会津戦争での敗北、11歳でのアメリカ留学、そして「鹿鳴館の華」へ――。
明治という激動の時代、数奇な運命を辿った女性、大山捨松(おおやますてまつ)。
「鹿鳴館の華」とも呼ばれた華やかな社交界の主役としての光と、封建的な社会に抗い日本の女子教育の向上に尽力した内なる情熱。
その知られざる「美しき先駆者」の真実の姿に迫ります。
大山捨松(おおやま すてまつ)は何をした人?

大山捨松(おおやま すてまつ)
1860年3月16日〜1919年2月18日
日本初の女子留学生の一人であり、西洋の教養と会津人の不屈の精神をもって、日本の看護・教育・外交の基礎を築きました。
主な功績は、以下の3点です。
1. 「鹿鳴館の華」として外交を支えた
アメリカの大学(ヴァッサー大学)を卒業した超エリートとして、流暢な英語と国際マナーを武器に、閣僚夫人として外交の最前線に立ちました。単に着飾るだけでなく、列強諸国と対等に渡り合うための「日本の顔」としての役割を果たしました。
2. 日本の「看護」と「女子教育」の先駆者
看護の普及: 留学経験を活かし、有志共立東京病院(現・東京慈恵会医科大学附属病院)の設立や、日本赤十字社の看護婦養成の基盤作りに尽力しました。
親友の津田梅子さんが「女子英学塾(現・津田塾大学)」を創立する際、自らも評議員として全力でサポートし、日本の女子高等教育を支えました。
3. 社会奉仕(チャリティ)の導入
バザーを開催して病院の建設資金を集めるなど、当時まだ日本になかった「ボランティアや寄付で社会を良くする」という概念を導入し、実践しました。
大山捨松|誕生・幼少期と家族(0〜8歳)
誕生
山川家は、元々は宿老的な名門の家柄ではなかった。祖先は信濃にあって高縁の保科家に仕えていた。家禄は二〇〇石ほど、高禄ではなかったことが分かる。寛永一三年(一六三六年)保科正之に従い出羽国山形藩を経て、会津藩へ入った。
(引用『会津藩家老・山川家の近代ー大山捨松とその姉妹たちー』遠藤由紀子)
1860年(安政7年)3月16日
大山捨松さんは、「会津若松の国家老・山川家」の末娘として、父の病没から50日後に生をうけました。
幼名は「さき」。
父の死後、剃髪し勝誓院となった厳格な母と父方の祖父らに育てられます。
家族
両親には12人の子どもがいましたが、5人が夭折し、2男5女の末娘だった捨松さん。
捨松さんが「さき」から「捨松」に名を変えたように、ミワさん以外の兄姉も出世魚のように名を変えておられます。
祖父|山川兵衛重英
父|山川尚江重固:会津藩の国家老
母|山川艶(勝誓院):西郷氏の出身で会津藩屈指の歌人・唐衣
姉|山川二葉(美恵)
兄|山川浩(大蔵)
姉|山川ミワ(みわ)
姉|山川操(さよ)
兄|山川健次郎(重教)
姉|山川常盤(さい)
本人|山川捨松(さき・咲子)
山川家の兄弟姉妹は7人中4人が海外渡航・海外留学を経験し、兄2人は明治の教育界で活躍し、姉たちは梶原家、桜井家、徳力家に嫁ぎます。
「山川家の兄妹に共通する性格は、誠実、潔白、厳格、熱血な人たちであったそうで、一瞬にして人間の表裏を見抜き厳しく糾弾する反面、心優しく本心から対応する人々であった」(『薫酒を選びて』五一頁)
(引用『会津藩家老・山川家の近代ー大山捨松とその姉妹たちー』遠藤由紀子)
なお、次兄・健次郎さんは、東京帝国大学総長となり、小泉八雲さんを解雇した人物です。
大山捨松|戊辰戦争(8歳)
戊辰戦争
幕府軍と新政府軍が日本の覇権を争った最終決戦、戊辰戦争。
新政府によって「朝敵」の汚名を着せられた会津藩は、絶望的な防衛戦を強いられます。
1868年(慶応4年)8月
板垣退助ら率いる新政府軍が会津若松城へと迫るなか、山川家は籠城。
