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『ブラッサム』黒崎大三郎(遠藤憲一)モデル滝田樗陰

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2026年朝ドラ『ブラッサム』

こちらでは、遠藤憲一さん演じる

黒崎大三郎の実在モデル・滝田樗陰(たきた ちょいん)さん

についてご紹介します。

 

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『ブラッサム』黒崎大三郎と滝田樗陰の共通点と相違点

黒崎大三郎(くろさきだいざぶろう)
キャスト:遠藤憲一
日本屈指の文芸雑誌「首都公論」を率いる編集長。
豪胆な性格と鋭い審美眼で文壇を牽引する存在。
『ブラッサム』黒崎大三郎と滝田樗陰さんの共通点は、「時代を牽引する文芸雑誌の敏腕編集長」という点です。
滝田樗陰さんが宇野千代さんと西洋レストランで出会う点も同じですが、
当時、滝田樗陰さんは35歳。宇野千代さん25歳。
遠藤憲一さん演じる黒崎大三郎は、もう少し年上の設定のようです。
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『ブラッサム』黒崎大三郎モデル|滝田樗陰とは

プロフィール

滝田樗陰(たきたちょいん)
滝田樗陰(1882年〜1925年)本名滝田哲太郎は、
明治・大正期に雑誌『中央公論』の編集長を務め、芥川龍之介や谷崎潤一郎ら数多くの文豪を発掘・育成して近代日本文学の黄金期を築いた伝説的な編集者です。
【生没】
1882年(明治15年)6月28日〜
1925年(大正14年)10月27日
【出身】
秋田県南秋田郡手形新町(秋田市手形新栄町)
【学歴】
秋田中学→
第二高等学校→
東京帝国大学英文科→
東京帝国大学法科→
中退
【趣味】
読書家で美食家
骨董、書画などの収集
【樗陰とは】
滝田樗陰は本名ではなく「号」です。
「樗」は、「おうち」または「おおいち」「チョ」と読み、センダン(栴檀)の古称や、役に立たない木を意味する漢字です。
初夏に薄紫色の小さな花で雲のようにかたまって咲くセンダンは、材木として役に立たない雑木、転じて「役に立たないもの」の比喩としても知られています。(『荘子』に出てくる無用の用の思想)
「役に立たない木のカゲ」という意味でしょうか。
【死因】
腎臓病、喘息
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『ブラッサム』黒崎大三郎モデル|滝田樗陰の経歴

瀧田樗陰さんの経歴をまとめてみました。

年譜

年齢 西暦
和暦
出来事
0 1882
M15
秋田市に生まれる。本名・哲太郎。
教育熱心な父滝田以久治のもとで育つ。
19 1901
M34
秋田中学、第二高等学校(仙台)を経て、東京帝国大学文科大学英文科へ進学(のちに法科へ転じる)。
21 1903
M36
在学中に「中央公論」で海外新聞の翻訳アルバイトを始める。
22 1904
M37
能力を認められ正式な「中央公論」記者となり、大学へ行かなくなり中退。
徳富蘇峰の紹介で国民新聞社に入るが、記事を直されたことに不満を持ち短期間で退社。
「中央公論」に戻る。
23 1905
M38
「中央公論」に文芸欄を設置。 これにより雑誌の部数が大幅に伸びる。
24 1906
M38
帝大時代の恩師である夏目漱石の漱石山房「木曜会」のメンバーとなる。
27 1909
M42
夏目漱石『文学評論』出版にあたり、清書を担当する。
30 1912
M45
これまでの功績が認められ、「中央公論」編集主幹(実質的なトップ)に就任。
32 1914
T3
民本主義を主張する東大教授・吉野作造を起用し、大正デモクラシー思想の普及をめざす。
35 1917
T6
レストラン「燕楽軒」ウエイトレスだった宇野千代と出会う
36 1918
T7
吉野作造の論文などを自ら口述筆記して掲載。
「中央公論」は大正デモクラシーの発信源として全盛期を迎える。
40 1922
T11
5月宇野千代「墓を発く」を「中央公論」に掲載
この頃、夏目漱石、森鷗外、芥川龍之介など大物・新人問わず原稿を依頼。人力車で自ら足を運び、多くの新人を発掘する。
42 1924
T13
腎臓病のため療養生活に入る。
43 1925
T14
10月27日、腎臓病の悪化と喘息のため、東京の自宅で死去(享年43)
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『ブラッサム』黒崎大三郎モデル|滝田樗陰と文豪との交流

