが、長康から語られた上月城での凄惨な様子に言葉を失うのでした。
竹中半兵衛とともに「両兵衛」と並び称された軍師・黒田官兵衛。
播磨国姫路城主だった官兵衛は、秀吉の中国攻めに際し、主君小寺政職を説得して信長に通じ、秀吉の配下となりました。
荒木村重が信長から離反した際に説得に赴くも、逆に捕らえられ、1年も幽閉された結果、足が不自由に。
その忠義が秀吉の信頼を高め、秀長とともに秀吉に仕える幕僚の1人になったのです。
その後の中国攻めで、鳥取城の兵糧攻めや備中高松城の水攻めを献策し、本能寺の変の後、直ちに明智光秀を討つよう勧めたのも官兵衛でした。
さらに九州攻めに際しては軍監を任され、東西二手に分かれて薩摩を目指して南下する策を進言しています。
ただ、本能寺の変の際「君の御運開かせ給うべき始め」と冷徹に秀吉に天下とりを勧めたことで、秀吉から警戒され始めます。
九州攻めの後、官兵衛は豊後中津12万5千石を与えられ、中央から遠ざけられました。
全てを悟った官兵衛は、1589年(天正17年)に隠居。
ところが、秀吉没後の関ヶ原の戦いで、表舞台に返り咲きます。
合戦の最中、1万の軍を率いて北九州を席巻。島津の本拠以外を占領してしまったのです。
一説によると官兵衛はこの時、天下を狙っていたと言われています。
竹田城(兵庫県)

「雲海に浮かぶ天空の城」「日本のマチュピチュ」として知られる竹田城は、兵庫県朝来市和田山町にあり、標高353.7メートルに立地する典型的な山城です。
虎が伏せているような見た目から「虎臥城」とも呼ばれています。
豊臣秀長の生まれる約100年ほど前、当時この地を制していた室町幕府の有力守護大名・山名宗全(持豊)が有力家臣の太田垣氏に築かせ、代々太田垣氏が城主を務めてきました。
1577年(天正5年)、信長により西国(中国地方)の攻略を命じられた秀吉が播磨国(兵庫県南西)但馬国(兵庫県北部)へと侵攻し、ついに落城。秀吉は弟・秀長を城代(城主代行)として入れたとされています。
1580年(天正8年)、秀吉が播磨但馬を平定すると、秀長は竹田城を居城としましたが、後に家臣の桑山重晴が城主となったとされています。
竹田城が「天空の城」と呼ばれる最大の理由は、秋から冬にかけての早朝に発生する雲海です。その峻険な立地は当時から難攻不落を誇っていました。
2. 小一郎の自立の地
これまで兄・秀吉の副官として動いていた小一郎(後の豊臣秀長) が、信長から正式に「但馬平定」を任され、独自の軍団を率いた記念すべき戦い。城を落とした後、小一郎は竹田城を拠点に但馬の統治を行います。ここで培った民政や軍事の経験が、後の「豊臣政権の屋台骨」としての実力を磨き上げることになりました。
3. 石垣
小一郎が攻め落とした当時は、土を盛り固めた「土塁」が中心の城だったと考えられています。
現在私たちが見ることができる立派な石垣は、小一郎が去った後に城主となった赤松広秀の手によるものです。
広秀は関ヶ原の戦いで敗れ、切腹。その際、竹田城も廃城となりますが、石垣だけは400年以上経った今もなお、当時の姿を留めています。
| 名称 | 竹田城跡 (Takeda Castle Ruins) |
|---|---|
| 時間 | 10:00〜15:00 |
| 地図 | |
| 住所 | 〒669-5252 兵庫県朝来市和田山町竹田古城山169番地 |
| アクセス | JR竹田駅から天空バスまたはタクシーで10分〜20分→「竹田城跡バス停・タクシー乗降場」から徒歩20分 |
| 入場料 | 500円 |
| 詳細 | 公式サイト |


