明治という激動の時代、日本初の看護婦として道を切り拓いた大関和(おおぜき ちか)さん。
大関和さんには、一人の姉、一人の妹、そして二人の弟がいました。
こちらでは大関家の長男として家督を継ぐはずだった大関復彦さん、その遺児・大関増博さんについてご紹介し、ドラマでは描ききれない背景に迫ります。
大関和(おおぜき ちか)|家族一覧
| 生家 |
| 父:大関弾右衛門増虎 母:大関哲 姉:大関八千代 弟:大関復彦 弟:大関衛 妹:大関釛 |
| 婚家 |
| 夫:渡辺福之進豊綱 |
| 子ども・子孫 |
| 長男:大関六郎 長女:大関心 孫:大関一郎(六郎の子) 嫁:大関(澤本)操(息子・六郎と結婚) |
| 親戚 |
| 姪:志村よしえ(姉・八千代の子) 甥:大関増博(弟・復彦の子) 姪:大関ノブ(弟・衛の子) 姪:大関美千代(弟・衛の子) 甥:川原諭(妹・釛の子) 甥:川原博巳(妹・釛の子) その他:川原(鹿内)貞(甥・博巳と結婚) |
大関復彦の生涯|黒羽藩家老の長男が辿った、挫折と再会
大関復彦(おおぜき ふくひこ)
〜1907年(明治40年)
わずか「一人扶持」の衝撃:幼き長男を襲った維新の洗礼
大関復彦さんは、黒羽藩家老・大関弾右衛門さんとその妻・哲さんの長男(第三子)として誕生しました。
1869年(明治2年)、
明治政府から黒羽藩へ永世禄が支給された際、父・弾右衛門さんはすでに家老職の辞意を固めていました。その結果、まだ幼少だった長男・復彦さんに与えられたのは、わずか「一人扶持」という生活の足しにならない過酷な沙汰でした。
他の家老職には50石が支給される中でのこの格差に、多感な時期だった大関和さんは「あまりに不当な嫌がらせだ」と激しく憤慨したと伝えられています。
この理不尽な境遇が、復彦さんのその後の人生に暗い影を落とすことになっていくのでした。
東京での挫折と自暴自棄の日々
1881年(明治14年)
姉・和さんが離縁を経て上京したのと同じく、復彦さんもまた志を抱いて東京の地を踏みます。
しかし、武家の誇りだけでは生き抜けない非情な現実が復彦さんを待っていました。都会の荒波に揉まれ、志半ばで挫折を味わった復彦さんは、次第に家族との連絡を絶ち、自暴自棄な生活へと身を投じてしまいます。
裏長屋での劇的な再会と、姉・和の決断
音信不通のまま歳月が流れた1907年(明治40年)、奇跡的な再会が訪れます。
大関和さんが経営する「東京看護婦会」の目と鼻の先にある、薄暗い裏長屋の一室。そこに、病に伏した大関復彦さんの姿がありました。
発見したのは、大関和さんの息子の嫁、つまり復彦さんの甥の嫁・操さんでした。
「お国のどちらですか」と尋ねると、「栃木の黒羽です」と答えた。
「それでしたら、義母と同郷です。義母は家老の娘でした。大関和と言います」
復彦は、和が看護婦として活躍していることを知っていたようだ。
(引用『明治のナイチンゲール 大関和物語』田中ひかる)
看護のスペシャリストであった和さんは、一目で弟が結核に侵されていることを見抜きます。和さんはすぐさま手を尽くし、日本赤十字社医療センターの前身である日赤病院へ弟を収容しました。
遺児・大関増博の保護
そして復彦は七月十六日に他界した。和は病気を押して、あの裏長屋に出かけた。復彦の息子を引き取るためである。女は泣きわめいて抵抗したが、和は男の子を取り上げると、女に手切れ金を渡して立ち去った。増博は烏山に嫁いでいる和の妹釛(こく)のところに預けることにした。そんな和を、釛は「情の強い」人だとつくづく思ったものである(川原貞氏談)。
(引用『大風のように生きて: 日本最初の看護婦大関和物語』亀山美知子)
懸命の治療も虚しく、復彦さんはこの世を去ります。
枕元には、素性の知れない女性と、当時8〜9歳ほどの息子・大関増博(おおぜき ますひろ)さんが残されていました。
敬愛する元藩主・大関増裕さんと同じ名を持つ甥を、置いておけず
「この子は、大関家の血を引く大切な跡取りだ」
泣いて抵抗する女性に手切れ金を渡し、増博さんを引き取るという断固たる措置を取ります。
息子の新たな人生
和さんは引き取った増博さんを、結婚して栃木県烏山町(那須烏山市)で暮らす妹の川原釛さんに預けます。
豊かな自然と叔母の愛情に包まれて育った増博さんは、のちに地元の名門・烏山中学(現・栃木県立烏山高等学校)へと進学し、父が果たせなかった「大関家の誇り」を次代へと繋いでいくことになります。