滝田樗陰さんと文豪たちとの関わりに焦点を当て、まとめました。
名編集長として、いかに文豪たちに深く食い込み、あるいは新人を見出したのかをご紹介いたします。
※敬称略

夏目漱石との交流

東京帝国大学の学生だった滝田樗陰は、当時講師をしていた夏目漱石の講義を直接受けていました。
これが二人の縁の始まりです。

27歳の時、漱石が大学での講義録をベースにした『文学評論』を出版する際、樗陰は門下生の森田草平とともに原稿の清書を担当しました。

樗陰は漱石の自宅「漱石山房※1」で開かれる「木曜会※2」の常連となります。

漱石が亡くなる1年ほど前からは、毎週木曜日に誰よりも早く訪れ、大量の紙と墨を用意して「先生、お書きください」とほとんど手を持たんばかりの勢いで書画を書かせていたという逸話が残っています。
こうして樗陰は膨大な漱石コレクターとなりました。

それら滝田樗陰が所蔵していた原稿及び書簡類は、2010年に近代文学館に所蔵されています。

森鴎外との交流

30歳、編集主幹に就任した樗陰は、黒塗りの人力車を乗り回して自ら文豪たちのもとへ原稿依頼に回りました。

すでに大物作家だった森鷗外らを執筆陣に引き入れ、雑誌の格を最高峰へと高めます。

広津和郎との交流

当時、スペイン風邪(インフルエンザ)が大流行した際、作家の広津和郎が40度以上の高熱を出し「小説が書けない」と連絡してきました。

しかし樗陰は「流感ハ本社ノ責任ニアラズ」と電報を打ち、容赦なく原稿を催促しました。

宇野千代との交流

35歳、中央公論社の向かいにあった西洋レストラン「燕楽軒」ウエイトレスだった宇野千代と出会いました。

昼食のとき、必ず毎日、姿を見せる客があった。「金時さん」という渾名の、血色の好い赫ら顔をしていて、りゅうとした和服姿の客であったが、いつでも私の受け持ちの席に腰を下ろし、一言も口を利かないで、猛スピードで食事を済ませ、がっと一気にビールを飲み干すと、食事代のほかに、きまって卓子の上に五十銭玉の大きな銀貨をぽんと一つおいて、そそくさと立ち去るのであった。その人が、電車道を距てて燕楽軒の真ん前にあった、あの、中央公論社の名編集長である、瀧田樗陰であろうとは、私は夢にも知らなかった。(『生きて行く私』)
宇野千代はこの銀貨に幸福感を抱き、これをきっかけに作家の道に入ります。

芥川龍之介との交流

34〜35歳の時には、漱石の門下生であり、まだ新進気鋭の若手だった芥川龍之介に目をつけ、「中央公論」の執筆陣に迎え入れます。

樗陰に認められ、同誌に作品が掲載されることは、当時の作家にとって一流の仲間入りを意味しました。

芥川がのちに書いた随筆『滝田哲太郎氏』※3によると、芥川は生活や活動資金のために、よく樗陰に原稿料の前借りを相談していました。

初めて前借りをお願いした時は10円前後(現在の数万円〜十万円相当)という大金で、困り果てた芥川は夜の8時頃に樗陰の自宅を突撃したそうです。

芥川はその時に訪れた樗陰の家の門や庭に、白い草花がたくさん綺麗に咲いていた光景を後年まで覚えていました。

二人には「書画や骨董を愛する」という共通の趣味がありました。

樗陰の自宅で珍しいコレクションを見せてもらうことも多かったようです。

しかし、樗陰の目利きは非常に厳しく、芥川が自分のコレクションを見せても
「どうも芥川さんの美術論は文学論ほど信用出来ないからなあ。」と、まったく評判が良くなかったというコミカルなエピソードを芥川自身が楽しげに振り返っています。

