2026年朝ドラ『ブラッサム』
こちらでは、工藤阿須加さん演じる
島村辰彦の実在モデル・佐伯正夫さん
についてご紹介します。
『ブラッサム』島村辰彦と佐伯正夫の共通点

キャスト:工藤阿須加
珠が働くことになる尋常小学校の同僚教師。
広島の師範学校を卒業し、地元岩国に戻ってきた。
工藤阿須加さん演じる島村辰彦は、ヒロインの勤める尋常小学校に赴任してくる同僚教師である点、師範学校を卒業している点が、佐伯正夫さんと共通しています。
『ブラッサム』「島村辰彦」モデル「佐伯正夫」とは

佐伯正夫(さえきまさお)
宇野千代さんが隣村の岩国の川下村尋常小学校に代用教員として勤めていた際、赴任してきた男性教師であり、宇野千代さんが「これが恋だ」と初めて自覚した初恋相手です。
なお、『生きて行く私』をはじめとする宇野千代さんの回想や自伝的作品では「佐伯正夫」と記されていますが、当時の教員名簿の中に同名の人物が見当たらないことなどから、プライバシー配慮等のための仮の名である可能性が高いとされています。
公式の年譜(『宇野千代全集』等)や当時の記録でも代用教員時代の恋愛事件そのものは確認できるものの、相手男性の本名までは言及されていません。
ただ、宇野千代さんの継母・佐伯リュウさんと共通する「佐伯」という苗字は、リュウさんの実家があり佐伯正夫が暮らした川下村に多い苗字ですので、本名という可能性も捨てきれません。
『ブラッサム』島村辰彦モデル・佐伯正夫|宇野千代との出会い
出会い
1914年(大正3年)
岩国高等女学校を卒業した17歳の宇野千代さんは、隣村の川下村尋常小学校(現在の岩国市立川下小学校)で代用教員として働き始めます。
そこに新任教師として赴任してきたのが、佐伯正夫さんでした。
佐伯正夫の印象
新任の教員が川下の小学校に赴任してきた。色が白く、鬚の剃り痕の、塗ったように青い優さ男であった。師範学校出の歴っきとした訓導で、佐伯正夫と言う男であった。(『生きて行く私』)
『生きて行く私』からわかるのは、師範学校を卒業した、正規の立派な教員であり「優男」という印象を宇野千代さんが抱いたということです。
審美眼に優れた宇野千代さんの初恋相手なので、目鼻立ちのはっきりしたイケメンだった気がします。
『ブラッサム』島村辰彦モデル・佐伯正夫|恋文事件
期間・年齢
出会った当初、宇野千代さんは18歳、佐伯正夫さんは20歳〜20代前半だったと考えられます。
それは、千代さんが女学校を卒業した代用教員だったのに対し、「正規の新任教員」として赴任してきたた佐伯正夫さんが、師範学校を卒業後まもなくだったから。
この交際は、遠距離を含めて1年ほど続き、衝撃的な展開を迎えます。
職場恋愛
始めて教員室で校長から紹介されたとき、その最初の一瞥で、私はこの佐伯正夫に心を奪われた。思いもかけないことであったが、佐伯は私と同じ尋常二年生の、優等生組の受け持ちであった。(『生きて行く私』)
宇野千代さんの一目惚れから始まった関係。
2年の優等生組の担任・佐伯正夫さんと劣等生組(原文ママ)の宇野千代さんは、教育に対する意見を交換しあい、体育の授業は合同で行うほど仲が良くなりました。
その親密さは次第に他の教師たちから注目されていきます。
恋文事件
千代さんは、一人暮らしの佐伯正夫さんの家に手づくりのお惣菜(切り昆布の煮物)や手縫いの座布団を持って訪ねます。
この座布団を持っていく前の授業中
「今夜お宅へ好いものを持ってお伺いします。それは好いものです」
と手紙を書き、生徒に届けさせるという、当時としては(現代でも)考えられない行動に出たことなどで、噂は生徒たちにも広がっていきます。
後年開かれた同窓会で、当時の教え子が「私は先生の郵便屋でした」と発言するほど誰もが知る、有名な出来事でした。
宇野千代さんが佐伯正夫さんの家から朝帰りをする関係になった頃には、すでに村中の噂の的に。
ただ、口数の少ない佐伯正夫さんから「好きだ」という言葉や結婚の話はまったく出なかったそうです。
免職処分
1915年(大正4年)秋のある日、登校するとすぐ校長室に呼ばれた宇野千代さんは、突然、職を解かれます。
理由は、当時、教員同士の恋愛は厳禁という決まりがあったから。
宇野千代さんは解任されてもなお佐伯正夫さんに咎めがなかったことを喜びます。そして、佐伯正夫さんを噂から守るため、国語教師を頼り、朝鮮・京城へ旅立つ決意を固めました。
最後の勤務の日、佐伯正夫さんに見せるため
「髪を島田に結って、牡丹の花の刺繍のある半襟を襟元に合わせ、紺色の袴を胸高く穿き、一張羅の矢絣の糸織りの着物を着て、学校に出た。」
