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『ばけばけ』クマのモデルは誰?|小泉八雲一家を支えた7人の女中たち

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朝ドラ『ばけばけ』では、熊本編以降、家族に加えて女中さんや書生たちとの生活が始まります。
実際、小泉八雲さんの家には、同居家族のほかに女中さんなどの使用人や書生さんたちなどが暮らしていました。

その暮らしの中には、当時の「主人と女中」という言葉の響きからは推し量れない温かな関係があったようです。

こちらのページでは、
・小泉八雲さん一家の女中さん7名
・女中さんのおかげで完成した作品
・小泉八雲一家と女中さんの関係性

についてご紹介しています。

おクマちゃんの実在モデルはいるのかいないのか?など、みなさまの考察のお役に立てましたら幸いです。

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小泉八雲|同居家族の変遷

小泉八雲さんの居住地と女中さんなど同居メンバーを、明らかになっている範囲で一覧にしてみました。

場所 時期 家族 女中 書生など
松江 1891年 八雲
セツ
八百(1891)

お米(1891〜)
なし
熊本 1891年

1894年
八雲
セツ
養父・金十郎
養母・トミ
養祖父・万右衛門
長男・一雄(1893生)
お米
お梅(1891〜)
・お抱え車夫
・松(松江の西洋料理店から引き抜いた料理人)
・高浜信喜(稲垣トミ甥)寄宿
神戸 1894年

1896年
八雲
セツ
養父・金十郎
養母・トミ
長男・一雄
(万右衛門、1894松江へ。1898没)
お米
お梅
牛込

 

1896年

1902年
八雲
セツ
養父・金十郎(1900没)
養母・トミ
長男・一雄
次男・巖(1897生)
三男・清(1899生)
お米(1900嫁)
お梅(1899嫁)
おろく(1896〜1899嫁)

お常(1899〜)
お花(1899〜)
お咲(1901〜)
・新美資雄(1896〜1899)

・新美資良(1899〜)
・玉木光栄(1899〜)
・小泉藤三郎(1899逗留)
西大久保 1902年
八雲(1904没)
セツ(1932没)
養母・トミ(1912没)
長男・一雄
次男・巖
三男・清
長女・寿々子(1903生)
お常
お花
お咲
・戸川秋骨(間借り)

表の他にも、乳母や料理人などがいたようです。

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小泉八雲の女中一覧・エピソード

小泉家女中一覧表

名前 期間 エピソード
八百 松江 17歳。
父・高木苓太郎さんが八雲さんの帰化の手続きを行う。
お米 松江・熊本・神戸・牛込 19歳〜28歳。
八雲さんから「世界一番馬鹿の女」と嘆かれる。
嫁ぎ先で見つけた日記をセツさんに見せたことで『ある女の日記』完成。
お梅 熊本・神戸・牛込 家族に次々先立たれた過去を持つ。
『人形の墓』モデルとされる。
おろく 牛込 働き者で正直者、福々しい顔と朗らかな性格。
巖さんの目をつついた一雄さんを叱る。
お常 牛込・西大久保 書生・新美兄弟の従妹。
”醜女ながらも正直な働き者”
お花 牛込・西大久保 お花さんの父・宗八さんが西大久保の増築。
「雪女」を八雲さんに語って聞かせたのが宗八さん。
お咲 牛込・西大久保 八雲さんが心酔した焼津の魚屋「乙吉」さんの末娘。
いずれ女中に出ると聞き、八雲さんが東京に戻る時に一緒に連れて帰った。

八百

京店にあるハーンの家に「奉公」に行ったのは、「節子夫人ご結婚後間もない」時であったと述べているのである。
(引用:『八雲の妻 小泉セツの生涯』長谷川洋二)

セツさんの養家・稲垣家の親戚・高木苓太郎さんの娘、八百さん。
17歳の八百さんは、セツさんとほぼ同時期の1889年(明治22年)2月あたりから、次の女中・お米さんが雇われるまで、勤められていたそうです。

八百さんは、新婚当初の夫婦の生活を間近に見ておられた人物で、当時、八雲さんがセツさんを着飾らせる様子について「節子さんは終始日本服で、髷は丸髷、実に立派な奥様ぶりで大層先生の気に入っておりました。」と語っておられます。

セツさんの養母・トミさんの親戚ということもあり、セツさんが八百さんの母に月一回の八雲さんの目の薬師参りの代参を頼んだり、八雲さんの帰化の手続きを八百さんの父・高木苓太郎さんに頼んだりして、長く交流が続きます。

