朝ドラ『風、薫る』には2人の夕凪が登場します。
一人は、ヒロインたちの看護実習中、無理心中に巻き込まれ運ばれてきた「夕凪」。
もう一人は、ヒロイン大家直美の実母「夕凪」です。
こちらでは、『風、薫る』11週時点で解禁されている情報から、2人の「夕凪」の実在モデルや時代背景、人物像に迫ります。
お楽しみいただけましたら幸いです。
『風、薫る』に登場する二人の「夕凪」
入院患者「夕凪」
無理心中に巻き込まれ、入院患者として直美に出会います。
・本名
・富士の見える伊豆の漁師町出身。
・品川「錦栄楼」
・事件が新聞に掲載され、遊郭から解放。
直美の母「夕凪」
入院患者「夕凪」の口から同郷の女郎として語られます。
・富士の見える伊豆の漁師町出身。
・25年ほど前、品川「錦栄楼」にいた。
・直美の父と足抜け。
・直美のお守りの中に「浦崎八幡」。
『風、薫る』入院患者「夕凪」実在モデル
入院患者「花紫」
入院患者「夕凪」の実在モデルは、帝大病院第一医院に運ばれた花魁「花紫」です。
大関和さん、鈴木雅さんの看護実習中に帝大医科大学第一医院に搬送された、根津遊廓「八幡楼」の”花紫”こと”山本キク”とされています。
三宮八重野さん(和泉千佳子モデル)が乳がん手術で入院中、心中未遂事件を起こし担ぎ込まれた花魁です。
三宮八重野さんはその噂を耳にし、大関和さんにお菓子や花などを託し、花紫を見舞わせてキリスト教の教えを説きました。
退院する日、花紫は八重野さんの病室に来て礼を言い、これからは堅気な暮らしをすると誓ったそうです。
娼婦である花紫が立ち直る姿を目の当たりにした大関和さんは、娼婦に対する深い理解を示すようになりました。
三宮八重野(Alethea Rayno)
1846年〜1919年
イギリスのキングストン・アポン・ハルの生地商ウィリアム・レイノア(William Raynor)の娘、アレシーア(Alethea Raynor )。
1874年(30歳)、ロンドンのハムステッドの教会で蜂須賀茂韶や岩倉具経を立会人に、2歳上の尊王攘夷派活動家で外交官の三宮 義胤(さんのみや よしたね)さんと結婚し、
1880年(36歳)に来日。
日本では八重野と名乗ります。
皇族の妃や華族の女性たちに、西洋の服装や社交上の慣習を助言する役割を果たしました。
直美モデル・鈴木雅の反応
原案『明治のナイチンゲール 大関和物語』では、花魁「花紫」の心中事件の噂話に花を咲かせる実習生たちに鈴木雅さんが、
「どんな理由で入院してきたのであろうと患者は患者です。そういう余計な話は謹むべきです」と一喝し、
「看護婦は他人の噂をふれ歩くような人間であってはならない。作り話をしてはならない。受け持ちの病人に関して質問をする権限を持つ人以外から質問を受けても、何も答えてはならない。」
とナイチンゲールの『NOTES ON NURSING』の一節を口にした場面が描かれています。
根津遊郭と帝大生
花紫がいたとされる「根津遊廓」は、当時、東京帝国大学(現在の東大本郷キャンパス)のすぐ裏手にあり、帝大生と遊女にまつわる事件が多発していました。
明治10〜20年代の根津遊郭は、キャンパスの目と鼻の先にあったため、夜な夜なエリート帝大生たちが入り浸る場所となっていたそうです。中には坪内逍遥のように、根津の遊女(花紫)と真剣に恋に落ちて後に妻として迎えた著名人もいます。
しかし、すべての恋がハッピーエンドではなく、仕送りや学費を遊郭に注ぎ込んで破産した帝大生が、遊女を道連れに無理心中や心中未遂を図る事件がたびたび起きていました。
「国家を背負って立つ最高エリートの金の卵たちが、遊郭で放蕩を尽くし心中する」という状況を重く見た明治政府は、風紀上の理由から1888年(明治21年)に根津遊郭を強制的に廃止し、深川の洲崎(洲崎遊郭)へと移転させる決断を下す契機にもなりました。
『風、薫る』直美の母「夕凪」実在モデル考察
結論から言うと、朝ドラ『風、薫る』の大家直美の母に実在モデルはいないと考えるのが妥当です。
そう考える理由は2つ。
大家直美とモデル鈴木雅さんの出自が異なる点と「品川の遊郭を足抜けした富士の見える伊豆の漁師町出身の遊女」の数の多さからですが、その人物像に迫ってみようと思います。
鈴木雅の母・加藤トヨ
まず、大家直美の実在モデルは、鈴木雅さん(旧姓・加藤)で、
その母親は「加藤トヨ」さんです。
鈴木雅は一八五七(安政四)年、静岡の徳川藩士加藤信盛とトヨの長女として生まれた。妹のテル(輝か)、弟保太郎の三人姉弟だったが、成長して横浜共立学園の前身の日本婦女学校を卒業したのち、大津の連隊長となる同藩出身の鈴木良文と結婚した。
