2027年大河ドラマ『逆賊の幕臣』
主人公・小栗忠順(おぐり ただまさ)。
こちらでは小栗忠順について、要点を絞ってご紹介いたします。
お役に立てましたら幸いです。
小栗忠順|基本事項
生没
生年月日:1827年6月23日(文政10年閏6月10日)
没年月日:1868年5月27日(慶応4年閏4月6日)
享年は満40歳(数え年で42歳)。
幕末の混乱のさなか、明治へと元号が変わる直前にその生涯を閉じました。
時代
小栗忠順が活躍したのは、1853年のペリー来航から始まる、日本が200年以上の「鎖国」を解いて世界へ目を向けざるを得なくなった頃です。
日米修好通商条約、尊王攘夷運動など、激動の時代でした。
家柄
小栗家は代々徳川家に仕える旗本の家柄で、家康以前からの家臣でした。
また元々は松平姓だったと言われ、徳川と同族であるとも伝わっています。
家紋
「丸に立浪」
小栗忠順ゆかりの東善寺の寺紋でもあります。
これは忠順所有の裃にあった紋で、最も間違いのないものだと言われています。
波紋は、ダイナミックな形や荒々しいイメージから、武人に好まれた家紋でした。
外見
容姿についてまず印象深いのが、額の広さでした。
また、色黒くあばたがあり、眼光が鋭かったそうです。
小栗忠順に面会したある会津藩主は、その印象を「芝居に出てくる高師直※のような恐ろしさだった」と語っています。
忠順自身もそれをよくわかっていたらしく、自分の顔を見て泣き出した3歳の子供を「私の顔が怖くて泣くのだろうが、子供心にも人を見分けるのは感心だ」と言って褒めたといいます。
※高師直とは
足利尊氏の側近として室町幕府の創設を支えた、バサラ(革新的・反体制的)な最強の武闘派政治家です。
「王や法皇が何だ、木や金で像を作っておけば十分だ」と言い放ったとされるエピソードが残っています。
人柄
己の信念を曲げることがなく、正しいと思ったことは誰に対しても直言して憚らない、一徹で厳しい性格でした。
初めて勘定奉行となった時には「国家多事、財政困難の時にあたり、腰抜け武士に高禄を給するは無用なり。よろしくこれらのものを削らざるべかず。」と言い放ち、そのため免職になったとも伝えられています。
直言癖が敵を多く作ることになり、ついに参政には出世できませんでした。
意見を上に取り上げられなければ職を辞し、取り上げられれば邁進。
また、「一言にして国を滅ぼす言葉がある。それは『何とかなるだろう』という言葉だ」と語っていたといいます。自分の言葉には責任を持つ姿勢がよく表れているエピソードですね。
小栗忠順|略年表
小栗忠順の生涯は、まさに日本の変革期そのものです。
| 年齢 | 年(西暦) | できごと |
| 0歳 | 1827年 | 江戸の旗本の子として生まれる |
| 20歳 | 1847年 | はじめての出仕 |
| 29歳 | 1855年 | 目付に抜擢される |
| 34歳 | 1860年 | 「遣米使節団」の目付としてアメリカへ渡る※1 |
| 34歳 | 1861年 | ロシアによる「対馬事件」解決に奔走※2 |
| 37歳 | 1863年 | 軍艦奉行に就任 海軍の近代化を推進 |
| 39歳 | 1865年 | 「横須賀造船所」の建設に着手※3 (フランス人技師ヴェルニーを招聘) |
| 41歳 | 1867年 | 徳川慶喜が大政奉還を行う。 小栗は徹底抗戦を主張 |
| 42歳 | 1868年 | 官職を罷免され、 領地の上野国権田村(群馬県)へ隠居 |
| 42歳 | 1868年 | 新政府軍に捕らえられ、 烏川の河原で「斬首刑」となる※4 |
小栗忠順は何をした人?
小栗忠順は、幕末の混乱期に勘定奉行や軍艦奉行などの要職を歴任したエリート官僚。
「欧米の優れた技術と制度を導入し、日本を近代国家へと導く基礎を築いた」人物です。
造船所建設、フランス式陸軍の導入、重商主義的な貿易政策、そして日本初ともいえる株式会社(兵庫商社)の設立など、軍事から経済まで多方面で改革を断行しました。
それらは、たとえ幕府がなくなっても後に生かされるものばかりでした。
そんな功績とは裏腹に、小栗忠順は幕府と運命をともにしてしまいます。
※1 遣米使節団に抜擢
小栗忠順は井伊直弼に見込まれ、「日米修好通商条約」の批准のためアメリカ派遣の使節団に選ばれます。
現地の工業力に圧倒されながらも、小栗は現地のネジ1本を持ち帰り、日本の工業化の必要性を痛感し、幕府改革の方向性を見出しました。
※2 対馬事件
帰国後、小栗忠順は外国奉行に就任。
さっそくロシア軍艦の対馬不法占拠という難問が降りかかります。
※3 横須賀造船所起工
任命されては罷免というめまぐるしい役替えのなかで、ついに夢見ていた一大事業がスタート。フランスの協力により、近代的工場がつくられました。
「幕府が滅びても、あとの政府が使えばよい」という覚悟で挑んだ大事業でした。
※4 断首刑
主君・徳川慶喜の恭順により、領地権田村へと隠棲した小栗忠順ですが、官軍は何も罪もない忠順を反逆者として捕らえます。
小栗忠順|悲劇の最期と後世の評価
小栗忠順は、新政府軍に従う意志を示していましたが、その高い能力と「軍資金を隠し持っている」というあらぬ疑いから、十分な取り調べもないまま処刑されてしまいました。
忠順が作った横須賀製鉄所は、その後の明治政府に引き継がれ、東郷平八郎(日露戦争の司令官)は、「日本海海戦で勝利できたのは小栗氏がこの製鉄所を作っておいてくれたおかげだ」として、小栗の遺族を招いて感謝の意を表しました。