ある時、樗陰が芥川の家を訪ねた際、芥川は笑いながらこんな冗談を言いました。

「『婦人公論』の嶋中君(樗陰の部下)に伝えてください。他の作家のところには波多野(秋子)さんという別嬪(べっぴん)の記者が原稿を頼みに行っているそうですが、僕のところには一度も来ないのは怪しからんです。今度から、他の人が来ても原稿は書かないと言っておいてください」

こんな生意気とも言える軽口を叩き合えるほど、二人の距離は縮まっていました。

1925年10月、樗陰が43歳の若さで亡くなると、芥川は深い悲しみに暮れました。「中央公論」が組んだ樗陰の追悼特集号に、芥川は

「僕なども始終滝田君に作品を褒められたり、或はまた苦心の余になった先輩の作品を見せられたり、いろいろ鞭撻を受けた為にいつの間にかざっと百ばかりの短編小説を書いてしまった。これは僕の滝田君に何より感謝したいと思うことである」

心からの謝意と惜別の情を込めた追悼文を寄せています。※3

樗陰は夏目漱石に対しては「熱心な教え子」として懐に入り込み、他の作家に対しては「人力車で自ら乗り込む執念の編集者」として接していたことが伺えます。
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『ブラッサム』黒崎大三郎モデル|滝田樗陰の人生

滝田樗陰は、晩年に「見果てねどまた見あきねどわが夢は四十三年の意味深き夢」という歌を詠んでいます。
夏目漱石や芥川龍之介ら名だたる文豪の懐に深く飛び込み、卓越した審美眼と情熱で大正の文壇を牽引した滝田樗陰。
自らの「太く短く」という言葉通り、文壇に巨大な足跡を残したまま43歳という若さで激動の生涯を閉じました。
※1【漱石山房】
漱石は1907年(明治40年)から亡くなる1916年(大正5年)までの晩年の約9年間をここで過ごしました。
『三四郎』『それから』『こゝろ』『道草』などの代表作や、絶筆となった『明暗』がこの場所で執筆されました。
建物はのちに空襲で焼失しましたが、現在は「新宿区立漱石山房記念館」(東京都新宿区早稲田南町)として再現・開館されています。
※2【木曜会】
1906年(明治39年)頃から始まった、漱石を囲む定期的な集まり。
来客が多すぎて漱石の執筆活動に支障が出たため、面会日を「毎週木曜日の午後」と定めたことが名前の由来です。
上下関係は厳しくなく、みんなで熱く文学を語り合ったり、漱石が用意したお菓子を食べたりする自由で温かいサロンでした。
<木曜会メンバー>
芥川龍之介(あくたがわりゅうのすけ)
短編『鼻』を漱石に絶賛され、文壇デビューのきっかけを掴みました。
久米正雄(くめまさお)
芥川の親友であり、のちに大衆小説や劇作家として活躍しました。
内田百閒(うちだひゃっけん)
独特のユーモア小説で知られ、漱石との交流を深く愛しました。
寺田寅彦(てらだとらひこ)
物理学者でありながら、優れた随筆を多く残しました。漱石の小説『吾輩は猫である』の水島寒月のモデルの一人とされています。
小宮豊隆(こみやとゆたか)
ドイツ文学者・文芸評論家。漱石の死後、全集の編集などに尽力しました。『三四郎』のモデルの一人です。
※3「滝田哲太郎氏」芥川龍之介
「滝田くんはいつも肥っていた」と書き出されるこの作品は、現在「青空文庫」で無料で読むことが可能です。
芥川龍之介 滝田哲太郎氏
【参考文献】
『滝田樗陰 ある編集者の生涯』杉森久英
「滝田哲太郎氏」芥川龍之介
「秋田県立博物館」
『時代を創った編集者101』寺田博編
『生きて行く私』宇野千代
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