母・艶さんは負傷者の看護や弾薬の製造に積極的に働き、わずか8歳のさきさんも弾薬運びを手伝う日々を送っていました。
山川家出身の女たちは、怪我をして体が不自由になるよりも死を望むとし、誰かが重傷を負った際には武士の道にならって首をきりおとすことを約束しあっていたといわれる。
(引用『会津藩家老・山川家の近代ー大山捨松とその姉妹たちー』遠藤由紀子)
ある日、悲劇は突如として訪れます。
食事部屋で砲弾が炸裂し、長兄の妻・登勢さんが瀕死の重傷を負って悶絶死。さきさん自身も首に傷を負ったのです。
皮肉なことに、この戦争で砲兵隊長として城を狙い撃つ務めを果たしていたのは、後に夫となる薩摩藩の大山弥助(巌)さんでした。
ただ、初日に負傷し翌日後送された大山弥助(巌)さんが実際に若松にいたのは2日間ですので、直接攻撃をしたわけではありません。
落城後、会津藩士らは下北半島の斗南(青森県)へ移住しますが、待っていたのは極寒と飢えでした。
心の支えだった祖父を亡くしたさきさんは、生き延びるために函館へ里子に出され、そこからフランス人家庭、アメリカ人宣教師のもとへと、激流に呑み込まれるように運命を変えていくことになります。
大山捨松|岩倉使節団に伴う留学(11歳〜22歳)
女子の留学
1871年(明治4年)
明治の幕開けと共に、山川家に新たな運命の歯車が回り始めます。
次兄・健次郎さんに舞い込んだ岩倉使節団に伴う留学「10年間のアメリカ官費留学」というチャンス。それは、敗軍の将として辛酸をなめた会津藩士たちにとって、再び表舞台へと這い上がるための希望の光でした。
しかし、その募集要項には誰もが目を疑う一節が添えられていました。「女子も募集する」という文言です。
これは、開拓使次官・黒田清隆氏がアメリカで目にした、荒野を切り拓く逞しい女性たちの姿の影響でした。
とはいえ、女子が学ぶこと自体が珍しかった時代。うら若き乙女を海の向こうへ10年も旅立たせるなど、当時の人々にとっては正気の沙汰とは思えない、あまりに破天荒な試みでした。
改名し官費留学
さきさんは利発で、フランス人家庭での生活を通じて西洋式の生活習慣にもある程度慣れていました。
また、いざとなればすでに留学中の兄・健次郎さんを頼りにできるでしょう。
山川家では、女子留学生の再募集があった際に、満11歳になっていたさきさんを思いきって応募させることにしました。
母・艶さんは
「今生では二度と会えるとは思っていないが、捨てたつもりで帰りを待っている」
と覚悟の名前「捨松」と改名させて、送り出します。
そんな捨松さんがアメリカに向け出港した翌日、大山弥助改め大山巌さんも横浜港を発ちジュネーヴへ留学しています。
津田梅子らとの友情
女子留学生は、捨松さんを含めて5人。
上田悌子(16歳)
吉益亮子 (14歳)
山川捨松(11歳)
永井繁子 (10歳)
津田梅子 (6歳)
全員が旧幕臣や賊軍の娘です。
渡米後、5人の女子留学生のうち、結婚適齢期だった年長の2人は、その年のうちに帰国しましたが、年少組の捨松さん、永井繁子さん、津田梅子さんの3人は、自らを「ザ・トリオ」と呼び、異文化の荒波をたくましく泳ぎ抜きます。
この絆は、後に日本の女子教育を切り拓く強固な盟友関係へと育っていきました。
アリス・ベーコン
コネチカット州のベーコン牧師宅で過ごした4年間、捨松さんは猛烈な勢いで英語を吸収します。
その代償として母国語を忘れ、兄から禁じられていたキリスト教へ入信し洗礼を受けるなど、捨松さんの魂は急速に西洋の自由な空気へと染まっていきました。
橋の上から水中に飛び込んだり木登りをしたり。アメリカの自由な空気を満喫し、天真爛漫に成長する捨松さん。
ここで出会った牧師の末娘、アリス・ベーコンさんは、捨松さんの生涯を支える無二の親友となります。