その後占い師となった高木苓太郎さんは、『霊の日本』所収の「占いの話」に描かれます。

お米

八百さんに代わり、19歳から勤め始めたお米さんは、出雲今市の桜井与市兵衛さんの娘です。

お米さんは、一番大きい煮魚を自分のお皿に盛り付けて稲垣トミさんに叱られたり、たびたび小皿を割ったりしながらも、がむしゃらに働き、数ヶ月で月給1円に昇給します。

予想外の昇給に歓喜の余り飛上り、台所の上蓋を踏破ったという逸話もある女だが、以来熊本、神戸、東京とついてきた。明治三一年夏、鵠沼海岸で危うく溺れかかり、父をして「世界一番馬鹿の女」と嘆かせしめた女である。
(引用:『父小泉八雲』小泉一雄)

”父”とは、八雲さん。
泳ぎの得意な八雲さんが溺れかけたお米さんを助けたそうです。
そんなお米さんは、度々暇を出されながらも松江から東京牛込まで9年間勤め上げ、28歳で宮内省の小使い・鈴木幸三さんの後妻となりました。

そして、嫁ぎ先の針箱に「むかしばなし」と書かれた17葉の半紙を見つけ、セツさんに手渡します。
それは、先妻の日記でした。
小泉八雲さんの短編小説『ある女の日記』は、この日記をもとに書かれた作品です。

なお、お米さんは夫に先立たれた後、何度か同棲しては相手や子どもに先立たれ、その度に小泉家に戻ってきたということです。

お梅

お梅は、次々と肉親を失った子供同然の娘で、その哀れな身の上は、ハーンの「人形の墓」(『仏の畑の落穂』所収)で語られ、熊本に戻って嫁ぐまでの八年を、ハーンとセツの許で働いて暮らすことになる。
(引用:『八雲の妻 小泉セツの生涯』長谷川洋二)

熊本で雇い入れた女中・お梅さんは肉親を次々に亡くした女の子でした。お梅さんの話をもとに作られたのが、「人形の墓」という作品です。

お梅さんをモデルにした「人形の墓」のイネは10、11歳ですが、お梅さん自身のはっきりとした年齢はわかりません。

『ばけばけ』で、「人形の墓」の話を伝えるのは「吉野イセ」。
「吉野イセ」がお梅さんのモデルなのでしょうか?

お梅さんは、書生が2人になった1899年の秋に熊本に帰って結婚しています。

おろく

1896年9月に小泉八雲さんが東京帝国大学で英語を教えることになると、一家は東京牛込に上京しました。
その時に20日ほど滞在した旅館「龍岡楼」の女中だったのが、おろくさんです。
おろくさんを気に入った小泉家は、新メンバーに迎え入れました。

働き者で正直者、その上に福々しい顔と朗らかな性格を持ったおろく、、、は家中を明るくした。ハーンが「スウィート」と言って子供の手にキスをする。彼女をこれを「スイテ(吸手)」と呼んで、家中に流行らせた。
(引用:『八雲の妻 小泉セツの生涯』長谷川洋二)

年が明け、1897年2月に次男・巖さんが誕生します。当時3〜4歳だった長男・一雄さんが鮮明に記憶してるおろくさんのエピソードがあります。
幼い一雄さんは赤ちゃんの巖さんを抱くことを許されておらず、ある日、巖さんの目をそっと突いてみたそうです。
すると、目をぱちくりさせた巌さん。
その表情が面白く、一雄さんはそれを繰り返します。

数日後、巌さんが目に炎症を起こし、八雲さんはじめ、家族は大騒ぎ。
そんななか、おろくさんは、一雄さんが巖さんの目をつついているところを見かけます。

ニコニコ顔のおろく・・・がこの時だけは名状しがたい激烈な人相に変じて私を突き飛ばしました。「可哀想にに赤様あかちゃまのお目目をこんなにしたのはお兄様にいちゃまだったんですネ!」おろく・・・はこの時、泣いて私を叱りました。「この赤様あかちゃまのお目目がパパ様のようなお目目になってしまつたらどうします?」おろく・・・は真から憤つたようでしたが、このことは誰にも告げはしませんでした。

東京生まれのおろくさんは、結婚後もセツさんと一緒に歌舞伎通いを楽しんでいたそうです。

お常

そんな3人の女中さんたちが同時期に結婚し、牛込の家には新しい女中さんが3人迎えられました。
その1人が、越後出身のお常さん。
書生の新美兄弟の従妹で、新美兄弟の弟・新美資良さんと同時期に小泉家にやってきました。

