2026年朝ドラ『風、薫る』。
ヒロイン・一ノ瀬りんのモデルとなった大関和(おおぜきちか)さんとは一体どのような人物だったのでしょうか。
女史の生家は野洲で小藩の家老職の家であった。それゆえまず尋常に成長し、結婚して二人の子供を生み、その半生は、外部から見て何の特異も感ずるものではなかったという。
(引用:『相馬愛蔵・黒光著作集1穂高高原』)
これは、”明治のナイチンゲール”と称される大関和さんについて記された一節です。
「元家老の娘」として、穏やかで平凡な人生を送るはずだった大関和さんは、なぜ日本のトレインドナース(正規の教育を受けた看護婦)の先駆者へと転じたのか、その人となりと波乱に満ちた道のりを紐解きます。
大関和とは
大関和|プロフィール
大関 和(おおぜき ちか)
1858年(安政5年)5月23日〜
1932年(昭和7年)5月22日
【出身・居住地】
下野国黒羽藩(現・栃木県大田原市)国家老
→神田五軒町(現・千代田区外神田)
→新潟県高田(現・新潟県上越市)
→本郷区本郷弓町(現・文京区本郷)
大関和|家族
父 :大関弾右衛門増虎
母 :大関哲
姉 :大関八千代(志村八千代)
弟 :大関復彦
弟 :大関衛
妹 :大関釛(川原釛)
夫 :渡辺福之進豊綱
長男:大関六郎
長女:大関心
孫 :大関一郎(六郎の子)
嫁 :大関(澤本)操(息子・六郎と結婚)
大関和|性格
「己の良心に恥じないか」が判断基準。育ちは良いが視野が狭くなりがち。いざという時に潔く思い切った行動力がある。
(引用:NHK公式サイト)
これは朝ドラ『風、薫る』ヒロイン・一ノ瀬りんの紹介です。
そのモチーフとなった大関和さんは、次のように語られています。
女史は人も知る通り性格のきっぱりとした野洲生れで、正しと信じるところにはいささかの躊躇もなく、言うよりも早く実行がある。
(引用:『相馬愛蔵・黒光著作集1穂高高原』)毅然としているかと思えば涙もろかったり、繊細かと思えば大胆であったり、資料を読めば読むほど、和の性格は掴みどころがなかったのだが、一郎の次の言葉が、最も端的に和という人を表しているように思える。
「士族意識から来るものか、終生エリートとしての誇りがあり、威張っているわけではないのですが、気位の高さは一貫してあったと言えます」
(引用『明治のナイチンゲール 大関和物語』田中ひかる)
高潔で情熱的、行動力のある人物像が見えてきます。
竹を割ったような気性で、気高く揺るぎない自尊心、それでいて涙もろい多面的で深みがある人間性が魅力的です。
また、献身ではなく職業として、看護が奉仕ではなく正当な対価を得る専門職であると世間に認めてもらえるように身を削り力を尽くしてきた鈴木雅さんとは対照的に、奉仕の精神の強さがクローズアップされて語られることが多いようです。
大関和の人生
年譜
| 1858年 (安政5) |
0歳 | 誕生 |
| 1876年 (明治9) |
18歳 | 父他界、結婚 |
| 1877年 (明治10) |
19歳 | 長男・六郎出産 |
| 1880年 (明治13) |
22歳 | 実家で長女・心出産 夫と離縁・上京 |
| ー | ー | 外交官・鄭家「女中」 英語塾通学 植村正久牧師との出会い |
| 1883年 (明治16) |
25歳 | 母と2児、妹の釛を連れて建設中の鹿鳴館を見に行く。 |
| 1884年 (明治17) |
26歳 | 鹿鳴館のチャリティーで大山捨松と出会う。 鹿鳴館の通訳に |
| 1887年 (明治20) |
29歳 | 1月 桜井看護学校入学(2年間の寮生活) 3月 洗礼を受ける。 10月 帝大医科大学で実習開始 |
| 1888年 (明治21) |