名門ヴァッサー大学へ
その後、全寮制の名門ヴァッサー大学に進学した捨松さんは、
「英語を完璧に操るサムライの娘・スティマツ」
として学内の人気を独占。
国際情勢から生物学まで、あらゆる学問で才能を発揮します。
また、上流階級の女性たちのボランティアの会に参加し、ボランティア精神を育んでいきました。
10年の期限が迫る中、学位取得のために1年の延長を勝ち取った捨松さんは、1882年、学年3位という優秀な成績で卒業。
日本人女性として初の学士号を手にし、卒業生総代として壇上にも立ちました。
さらに看護師免許まで取得し、出発から11年、22歳の堂々たる知識人として日本の土を踏んだのです。
大山捨松|大山巌との出会いと結婚(22歳〜23歳)

日本での就職と日本語の壁
帰国した捨松さんを待っていたのは、皮肉にも「母国語の壁」でした。
全米を驚かせた才女も、日本では読み書きすらままならない「小学生程度の日本語」しか操れません。
幅広い教養は身につきましたが、専門的技能はない。そんな捨松さんに政府は仕事を提供することができません。
理想とした女子教育を施す私塾設立の夢も、資金難や言葉の壁に阻まれ、その門戸を閉ざされてしまいます。
文部省から年俸600円という好待遇で、東京女子師範学校の動物学と生理学の教師の職の打診を受けますが、日本語ができない捨松さんは、辞退するしかありません。
大山巌の一目惚れ
そんな折、一人の男性が捨松さんに目を奪われます。
陸軍卿・大山巌。
薩摩藩の城下・加治屋町の下級藩士・大山家の次男。
かつて会津若松城を砲撃した際、砲兵隊長を務めていた宿敵の将でした。
妻(同郷の吉井友実氏の長女・吉井沢子さん)を亡くし、子らの教育を任せられる伴侶を探していた大山巌さんは、余興の演劇やテニスに興じる捨松さんの洗練された美しさに、瞬く間に心を奪われます。
その出会いには諸説あり、「ザ・トリオ」の永井繁子さん瓜生外吉さんの結婚披露宴の余興で「ヴェニスの商人」演じた捨松さんに一目惚れした説。津田梅子さんたちとテニスをしている捨松さんに一目惚れした説など。
いずれにせよ西洋かぶれしていた大山巖さんは、18歳年下の捨松さんの洗練された美しさにすっかり心を奪われてしまいます。
家族からの反対
ですが、薩摩と会津。
消えぬ怨恨が残る両家の縁談に、周囲は猛反対します。
会津の宿敵ともいえる薩摩の軍人からの申し出をどうして承諾出来ようか。薩摩の裏切り、長州の背信によって朝敵の汚名を着せられた上に、あの「地獄への道」とまでいわれた斗南での歳月を思うと、十年や二十年でその怨みが消えるはずがない。
(引用『鹿鳴館の貴婦人大山捨松 日本人初の女子留学生』久野明子)
連日の大山巖さんの従弟・西郷従道氏の説得に窮した捨松さんの兄・浩さんが、本人の意志を問うと、捨松さんは「お人柄を知らぬうちはお返事できません」と、当時としては破格の「デート」を提案しました。
この結婚話はあくまで関係者の間だけで進められていたため、会う場所を限られており二人のデイトは極秘の内に行われた。
(引用『鹿鳴館の貴婦人大山捨松 日本人初の女子留学生』久野明子)
デート当日。二人で向き合うと、薩摩弁と会津弁では一向に話が通じません。
ところが、二人がフランス語を口にした瞬間、世界は一変。
言葉の壁を飛び越え、捨松さんは大山巖さんの懐の深さと茶目っ気に惹かれていきました。
初デートから3ヶ月、かつての仇敵は、生涯を共にするパートナーへと変わったのです。
鹿鳴館での披露宴
帰国からちょうど一年
1883年(明治16年)11月8日
大山巌さんと捨松さんの婚儀が執り行われました。
1ヶ月後、落成したばかりの鹿鳴館で開かれた披露宴は、千人を超える参列者で埋め尽くされます。
