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大関和の孫・大関一郎|孤高の看護婦が捧げた「無償の愛」

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大関和さんにとって、目に入れても痛くないほど可愛い「初孫」、そして「唯一の孫」それが大関一郎さんです。

こちらでは大関和さんとお孫さんである大関一郎さんの関係についてご紹介し、ドラマでは描ききれない背景に迫ります。

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大関和(おおぜき ちか)|家族一覧

大関和さんの家族を一覧表にまとめました。

生家
父:大関弾右衛門増虎だんえもんますとら
母:大関てつ
姉:大関八千代やちよ
弟:大関復彦ふくひこ
弟:大関まもる
妹:大関こく
婚家
夫:渡辺福之進豊綱
子ども・子孫
長男:大関六郎
ろくろう

長女:大関しん
孫:大関一郎(六郎の子)
嫁:大関(澤本)操(息子・六郎と結婚)
親戚
姪:志村よしえ(姉・八千代の子)
甥:大関増博(弟・復彦の子)
姪:大関ノブ(弟・衛の子)
姪:大関美千代(弟・衛の子)
甥:川原さとし(妹・釛の子)
甥:川原博巳ひろみ(妹・釛の子)
その他:川原(鹿内)貞(甥・博巳と結婚)
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大関和と孫・大関一郎

大関一郎(おおぜきいちろう)
1909年(明治42年)〜

誕生

1909年(明治42年)、大関家に待望の新しい命が誕生しました。大関六郎さんと妻・操さんの長男、大関一郎さんです。大関和さんにとっては、目に入れても痛くないほど可愛い「初孫」の誕生でした。

幼くして背負った「喪失」の運命

しかし、幸せな時間は長くは続きませんでした。
一郎さんが誕生した翌年の1910年(明治43年)、父・六郎さんが遠くジャワ島でマラリアに感染し、33歳の若さで急逝。
さらに1915(大正4)年には、母・操さんまでもが34歳という若さでこの世を去ってしまいます。
わずか数年のうちに両親を失い、天涯孤独の身となった大関一郎さん。この過酷な運命が、祖母・和さんとの密接な関わりの始まりとなりました。

祖母・和の「償い」と溺愛の日々

かつて、大関和さんは「日本初の看護婦」としての使命感に燃え、多忙を極めていました。そのため、実子である六郎さんの育児は母・哲さんに任せきりにしてしまったという強い負い目があったのです。

和は六郎が小さかった頃、仕事が忙しくてかまってやれなかった分、孫の一郎を溺愛する。派出先へも連れて行く有様であった。
(引用『明治のナイチンゲール 大関和物語』田中ひかる)

「あの子にしてやれなかったことを、この子に捧げたい」
和さんは、一郎さんを文字通り溺愛しました。小遣い、洋服、当時まだ高級品だった時計……。一郎さんが欲しがるものは、何一つ拒むことなく買い与えたと言われています。その慈しみようは、周囲が驚くほど徹底したものでした。

鎌倉への転地と、止まらない「孫への投資」

しかし、一郎さんが旧制中学に進学する頃になると、自由に育ちすぎた孫の行く末に、一抹の不安を抱き始めます。和さんは教育環境を変えるため、一郎さんを鎌倉の知人宅へ預け、そこから学校へ通わせることに決めました。

哲に甘やかされた六郎は、学校の成績は良かったが、長じてからは働こうとせず、最後はふらっといなくなってしまった。一郎は、自分だけでなく、同居する看護婦からも「坊ちゃん」と呼ばれ、甘やかされている。和は一大決心をし、中学生になると同時に、一郎を鎌倉の知り合いの家に預けることにした。
(引用『明治のナイチンゲール 大関和物語』田中ひかる)

離れてもなお和さんの愛は揺らぎませんでした。
金銭への執着がなかった和さんは、学費も厭わず、一郎さんを明治学院(現在の明治学院大学)へと進学させます。和さんにとって、一郎さんの成長を支援することこそが、人生の最晩年における最大の喜びとなっていたのです。

昭和7年、春の旅立ちと祖母の最期

1932(昭和7)年、春。大関一郎さんは、祖母の全面的な支えを受け、明治学院を卒業し、社会人としての第一歩を踏み出しました。
その姿を見届け、安心したかのように、同年5月22日、大関和さんは74歳でその激動の生涯を閉じました。

厳格な「看護の母」として知られた大関和さんが、一人の「祖母」として最後まで案じ、愛し抜いた大関一郎さん。孫が社会へ羽ばたいたその年は、祖母にとって使命をすべて全うした、安らかな終着点だったのかもしれません。

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