ただ、その格好に驚いた校長は、佐伯正夫さんや生徒たちに挨拶させることはありませんでした。
宇野千代さんはそのまま実家に戻り、新港から朝鮮・京城(ソウル)へ発ちました。
『ブラッサム』島村辰彦モデル佐伯正夫|宇野千代との別れ
京城(ソウル)へ
京城では、家庭教師や朝鮮雑誌社社長・釈尾春芿の家で子守の仕事を始めます。
絶縁状
1916年(大正5年)4月から毎日、佐伯正夫さんに「ながいながい手紙」をしたためた宇野千代さんに対し、佐伯正夫さんも時々返信を書いていましたが、三ヶ月が過ぎた頃に届いたのは、住所を記載していない分厚い手紙でした。
「私もまた、罰をうけたのです」
というその手紙は、佐伯さん自身も7月1日付けで広田村に転勤になり、左遷だと感じていること。
今後一切返事を書かないので絶対に手紙を出さないでほしい。
「もう一度、同じことが起きると、私は破滅します」
という保身の内容でした。
教職を追われた千代さんに対して、佐伯正夫さんは絶縁を言い渡したのです。
帰国
1916年(大正5年)夏
「話し合わなければ」そう考えた宇野千代さんはすぐに「母が急病」と嘘をついて帰国しました。
下関港に着いた雨の日、出刃包丁を購入(母への土産だったとのこと)し、帯の間に挟んで広田村の小学校に向かうと、小学校の小間使いの案内で、佐伯正夫さんの住む寺の離れに到着します。
別れと出刃包丁
千代さんが縁側で声をかけると障子が開き、普段は無口な佐伯正夫さんが険しい声で咎め立てます。そして錯乱したように庭へ飛び降り、千代さんを力いっぱい突き飛ばしたのです。
その拍子に帯から落ちる出刃包丁。
自分を脅すためだと感じた佐伯正夫さんは、出刃包丁を竹藪めがけて投げつけ、雨戸をぴしゃりと閉めてしまいます。
私は泣かなかった。そして、この私の眼の前にぴしゃりと固く閉まった雨戸を、もう一度、叩こうとはしなかった。(『生きて行く私』)
『ブラッサム』島村辰彦モデル佐伯正夫|その後
その後、宇野千代さんは結婚し、小説家としてのスタートを切りますが、『生きて行く私』には、この頃、偶然佐伯正夫さんの姿を見たと描かれています。
それは「墓を発く」の原稿料を手に故郷へ凱旋帰郷した時のことでした。
教員時代に一人暮らしをしていた川下村の祖母・佐伯ミヱさんを訪ねた帰り道、妹の勝子さんが口を開きます。
「ねえさま、矢島の呉服屋にあの佐伯先生が養子にお行きたんでよ」
その言葉を聞き、何気なく通り過ぎようとすると、赤ちゃんを抱えたパパ佐伯が庭で用を足させていたというのです。
あの剃り痕の塗ったように蒼かった頬には、鬚が伸びたままであったが、紛れもない佐伯であった。それだのに、その昔、私がこの佐伯に惚れて、小学校を免職になり、朝鮮まで逃げたことや、はるばるその佐伯を追って広田村まで戻り、雨戸をぴしゃっとしめられたときの、あの激しい思いはどこへ行ったのか。ときが過ぎ、あの昔の激情さえも思い出さないとは、何というおかしなことか。私はこの、忘れ去ったということさえ、忘れ去っているのであった。(『生きて行く私』)
この時、1922年(大正11年)4月、宇野千代さんは24歳。
別れから6年が経っていました。
宇野千代の人生と佐伯正夫
宇野千代の恋愛スタイルの原点
宇野千代さんにとって「初恋相手」である同僚教師・佐伯正夫さん。
ハッピーエンドではありませんでしたが、エピソードの端々に、宇野千代さんの普遍的な恋愛スタイルをいくつか垣間見ることができます。
まずは、甲斐甲斐しさ。
手料理を作ったり、座布団を作ったり、手紙を書いたり。
「世話女房スタイル」は後年変わることなく、宇野千代さんのモテ要素だったと近藤富枝さんが語っておられます。
次に、行動力。
「恋文事件」や京城から恋人に会いに行った話には、宇野千代さんの思い切った行動に驚かされます。
最後は、身を引く美学。
宇野千代さん自身、佐伯正夫との大失恋を振り返り、
「私の失恋の歴史はここから始まった。しかし、私はいつも自分から身を引くようにした」と語っておられます。
引き際が来たら、未練があっても自分から美しく身を引くという、恋愛流儀を身につけたということです。
流浪の旅のスタート地点
故郷の岩国を追われるように飛び出すきっかけを作った佐伯正夫さんは、宇野千代さんが後に作家として、また一人の自立した女性として生きていく道の最初に越えていく一つのハードルのような存在だったのかもしれません。
【参考文献】
『生きて行く私』宇野千代
「別れは愉しかったか〜宇野千代の恋」近藤富枝