気後れするような喧騒の中、捨松さんは臆することなく、流麗な言葉と気品あふれる振る舞いで客人を魅了し、ニュースになりました。
明治時代の政府主導による華やかな西洋式社交場。
時期:1883年〜1940年
場所:東京・日比谷(現在の帝国ホテル付近)
建築物:イギリス人建築家ジョサイア・コンドルが設計したレンガ造りの2階建てで工費は18万円。現在では30億くらい。建築を請け負ったのは現在の大成建設です。外務卿・井上馨の欧化政策に基づき、欧米諸国と同等の文化を持つことを示し、不平等条約の改正を有利に進める(条約改正)という政治的意図から不平等条約改正の舞台として舞踏会や外交の場に使われました。
西洋式のダンス、食事、服装が導入され、華やかな社交場として機能した後、極端な欧化主義への批判や政治的事情から、1890年に閉鎖。
華族会館に払い下げられ、1940年に取り壊されました。
大山捨松|「鹿鳴館の華」と小説『不如歸』(23歳以降)
「鹿鳴館の華」
「鹿鳴館の華」と呼ばれた23歳。
西洋マナーに戸惑う日本人が多いなか、英・仏・独語を操り、仕立ての良いドレスを着こなし、ユーモアを交えて外交官と渡り合う捨松さんの姿は、まさに独壇場。
列強の夫人たちと対等にステップを踏む捨松さんは、単なる社交界の主役ではなく、日本の国際的地位を背負って立つ「美しき外交官」でもあったのです。
温かな家庭生活
しかし、その華やかさの裏で、薩摩と会津という宿命の壁は厚く、両家の親族との交流は途絶えてしまいます。孤立を深める二人を結んだのは、深い信頼でした。
家では夫を「イワオ」と呼び捨てにし、巌もそれを微笑ましく受け入れる。そんな「おしどり夫婦」の元には、先妻の子を含め6人の子供たちが集いました。
夫|大山巖
長女|大山信子(夫の連れ子)
三女|大山芙蓉子(夫の連れ子)
四女|大山留子(夫の連れ子)
長男|大山高
次男|大山柏
五女|大山久子
『鹿鳴館の貴婦人大山捨松 日本人初の女子留学生』を著した久野明子さんは四女・留子さんの孫にあたり、捨松さんとの血の繋がりはありません。
早産
捨松さんは陸軍大臣夫人として公的に社交を続ける間、妊娠と出産、そして早産も経験しています。
捨松は第三子を亡くしている。幼い時肋膜炎を患った長女の信子は、始終病気がちでこの冬も風邪を引いていた。捨松は吸入器を使って信子を看病していたが、この吸入器が何かのはずみで突然爆発したのである。このショックで捨松は早産し、二日後にその赤ん坊は死んでしまった。
(引用『鹿鳴館の貴婦人大山捨松 日本人初の女子留学生』久野明子)
小説『不如歸』と誹謗中傷
一方で、先妻の娘・信子さんの死を巡る小説『不如歸(ほととぎす)』の流行が、捨松さんを苦しめます。
結核と診断され婚家から離縁された信子さんを献身的に看病した捨松さんですが、
看護の知識に基づいた捨松さんの適切な隔離療養が「継母のいじめ」と誤解を受け、世間の誹謗中傷に晒されたのです。
日本の社会は「出る釘は打たれる」の諺通り、捨松のように人と違った体験をし、優れた能力を持った人間、とりわけ女性に対しては拒絶反応を示しひどく風当たりが強いところである。この『不如帰』騒動で捨松はそのことをいやというほど思い知らされ、晩年になるまで心に深い傷として残った。
(引用『鹿鳴館の貴婦人大山捨松 日本人初の女子留学生』久野明子)
徳冨蘆花の小説『不如歸』が「国民新聞」で連載されたのは、1898年(明治31年)11月から1899年(明治32年)5月にかけて。
捨松さんが38歳から39歳の頃の出来事です。
大山捨松|看護婦養成所設立へのチャリティー(25歳〜27歳)
看護師ゼロの病院