30歳 | 10月 桜井看護学校卒業 帝大医科大学外科看護婦取締 |
| 1889年 (明治22) |
31歳 | 相馬愛蔵入院 |
| 1890年 (明治23) |
33歳 | 9月 佐藤三吉に建議書提出 11月 帝大医科大学退職 12月 越後高田に単身赴任 |
| 1891年 (明治24) |
34歳 | 5月 木下尚江と出会う 11月 知命堂病院看護長に。 |
| 1896年 (明治29) |
38歳 | 帰京 「東京看護婦会」鈴木雅の片腕に 「看護婦規則」制定を直訴 |
| 1898年 (明治31) |
40歳 | 2月 木下尚江収監 12月 木下尚江から求婚 |
| ー | ー | 木下尚江から結婚白紙の申し入れ |
| 1900年 (明治33) |
42歳 | 6月 長女・心他界(享年20) 7月「看護婦規則」制定 |
| 1904年 (明治37) |
46歳 | 東京市祝捷大会での混乱で活躍 長男・六郎結婚(27歳) |
| 1907年 (明治40) |
49歳 | 結核の弟・復彦と再会、復彦他界。 復彦の息子・増博を妹・釛に預ける。 |
| 1909年 (明治42) |
51歳 | 初孫にして唯一の孫・一郎誕生。 「大関看護婦会」設立。 |
| 1910年 (明治43) |
52歳 | 7月長男・六郎他界(享年33)。 |
| 1912年 (大正元) |
54歳 | 母・哲他界 妹・釛、甥・博己上京 |
| 1915年 (大正4) |
57歳 | 六郎の妻・大関操他界 |
| 1917年 (大正6年) |
59歳 | 大日本看護婦協会・東京看護学校設立 |
| 1920年 (大正9年) |
62歳 | 聖路加国際病院高等看護学校設立 |
| 1923年 (大正12) |
65歳 | 6月関東大震災で罹災 大関看護婦会焼失のため移転 |
| 1932年 (大正7) |
73歳 | 5月他界 |
家老の娘(0〜18歳)
1858年5月23日(4月11日)
大関和さんは、幕末の動乱迫る頃、大関弾右衛門増虎さん(黒羽藩家老)と母・哲さん(烏山藩士の娘)の次女として、下野国黒羽藩に誕生しました。
名君として知られる藩主・大関増裕さんに可愛がられていた和さんですが、9歳の年末、増裕さんが急逝すると、父は家老職の辞職を余儀なくされ、家族で上京することに。
(制改革により増虎さんが家知事となったことで、再び黒羽へと戻ったともされています。)
結婚生活(18〜22歳)
18歳
最愛の父・増虎さんが和さんの縁談を整え亡くなると、黒羽の大地主に嫁いだ和さんを待っていたのは、妾と暮らす夫、嫁をいびる姑、痩せた土地での米作り。
19歳
長男・六郎さん出産。
22歳
長女・心さん出産のため実家に帰った和さん。
意外にも義母は里帰り出産に反対しなかった。それどころか結婚以来一度も実家に帰っていない和に、六郎も連れて行き、母親に顔を見せてやるようにと言う。「物言う嫁」を懐柔しようとしたのだ。おかげで和は六郎と一緒に、柴田家が用意した人力車で上京することができた。
(引用『明治のナイチンゲール 大関和物語』田中ひかる)
当時は嫁から離縁を申し出るなどありえないことでしたが、和さんは離婚計画を前々から立てておられたのかもしれません。
4年の結婚生活は終わりを告げます。
ある日忽然と六郎が姿を消す。柴田家の使いが大事な跡取りを取り返しに来たのである。柴田家と大関家の間で六郎の奪い合いが始まり、最終的に六郎が和のもとに落ち着くまでに、一年を要した。
(引用『明治のナイチンゲール 大関和物語』田中ひかる)
※『明治のナイチンゲール 大関和物語』内には「プライバシーに配慮し仮名とした人物がいる。」とのあとがきがあり、それが「柴田家」として描かれる婚家のことだと考えられます。