醜女ながらも正直な働き者で、西大久保への転居を挟んで、三年ほど奉公した。例のテーブル周りの歌の宴で、彼女は一つも歌えず、ただ故郷越後の盆踊り歌だけは、朗らかに歌ったという。
(引用:『八雲の妻 小泉セツの生涯』長谷川洋二)

実直な新美資良さんと同様、真面目な方だったようです。

お花

東京府西多摩郡調布村(現・青梅市)出身のお花さん。
女中のあっせん業者の紹介で小泉家にやってきました。

小泉八雲さんとセツさんの三男・清さんが乳母に懐かず、雇ったばかりのお花さんにはとても懐いたそうです。

この頃、一家は東京牛込に住んでいましたが、家の隣の瘤寺の住職が八雲さんお気に入りの寺の木を切ってしまったことに気を悪くした八雲さんは、西大久保に引っ越すことにしました。

借家ではなくマイホームを持った小泉家は、後にお花さんの父・宗八さんに西大久保の増築を依頼します。宗八さんの本業は農家ですが、地元の村(西多摩郡調布村)では改築などもしていたとのこと。

さらに、村に伝わる「雪女」伝説をセツさんに教えたのも、この宗八さんでした。

お咲

八雲さんが心酔した焼津の魚屋・乙吉さんの末娘、お咲さん。
13歳のお咲さんは、夏、毎日海へ泳ぎに行く八雲さんや一雄さんにくっついていたそうです。
乙吉さんからいずれ女中に出すと聞いた八雲さんは、東京に戻る時にお咲さんを一緒に連れて帰りました。

山口乙吉(焼津の魚屋の店主)
晩年の小泉八雲さんが毎年訪れていた焼津の逗留先の店主。
浜通りで魚屋を営んでいた乙吉さんは、めずらしい魚を調理しては八雲さんに食べさせていました。
純朴で正直者な乙吉さんのことを大変気に入った八雲さんは「神様のような人だ」と称賛。
乙吉さんのことを”乙吉さーま”と呼び、乙吉さんは八雲さんを”先生様”と呼んでいました。
随筆『乙吉のだるま』では、二人の心温まる交流が描かれています。
なお、当時の乙吉さんの家は愛知県犬山市の博物館明治村に移築展示され、1階部分は「駄菓子屋 八雲」として活用されているそうです。
お宅に着きますと「皆の人来て下さい」と奥から書生さんや女中さんをお呼びになり、私を部屋の真ん中に坐らせて「この娘さん、やいづの乙吉サーマの大事な娘、いじめないで下さい、頼みます」とおっしゃいました。この言葉は今だに忘れません……(北山宏明『小泉八雲と焼津』焼津小泉記念館所蔵)
(引用:『八雲の妻 小泉セツの生涯』長谷川洋二)

親もとを離れて不安なお咲さんに気遣う、優しい八雲さんの姿が目に浮かびますね。

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小泉八雲の女中と作品

小泉八雲さんが女中さんやその肉親)にヒントを得て書いた作品をご紹介いたします。

「ある女の日記」お米

お米さんが嫁ぎ先の鈴木家に残る先妻の針箱に「むかしばなし」と書かれた17葉の半紙(先妻の日記)を見つけてセツさんに手渡し、作られたのが、「ある女の日記」という短編小説です。この日記にいたく感動した小泉八雲さんにより創作に至りましたが、夫婦は日記の主である先妻の個人情報が明かされないよう細心の注意を払っておられたそうです。

二人で秘密を守ると約束しました。それから、この人の墓に花や香を持って二人で参詣いたしました。
(引用『思ひ出の記』小泉節子)

「旅先で偶然見つけた古い日記を巡る物語」として描かれています。

「ある女の日記」(A Woman’s Diary)1902年『骨董』

物語は、東京の下町で夫と3人の子供と、静かに貧しく暮らす女性の日常から始まります。
最初は、家族の何気ない幸せや子供たちの成長が綴られています。ですが、運命は過酷でした。
3人の子供たちが、相次いで病気で亡くなってしまうのです。
日記には、一人、また一人と宝物を奪われていく母親の、張り裂けるような悲しみが克明に記されます。
子供たちを失った後、母親自身も重い病に侵されます。
日記は、死が近づく中で書かれたものとは思えないほど穏やかで、恨み言ひとつなく、ただ亡き子供たちや夫への深い愛と、運命を受け入れる静かな覚悟で満たされていきます。
そして、日記は母親が息を引き取る直前で途絶えます。