さて、結婚から2年後、アメリカの看護婦免許を持つ捨松さんは「有志共立東京病院」を訪れた際に衝撃を受けました。男性看病人が働くだけで、看護婦の姿がまったく見当たらないではありませんか。
すぐさま設立者の軍医・高木兼寛氏に対し、看護教育の必要性を熱心に説く捨松さん。
ですが、高木医師の返答は
「必要性は痛感しているが、資金がない」
という苦渋に満ちた言葉でした。
鹿鳴館でのチャリティー・バザー
この窮地を救ったのが、捨松さんの行動力です。
米国の慈善事業をモデルに、日本初のチャリティー・バザーを鹿鳴館で開催することを決意すると、政府高官夫人たちを統率し、商品調達から告知、販売までを自ら指揮しました。
日本初の看護婦養成所設立
3日で得た収益は、予想を遥かに上回る1万6,000円。
その全額を病院に寄付し、
1885年(明治18年)
日本初の看護婦養成所設立を実現させたのです。
戦時中の看護活動
日清戦争では陸軍大将・第二軍司令官、日露戦争では元帥陸軍大将・満州軍総司令官を務めた人物を夫に持つ大山捨松さん。
1887年(明治20年)27歳
「日本赤十字篤志婦人会」の発起人となり、日清・日露戦争の最中には、参謀総長として国運を背負う夫を銃後から支えます。
自ら日赤の看護婦として戦傷者の介抱にあたる傍ら、夫人たちを動員して包帯作りに励むなど、資格と立場を最大限に活かして奔走しました。
大山捨松|津田梅子「女子英学塾」開校と晩年(40歳〜60歳)
女子英学塾(現・津田塾大学)
1900年(明治33年)40歳
盟友・津田梅子さんが「女子英学塾(現:津田塾大学)」を設立する際も、捨松さんは瓜生繁子さんと共に全面的に支援します。
一度は閉ざされた捨松さん自身の「理想とした女子教育を施す私塾設立の夢」を重ね見たのかもしれません。
「教育に第三者の口出しをさせない」
という梅子さんの信念を尊重し、金銭的援助ではなく無償のボランティアとして奉仕。
資金集めの委員会会長や理事、さらには梅子さんの不在時に校長代理を務めるなど、塾の基盤を支え続けました。
パトロンを持たない津田梅子さんが民間教育で成功を収めた背景には、間違いなく捨松さんたちの無私の支えがあったのです。
晩年
五十歳にまもなく手が届く年齢になっていた捨松は、この頃妻としても母としても最も充実した平和な日々を送っていた。一人家に残っていた末娘の久子もこの年の暮れに嫁ぎ、二人の息子達もほとんど家におらず、六人の子供たちが賑やかに騒ぎ回っていた頃と比べると、一抹の寂しさはあったが、捨松は夫と二人だけの静かな生活に幸せを感じていた。
(引用『鹿鳴館の貴婦人大山捨松 日本人初の女子留学生』久野明子)
1916年(大正5年)12月
夫・大山巌さんが75年の生涯に幕を下ろすと、その2年後
1919年(大正8年)2月18日
60歳で夫のもとへ旅立たれました。
まとめ
戊辰戦争から日清・日露戦争へ。明治という激動の時代に翻弄されながらも、一人の女性として、そして「政府高官の妻」「6人の子を持つ母」「看護の先駆者」として、大山捨松さんは自らの使命を全うしました。
女子留学生の先駆けとして抱いた「社会を良くしたい」という熱い志は、帰国後の言葉の壁という逆境に阻まれ、人知れず葛藤した時期もありました。
結婚によって得た地位は捨松さんに大きな影響力を与えましたが、同時にそれは、誹謗中傷の的になったり、愛する第二の故郷・アメリカへの再訪や自由な娯楽を諦めたりという、自己犠牲の上に成り立つものでした。
華やかな社交界の主役としての光と、その内側に秘めた献身と情熱。彼女が守り抜いた凛とした精神は、時代を超えた今もなお確かな輝きを放ち続けています。
参考文献
『鹿鳴館の貴婦人大山捨松 日本人初の女子留学生』久野明子(中央公論社)
『会津藩家老・山川家の近代ー大山捨松とその姉妹たちー』遠藤由紀子(雄山閣)