女中(23〜26歳)
幼い子供たちを抱えた和さんは、日中は近所の外交官・鄭永寧家の女中として働き、仕事終わりは通訳になるため「正美英学塾」で英語を習う日々。
塾長・植村正度の兄・植村正久牧師、キリスト教と出会います。
鹿鳴館(26〜28歳)
26歳の6月
鹿鳴館での「婦人慈善市」(チャリティーバザー)を手伝いに行った和さん。
英語力を活かし、主催者・大山捨松さん(大山巌の妻)の代わりに外国人への対応を買って出ます。
それが大山捨松さんの目に留まり、鹿鳴館での通訳の仕事と英語講師の仕事に誘われ転職することができました。
桜井看護学校(28〜30歳)
鹿鳴館の通訳となり3年。
礼拝終わり、大関和さんは植村正久さんから「看護婦になりませんか」と声をかけられます。宣教師マリア・トゥルーさんが経営する桜井女学校に附属看護学校を設立するというのです。
植村先生は、女史の境遇と性格と見るところあって看護婦になれと慫慂され、女史はそれに対してきわめて明瞭に不服を表明し、『私は生れた家の家柄に対しても、看護婦のようなものにはなれません』と言っていたという。
(引用:『相馬愛蔵・黒光著作集1穂高高原』)当時、看護師は「意気地のない卑しい職業」だとされており、和もそう思っていたからです。しかし、植村に「甚だ高尚な、慈善の職業である。」と諭され、ナイチンゲールの話も交えて説得されました。
(出典:大田原市公式サイト「大関和(おおぜきちか)について〜生立ちや功績など〜」)
桜井女学校附属看護婦養成所の入学を決意した和さんは母を説得し、28歳から2年間の寮生活が始まります。
入学時の生徒は8人。
校長・矢嶋楫子さんの教育方針「聖書に従い、自分で自分を治める」により校則や試験監督は存在しませんでした。
ヒロイン・一ノ瀬りんの
”「己の良心に恥じないか」が判断基準。”
と似ていますね。
入学式、和さんは隣の席の「鈴木雅」さんと運命の出会いを果たします。
入学式の間、和は楫子の存在感に圧倒されつつ、一方で自分の隣に立つ長身の新入生が気になっていた。漆黒の直毛をあごのあたりで断髪し、前髪は眉毛のあたりで切りそろえられている。女性の断髪は珍しく、独特の雰囲気を漂わせていた。
(引用『明治のナイチンゲール 大関和物語』田中ひかる)
寮でも同室の2人。ここから2人のバディが始まります。
帝大医科大学第一医院(30〜32歳)
30歳
第一期生(鈴木雅ら6名)として同校を卒業した和さんは、帝国大学医科大学第一医院の外科「看病婦取締(看護婦長)」に抜擢されます。
東京専門学校(現・早稲田大学)に入学前の学生だった相馬愛蔵さん(後に新宿中村屋を創業)が入院し、大関和さんの手厚い看護に感激したのもこの頃でした。
ただ、帝大医科大学での勤務は短命に終わります。
これは、看病婦たちの睡眠を削っての激務を見かねた和さんが、改善の建議書を佐藤三吉さんに提出したことに起因していると言われています。
ところが、医局の頭越しに行われたこの建議を医師たちは許さなかった。佐藤三吉は和の看護婦としての能力を高く買っていたものの、医師たちと反りの合わない和を看病婦取締に就けておくわけにはいかず、解任する。頭を下げれば一看護婦として働き続けることができたのかもしれないが、和は第一医院を去ることにした。
(引用『明治のナイチンゲール 大関和物語』田中ひかる)
一方で、
すなわち諸先生は『大関は仕事の上では立派な対象だが、あの伝道には弱らされる』と互いに苦笑しあったという。果たして佐藤三吉博士も辟易、女史のあまりに熱心な伝道、それに注がれる烈々の情の避退策として、ちょうど知命堂病院長瀬尾先生から話のあるを幸い、女史をそちらへ推薦したのだとのこと。