古き良き日本の風景や人々の心の豊かさを感じさせる作品です。

「人形の墓」お梅

熊本で雇い入れた女中・お梅さんは、肉親を次々に亡くした女の子でした。
お梅さんの話をもとに作られたのが、「人形の墓」という作品です。

「人形の墓」1897年『仏陀の国の落穂』
小泉八雲の短編小説『人形の墓』は、子守娘イネが語る家族崩壊の物語です。
建具屋を営む6人家族は幸せに暮らしていましたが、ある夏の日、父と母が相次いで急逝。
ただ、古くから伝わる言い伝え「人形の墓」(同じ年に二つの葬儀を出せば、三つ目の墓にわら人形を収めて供養しなければならない)は行われず、働き手となった兄も母の四十九日の朝に「母が袖を引っぱる」とうわ言を残して亡くなってしまいます。
祖母の必死の抵抗も虚しく、家族は次々とこの世を去り、残されたイネと妹は別々の家にもらわれ、家系は途絶えます。
話を終えたイネが、自分の不幸が八雲に乗り移ることを恐れて座布団のぬくもりを追い払おうとしますが、八雲はあえてそのまま座ります。
万右衛門は、八雲がイネの不幸を引き受け、苦労を知ろうとする深い思いやりを示したのだとイネに伝えました。
「不幸が乗り移ることを恐れて座布団のぬくもりを追い払う」という島根の風習と、熊本の「人形の墓」の伝承をミックスして作られました。

「雪女」お花

東京府西多摩郡調布村に伝わる「雪女」伝説を教えたのは、普請のため八雲さんの家を訪れていたお花さんの父・宗八さんでした。

「雪女」(Yuki-Onna)1904年『怪談』
昔むかし、武蔵国のある冬の夜。
茂作(老人)と巳之吉(18歳)という2人の木こりが、山でひどい吹雪にあい、山小屋を見つけます。
火鉢もない山小屋で眠ってしまった2人。
しばらくすると、巳之吉は顔に当たる雪に気がつきます。
見ると白装束の女が茂吉の上に乗り、息を吹きかけているではありませんか。
「見たな、私は雪女。お前は若いし見逃してやろう。でも、今見たこと決して誰にも言ってはいけないよ。もしも言ったら殺してやるからね。」
そう言うと、女は出て行ってしまいました。
翌年の冬、巳之吉は若い娘に出会います。
娘の名は「お雪」。
雪のような白い肌のお雪に徐々に惹かれ、やがて2人は結婚。
10人もの小宝に恵まれました。
でも不思議なのは、たくさん子供も産んでも、結婚して何年も経つのに、お雪が一向に年を取らないことでした。
その幸せもついに終わりを迎えることになります。
巳之吉は、お雪に何気なく雪女の話をしてしまったのです。
お雪は言いました。
「あれほど約束したのにどうして喋ってしまったの?
でも、子供たちのことを思うとお前の命を取ることはできぬ。
せめて子供たちを大事に育てておくれ。」
輝く白い霞となり消えてしまったお雪は、それきり2度と現れませんでした。
巳之吉は、いつまでも後悔し続けるのでした。
小泉八雲さんの傑作『怪談』のなかでもひときわ恐ろしく、美しい話となっています。
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小泉八雲一家と「女中」|血縁を超えた絆の物語

明治の家庭における「家族」としての女中

明治の中流以上の家庭において、女中は単なる労働力ではなく、寝食を共にする家族の延長でした。
良家の子女が「行儀見習い」として奉公する教育の場でもあり、主従を超えた「温かな序列」のなかに、家族としての絆が存在していました。

八雲の愛した日本の主従関係

アラブ系の血を引くと思われるギリシャ人の母を持つ八雲さんは自身も差別を経験し、元奴隷の女性を最初の妻とした背景を持っています。

そんな八雲さんにとって、契約ではなく「縁」と「信頼」で結ばれた日本の主従関係は、驚きと感動の対象でした。情を持って接し、女中さんたちを単なる召使いとしては扱いません。

創作を支えた「日本の美徳」

女中さんたちは、家事の枠を超えて子供の教育や妻・セツさんの支えとなり、時には物語の語り部として八雲さんの創作活動を支えます。

家族の一員である女中さんたちの存在は、日本の美徳を描いた小泉八雲作品の不可欠な源泉だったのかもしれません。

 

 

【参考文献】
『父小泉八雲』小泉一雄:小山書店
『八雲の妻 小泉セツの生涯』長谷川洋二:潮出版社
『思ひ出の記』小泉節子:ハーベスト出版
『KWAIDAN Stories and Studies of Strange Things』小泉八雲:CHARLES E. TUTTLE COMPANY

 

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