宇野俊次さんは宇野千代さんの実父です。
宇野千代さんを理解するには、父・宇野俊次さんを知ることが重要です。それは、千代さんが自身の性質について「父ゆずり」だと考えておられたから。その性質とはいかなるものか、その人生はどのようなものだったのか。
こちらでは、宇野千代さんの父・宇野俊次さんについてご紹介いたします。

「葉野清治」とモデル「宇野俊次」の共通点・相違点
キャスト:渡部篤郎
珠の父。岩国の蔵元「葉野酒造」の長男だが、家業は継いでいない。
渡部篤郎さん演じる『ブラッサム』ヒロインの父・葉野清治は、「長男にも関わらず実家を継がずに暮らしている」設定ですが、史実では「次男」です。
『ブラッサム』葉野清治モデル|宇野俊次
宇野俊次(うの としつぐ)
1855年(安政2年)7月29日〜1913年(大正2年)2月8日
宇野俊次は、宇野千代の父であり、職を転々としながら、強烈な個性と奔放な気性で大きな影響を与えた人物です。
家柄
宇野家は、山口県玖珂郡下久原村(現在の山口県岩国市)で代々に渡り酒造業を営む裕福な一族でした。
岩国「宇野酒造」本家・宇野茂吉・シン夫妻の間には、弟3人、妹2人を含む7人の子供がいました。
俊次さんは「次男」にあたり、分家・宇野熊太郎さんへ養子に出されます。
兄・政介
「宇野酒造」の跡を継ぎ、店の奥の炬燵に入ったままで店の采配をふるう兄政介さん。この政介さんの代で宇野家の家運はますます隆盛になり、分限者(資産家)と言われるようになりました。
「高森の宇野」=「分限者の代名詞」といわれたほど(『残つてゐる話』)
『ブラッサム』葉野清治モデル・俊次|奔放な人物像
財産分与、定職につかない父
俊次さんは、次男として相応の財産を分与されます。額は相当なもので、俊次さんは40歳くらいまで各地を放浪して遊び暮らし、結婚して居を構えても仕事をしない「遊び人」となりました。
私たちは父が何かの仕事をした言ふ話も聞いたことがない。珍種の金魚、珍種のカナリヤを飼い、また珍種の柑橘類を栽培した。競馬用の馬を飼い、米相場を張り、博奕を打つて、しばしば警察に上げられたと言ふ。一口に言つて、良俗に反した性格をしてゐたにも拘らず、この父を畏敬してゐたのは、私たち家族の者だけではなかった
(引用『残つてゐる話』宇野千代)
やがて分家する時に分けてもらった財産を全部売り尽くし、無一文になった俊次さん。
本家から届く生活費
それでも高森の本家からは、毎月1日と15日に生活費として現金が届けられていました。
高森の馬車便が鈴を鳴らして家の前に停まり、馬車屋が厳重な錠前をつけた朱塗りの箱を届けてきたそうです。
働かない俊次さんですが、バックに高森の本家が付いていることや俊次さんの人柄などから周囲から馬鹿にされることはありません。娘の宇野千代さんも「千代様」と呼ばれていました。
伝説
また、周囲を畏れさせていた俊次さんの伝説として、次のようなエピソードが残っています。
俊次さんは、競馬の馬を買うなどして大金を本家に所望した時、兄政介さんが渋ったことに腹を立て、馬で川西から4里の道を高森まで駆け付け、30から40ほどある座敷を駆け抜け、兄の座っている座敷の奥の炬燵の上まで馬もろとも駆け上がったというのです。
兄でも軽んじることができない豪快な弟、それが宇野俊次さんでした。
千代さん自身は、そんな意志を曲げない父の性分を引き継いだと後年回想しています。
『ブラッサム』葉野清治モデル・俊次|父として
家族
各地で放蕩無頼な生活をしていた俊次さんは、42歳の時に24歳の土井トモさんと結婚し、千代さんが生まれます。
そのトモさんが亡くなり、翌年には17歳の佐伯リュウさんを嫁に迎え入れ、リュウさんとの間に4男1女をもうけます。
リュウさんは先妻の子・千代さんとも仲がよく、家庭内はうまくいっていましたが、俊次さんがリュウさんを泣かせ、リュウさんが実家に帰ったことが何度かあったそうです。
喧嘩の原因は、「お金」と「俊次さんの理不尽な怒り」。リュウさんがいくら家計をやりくりしても、俊次さんがどんどんお金を使い果たしてしまうため、生活は常に困窮していきます。
リュウさんが実家に帰ると、俊次さんはしばらくしてバツが悪そうに、千代さんの手を引いて川下村の佐伯家まで迎えに行くのがお決まりのパターンでした。
厳格な父
父としての俊次さんは、威厳を持って子供たちに接していました。
俊次さんがいるときには、家の中で笑い声がすることはなく、子供たちは木偶回し(人形劇)を観に行くことさえなかったそうです。
家では寡黙で気難しい父しか知らない千代さんは、後に、父が花街ではひょうきんに振る舞っている話を聞いた時、とても驚いたそうです。父としての顔と花街での顔は違っていたのですね。