(引用:『相馬愛蔵・黒光著作集1穂高高原』)
和さんの熱心な伝道活動が理由だったとも考えられています。
いずれにせよ原因は医師との軋轢。母・哲さんは「どうしてあなたはいつもうまくやれないのだろうね」と嘆いたそうです。
越後高田へ(32〜38歳)
32歳
大関和さんは、マリア・トゥルーさんの紹介で新潟県の高田女学校の舎監兼伝道師の職に就き、その後、瀬尾原始さんの開院した知命堂病院の初代看護長に就任。
講師としても活躍し、赤痢など伝染病の防疫対策を伝授し、地方における看護の近代化に貢献されました。
33歳
単身赴任中の和さんにある出会いが訪れます。
さて愛蔵はかねがね親しい木下氏に、当代信頼すべき婦人として女史のことを話し、木下氏もそういう婦人ならば一度会ってみたいものだと言っているうちに、ちょうど用事ができて高田に行き、病院に女史を訪問して、愛蔵の紹介に違わぬ女史の風格に、まず深い第一印象を得たのであった。
(引用:『相馬愛蔵・黒光著作集1穂高高原』)
「愛蔵」とは、帝大医大病院時代の入院患者だった相馬愛蔵さん。
和さんは、新聞記者を辞め弁護士を目指していた20歳を過ぎたばかりの社会運動家・木下尚江さんに声をかけられます。
何でもその時女史は木下氏を案内して病院内をまわり、婦人科研究室に入ると、壁面の解剖図を指して一々詳しい説明を行い『全く弱ったよ、だがあの真剣さには敬服した』と愛蔵も何気なく聞き過して、やがてそれが女史と木下氏の愛のはじめになろうなどとは、夢にも予期しなかったという。
(引用:『相馬愛蔵・黒光著作集1穂高高原』)
2人の文通が始まりました。
東京看護婦会(38歳〜)
38歳
帰京した和さんは、恩師マリア・トゥルーさんを天国へ見送り、鈴木雅さんの「東京看護婦会」に入り、バディが再始動。
この頃、日清戦争を経験し看護婦の需要が増す世の中では、名ばかりの看護婦が増えており、これを憂いた和さんは、看護婦の「資格の整備」を内務省に直訴したうえ、講師として後進の育成にも励みます。
木下尚江からの求婚(40〜41歳)
そんななか、年下の文通相手・木下尚江さんが恐喝取材罪で逮捕されたという報せが届きます。
これまで木下尚江さんの「会いたい」という要望を断り続けていた和さんですが、この時はすぐに面会に向かいます。
綿入れを縫い、週に一度、食べ物や衣類を届け続けて10ヶ月。
獄中の氏の感激はやがて思慕の情となり、女史もまた持ちまえの熱烈な同情が昂じて、ついに両者の激しい恋愛、そして出獄の上は結婚という絶頂にまで達した。
(引用:『相馬愛蔵・黒光著作集1穂高高原』)『人形のような小娘はつまらないが、中年の女はその熟した智恵が面白い』と。
容貌、情熱、年齢、当年の大関女子はまさにこの木下氏の再び得がたい対象であったといえよう。
(引用:『相馬愛蔵・黒光著作集1穂高高原』)
無罪となり出獄が近づいた日、木下尚江さんは大関和さんに結婚を申し込みました。
その2日後には東京看護婦会を訪れて結婚の意思を確認しますが、紹介者である相馬愛蔵さんがこれに反対。それを受け、この話はなくなりました。
箱根湯本での静養と執筆(42歳)
42歳の夏
20歳の愛娘・心さんを結核で亡くすという、あまりにも早すぎる別れが訪れます。
心さんは母と同じ看護婦の道を歩もうと、看護学校で実習に励んでいた時でした。
和さんは深い喪失感と後悔に打ちひしがれます。
同年12月、木下尚江さんが自身を支えてきたスタッフと結婚。
2人が出会いは、木下尚江さんが和さんに会うため東京看護婦会を訪れた時だと原案『明治のナイチンゲール 大関和物語』に描かれています。