(引用『大風のように生きて 日本最初の看護婦大関和物語』)
英語を学ぶためミッションスクールに入学した鈴木雅さんは士族の娘。『風、薫る』直美とはまるで境遇が違うことから、鈴木雅さんの母・加藤トヨさんが遊女「夕凪」モデルとは考えられません。
人物像①1863年(文久3年)の品川の遊女
『風、薫る』直美の母は「25年前、伊豆出身の品川の遊女」でした。
直美たちの看護実習当時1888年(明治21年)の25年前というと、
1863年(文久3年)です。
品川は、最高級妓楼「島崎楼」や大店「荒井楼」、そして「相模楼」などで賑わっていました。
その様子は月岡芳年の浮世絵『東京開化狂画名所 品川妓楼、芝高輪』「品川妓楼 客人のとまどひ」にも描かれており、「相模楼」は古典落語の有名な演目『品川心中』の舞台(お染という品川の売れ残り遊女と、貸本屋の金蔵が心中を図る滑稽話)としても知られています。
1863年(文久3年)は、「相模楼」の前身「相模屋」で高杉晋作や伊藤博文ら長州藩の志士たちが集い、「英国公使館焼き討ち」を謀議した年でした。
1863年年頭(旧暦では文久2年12月12日)
品川の御殿山に建設中だったイギリス公使館が、尊王攘夷派の志士たちによって放火され、全焼した事件です。
名所の多い御殿山に洋館の大使館を建てることに品川宿は御殿山の由緒と庶民の憩いの場であることを理由に建設反対の意見書を提出し、
実行犯である長州藩の志士(高杉晋作、伊藤博文、久坂玄瑞、井上馨ら)は、品川宿「相模屋」に集結し、酒を飲み、密議を凝らし、現場の御殿山へと出撃。柵を越えて館に侵入し戸板や建具類を積み重ね、 爆弾に火をつけて全焼させました。
放火に成功した首謀者たちは、激しく燃え上がる公使館を眺めながら、酒盛りをしたとされています。
まさにこの年に直美を授かり足抜けした母「夕凪」。
人物像②直美の父とは「命がけの純愛」で結ばれた
25年ほど前、彼女は直美の父親と「足抜け(前借金などの縛りがある中、雇い主の許可を得ずに密かに店から逃げ出すこと)」をしています。遊郭からの足抜けは、見つかれば厳しいお咎めがあるリスクの高い行為でした。
つまり、直美の父とは、そうした大きなリスクや世間の目を冒してでも「一緒に生きていきたい」と強く願い、駆け落ちした関係だったと言えます。
情熱的、あるいは強い覚悟を持った女性だったのではないでしょうか。
人物像③出自は伊豆の自然豊かな漁師町
「富士の見える伊豆の漁師町」が出身地であることから、幼少期は海に囲まれた素朴でたくましい環境で育ったことが伺えます。
なぜ地元の漁師町を離れ、品川の「錦栄楼」に身を置くことになったのか(家計を助けるための身売りだったのか、あるいは別の事情か)という、直美の母の若い頃の苦労も想像させられます。
人物像④故郷や自身のルーツ(信仰)を大切にしている
直美のお守りに入っていた「浦崎八幡」。
架空の神社ではありますが、これは、彼女の出身地である伊豆の漁師町かその近くの地元の神社、あるいは品川のゆかりの神社と考えられます。
命がけの足抜けをし、過去を隠して生きる必要があったかもしれない中で、そのお守りを娘の直美に持たせていたということは、「自分のルーツ(故郷や神仏への祈り)」をずっと胸に秘めていたこと、そして「娘を災いから守ってほしい」という母親としての深い愛情を持っていたことの証拠です。
推測される母親像
これらの点から、直美の母は
「厳しい運命に翻弄されながらも、一途な愛のためにすべてを投げ出す強さと覚悟を持ち、離れた故郷や娘への深い情愛を生涯抱き続けた、芯のある女性」
だと推測できます。
直美にとっては、これまで知らなかった「母の秘められた過去や情熱」を知る、物語の大きな鍵を握る人物と言えそうですね。
品川宿の南端(現在の東京都品川区南品川)にある海蔵寺には、品川宿で亡くなった身寄りのない飯盛女たちを葬った「無縁総墓」があります。この碑文や寺の過去帳、周辺の郷土史料の調査において、遊女や飯盛女たちの出身地が判明しています。
多くは、関東近郊のほか、東海道の沿線である相模や伊豆などの貧しい農漁村から口減らしのため売られてきた娘たちでした。
品川宿の「旅籠」へと送られた女性たちが、この海蔵寺の土の下に数多く眠っています。
『大風のように生きて 日本最初の看護婦大関和物語』ドメス出版
『明治のナイチンゲール 大関和物語』中央公論社