さて、本家から分けられた莫大な財産を博打や放蕩で使い果たし、家計はどんどん悪化していきます。
『ブラッサム』葉野清治モデル・俊次|死を察して
娘・千代の結婚
そんななか、病魔が俊次さんを襲います。
余命を悟った俊次さんは、「自分の目の黒いうちに」と14歳の千代さんと甥・藤村亮一さんとの結婚を強引にまとめます。
この年に千代さんの弟が生まれていることから、扶養家族の頭数を減らす策だったかもしれません。
どれくらい強引にまとめたかというと、
俊次さんは、ある日突然、伯母(実母トモさんの姉)の家へ遊びに行ってこいと千代さんに命じます。そして、夕暮れ時にその家の長男亮一さんに送られて帰宅した千代さんに向かって「おどれ、こんとに暗うなるまで、よう男と歩いとったな」と頬をビンタし、「嫁入りするしかない」と睨んだというのです。
ただ、千代さんが祝言からわずか10日で出戻った時、父は怒ることはありませんでした。病に倒れて気が弱くなっていた父からすると、やはり愛娘といっしょに暮らしたかったのかもしれません。
出刃包丁事件
その2年後、58歳でその生涯を閉じた俊次さんですが、その死は強烈なインパクトをもって千代さんの脳裏に焼き付きました。
誰もそばにいなかったほんのちょっとの隙に、父は台所にあった出刃庖丁を手に持って、往還さきににじり出たのであった。「寄るな、寄って怪我するな、寄るとどいつもぶった切るぞう」と言って、庖丁を振り廻した。あの病みほうけた父に、どうしてこれほど力があったのか。ぎらぎらした日をうけて、庖丁が光った。見ると、雪の上に、父の裾から汚物が流れているではないか。
(引用『生きて行く私』宇野千代)
この死の直前の狂気は「真っ当にやり直したい」という父の絶叫だったのではないかと宇野千代さんは自伝的小説『生きて行く私』の中で推測しておられます。
『ブラッサム』葉野清治モデル・俊次|亡き後の家族
宇野俊次さんが病没したことにより、宇野家は「開放感」と「経済的困窮」という、良くも悪くも劇的な変化を迎え、残された家族の歩みは大きく動き出します。
家庭に訪れた解放感
千代さんに対して「雪の日でも裸足で学校へ行かせる」ほどのスパルタ教育を施していた父が亡くなり、宇野家からは恐怖による支配が消え去りました。
千代さんは「文学の世界」へ一気にのめり込むようになります。変名を使って『女子文壇』などの文芸誌に投稿を始め、家の中で自由に自分を表現する楽しさを知っていきました。
本家からの仕送りストップ
一方で、俊次さんが亡くなり、本家「宇野酒造」からの仕送りが途絶えてしまいます。
毎月入っていたお金がなくなったため、宇野家は一気に貧乏へと突き落とされました。
残された継母リュウさんは、まだ幼い子供たちを抱え、女手一つで生計を立てることになります。
千代が「大黒柱」に
女学校を卒業した17歳の千代さんは、月給8円で地元の川下村小学校の代用教員になりました。
自分が稼いだ給料をすべてリュウさんに手渡し、幼い弟妹たちの生活費や学費に充ててもらうという、大黒柱の役割を引き受けたのです。
父俊次さんの死によって、千代さんとリュウさん、そして弟妹たちの絆は「お互いを支え合う強い家族」としてより深まっていきました。
父の死がなければ、千代さんは岩国を出て作家になることも、のちに東京で大成功してリュウさんたちに仕送りを続けることもなかったかもしれません。
俊次さんの死は、宇野家にとって苦難の始まりであると同時に、宇野千代という天才作家が誕生する最大の転換点となりました。
おわりに〜受け継がれたDNA
自伝的小説『生きて行く私』や「一人の驕慢な男の生涯」を描いた「風の音」を読んでみると、父・俊次さんの奔放な生き方が、宇野千代さんの人生観に大きな影響を与えたことがわかります。
(人から聞いたところによると)父はその若かった頃から、自分のしたいと思ったことは何でもしたと思う。父にとって、これはしてはならない、と言うことは、何もなかったように見えたと言う。
ここまで書いて来て、おや、この父のことは凡て、この私のことではなかったかと、思わず私はぎょっとした。
(引用『生きて行く私』宇野千代)
千代さんは、自身の性質が父ゆずりだと考えており、壮年で亡くなった父が単なる「奔放な遊び人」という評価に留まり、長生きした自分が高評価を得られているのは不思議だと、考えを深めています。
鮮烈な印象を千代さんに植え付けたまま、亡くなられた俊次さん。
千代さんはご自身の中に父の面影を見つける度に、父への思いがより深まったのかもしれません。
【参考文献】
『生きて行く私』角川書店
『おはん・風の音』中央公論社
『残つてゐる話』集英社