尚江はもう籠の鳥ではない。自由に誰とでも会うことができるのだ。そのことを素直に喜べない自分に気づき、和は恥じ入る。
(引用『明治のナイチンゲール 大関和物語』田中ひかる)
和さんは、箱根湯本での静養を決め、表舞台を退きます。
しかし、この隠遁の日々は、和さんに新たな力を与えました。
静かな時間の中で筆を執り、『実地看護法』などの執筆を通じて、看護の理論化に情熱を注ぎ続けたのです。
鈴木雅の引退(43歳)
43歳
引退した鈴木雅さんの後任として「東京看護婦会会長」に就任。
再び歩み始めた和さんの周囲では、不思議な縁もつながります。
長男の妻であり、自身の片腕でもある看護婦・澤本操さんが音信不通だった和さんの実弟・復彦さんを見つけ、数十年の時を経て再会を果たしたのです。
ただ、ようやく手繰り寄せた再会の喜びも束の間。結核に侵されていた復彦さんは、一人の息子を和さんに託し、静かに息を引き取りました。
大関看護婦会と晩年(51〜71歳)
51歳
大関和さんは、自らの理想を具現化すべく「大関看護婦会」を設立し、講習所を開きます。
六郎さんに息子・一郎さんが誕生し、初孫を抱く喜びにあふれたのも束の間。六郎さんは子が誕生するとすぐに妻子を置いて単身東南アジアへと旅立ち、灼熱の地・ジャワ島でマラリアに倒れ、33歳という若さで帰らぬ人となってしまいます。
53歳
大日本看護婦協会東京組合長に就任。
和さんは日本の看護職の地位向上にその身を捧げます。
闘病生活(72〜74歳)
後進の育成と実践活動に全てを捧げた和さんでしたが、晩年は脳溢血に倒れ、不自由な体で2年間の闘病生活を送りました。
この間、最も多く見舞いに訪れた新宿中村屋創業者の相馬愛蔵さんだったそうです。
和の自宅兼大関看護婦会に自動車でやってきては、枕元に座って思い出話をし、毎度、現在の一〇万円ほどにあたる紙幣を布団の下に押し込んで帰って行った。
(引用『明治のナイチンゲール 大関和物語』田中ひかる)
1932(昭和7)年5月22日
享年74歳でその生涯を閉じました。
大関和さんがが蒔いた「看護」という種は、今もなお多くの医療従事者の心の中で育っています。
まとめ
先駆者の気概
大関和さんの功績は多岐にわたり、語り尽くせませんが、特筆すべきは先駆者としての圧倒的な気概です。
例えば伝染病から身を守るための防疫対策を、後進や地方の家庭にまで積極的に広めた功績は、単なる「お世話」の枠を遥かに超えています。
「医師はキュア(治療)、看護師はケア(看護)」、あるいは「医師は診る、看護師は看る」という役割分担がある中で、決して医師の指示を待つだけではありません。
常に自ら考え、自らの良心に従って能動的に行動し続けていたのです。
その原動力は、家老の娘としての誇りだったのか、あるいは周囲の教えや信仰心によるものだったのか。
いずれにせよ、大関和さんが看護・医療界において唯一無二の、特別な存在であったことは疑いようもありません。
別れと決断の人生
また、大関和さんの人生は、多くの別れと決断の連続でした。
そして困難をただ抱え込むのではなく、看護へと昇華させていきました。
私生活での苦難を乗り越え、何度でも立ち上がりつづけた大関和さん。
大関和さんが守り抜いた看護の灯火は、現代へと引き継がれています。
一人の女性として、母として、そして看護の先駆者として。
大関和さんが駆け抜けた激動の生涯が、時代を超えて私たちの胸を打つのは、偉大な功績の中に、強さと愛情深さに裏打ちされた、時に不器用な人となりが垣間見えるからだと考えます。
【参考文献】
『相馬愛蔵・黒光著作集1穂高高原』郷土出版社
『明治のナイチンゲール 大関和物語』中央公論社
大田原市公式サイト「風光るまち大田原」

