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朝ドラ『ブラッサム』宇野千代

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2026年朝ドラ『ブラッサム』

ヒロイン葉野珠(はの たま) のモデル

恋多き女流作家・宇野千代

についてご紹介いたします。

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宇野千代とは

何をした人?

大正から平成まで活躍した日本の小説家、随筆家、きものデザイナー
波乱万丈な恋愛遍歴や『おはん』『色ざんげ』などの代表作、ポジティブな生き方を説いたエッセイで知られ、98歳で亡くなるまで現役を貫いた「幸福教の教祖」とも評されています。

尾崎士郎、東郷青児など著名な男性との4度の結婚・離婚の経験を筆に乗せる、いわばテイラースイフト的な作家スタイルです。

プロフィール

【生没】
1897年(明治30年)11月28日 〜
1996年(平成8年)6月10日

【出身】
山口県岩国

家族

父:宇野俊次
実母:(土井)トモ
継母:(佐伯)リュウ
弟:薫
弟:鴻(ひろし)
妹:勝子
弟:光雄
弟:文雄

実家での暮らし

父は宇野俊次、母は土井トモ、父母の姓は違っているが、私は彼等の私生児ではない。私が早く生まれてきたので、入籍の手続きを怠っただけのことである。

1歳半の時に母が病没。
父の生家である「宇野酒蔵」に預けられる。
父の元に帰った日、新しい母を紹介される。

私はこの降って湧いたような母を、吃驚して眺めた。色の白い、それはきれいな人であった。

この時、父の後妻は17歳。
代表作『おはん』のモデルとなった人物です。
すぐに弟達が生まれ、この母の賢母ぶりはこのように紹介されています。

この五人の弟妹たちに対してとった母の態度と、ただ一人の継子である私に対してとった母の態度とを比較すると、誰の目にも明らかに見受けられる違いがあった。
たとえば、到来物のおはぎを見ると、弟妹たちは早く食べたいと言って、母にせがむ。このとき、私がその場に居合わせなかったときなど、「まァお待ちい。姉さまがお戻りてから分けてあげるけえ」と言って、弟妹たちを待たせる。あの、芝居などで見る継子いじめの反対なのであった。

母の育て方のおかげで、宇野千代さんは弟たちに懐かれ、たいへん仲良くなりました。

私はあの母が自分にとっては生母でないと知りながら、そのままの母を愛していたのであった。

そんな賢母に対し、父は半生を家を持たず、各地を放浪して放蕩無頼な生活をしていた40すぎの男性。
母が泣いて実家に帰るのを宇野千代さんは泣いて追いかけたといいます。その出来事はいっそう母娘の絆を深めました。

父は博打の常習犯で花街にも通います。
ただ、家の中では唇を真一文字に結ぶ気難しい雰囲気。
裕福な家柄ながら受け継いだ財産を使い果たし、家はどんどん貧しくなっていったそうです。

結婚

『生きていく私』では、亡き母の甥「雄一」
史実では父の再婚相手・リュウさんの甥・藤村亮一さんと結婚します。
これは余命幾ばくもない父が目の黒いうちにと段取りした結婚でした。

ある日、錦帯橋を渡らず学校から実家に帰ってきた千代さんは、父の看病のためそのまま実家で暮らし、父の死を看取ります。

父の死は家族に開放感をもたらしました。

作家活動

岩国高等女学校を卒業すると、川下村小学校の代用教員になりましたが、同僚との恋愛が発覚して退職。

元夫の弟・藤村忠さんと京都で同棲し、帝大に入学した際に共に上京しました。

東京では、出版社の事務、家庭教師、ウエイトレスなどの職をし、著名人や名士と知り合いながら、懸賞小説に投稿を続けます。

事新報の懸賞短編小説に応募した『脂粉の顔』が一等に当選したため、作家となることを決意。

読売新聞、中央公論、文芸春秋、 婦人公論などに次々と作品を発表し、ベストセラーを生み、女流文学者賞や回芸術院賞を受賞しました。

 

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宇野千代|歴代パートナー

4人の結婚相手

藤村亮一 (1911年〜1918年頃)
従兄(血縁関係なし)であり、最初の結婚相手です。彼とともに札幌へ渡りました。

藤村忠 (1919年〜1924年)
藤村亮さん一の弟。前夫の弟と再婚するという波乱の展開ですが、後に離婚しています。

尾崎士郎 (1926年〜1930年)
『人生劇場』で知られる作家。互いに懸賞小説で入選したことをきっかけに出会い、東京の馬込で同棲・結婚しました。

北原武夫 (1939年〜1964年)
作家・編集者。雑誌『スタイル』を共に創刊するなど、公私ともに長きにわたるパートナーでしたが、後に離婚しました。

著名な恋人

東郷青児
画家。尾崎士郎さんとの別居後、自殺未遂を起こした直後の東郷青児さんと出会い、数年間同棲しました。
この体験が名作『色ざんげ』の題材となりました。
梶井基次郎
『檸檬』の著者。彼は宇野千代に熱烈な恋心を抱いており、夫だった尾崎士郎さんと、宇野千代さんをめぐって激しい衝突(“決闘”)を起こしたエピソードが有名です。

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宇野千代の生涯年譜

1897年
明治30
0歳 山口県で生まれる
1899年
明治32
1歳半 母、肺炎で亡くなる
5歳 父、再婚
1911年 14歳 父の再婚相手の甥・藤村亮一さんと結婚
10日後に実家に戻る
1913年
大正2
16歳 父、亡くなる
1914年
大正3
17歳 岩国高等女学校を卒業し、
川下村小学校代用教員となる
月給8円
恋文事件
1915年
大正4
18歳 同僚教師との恋愛で退職
大池房代を頼り京城に渡る
帰国し、元夫の弟・藤村忠さんと京都で同棲
1917年
大正6
20歳 忠さんの東京帝国大学入学に伴い一緒に上京
燕楽軒で18日間働き名士達と知り合う
1919年
大正8
22歳 忠さんと再婚
1920年
大正9
23歳 大学卒業した忠さんの札幌勤務に伴い北海道へ
1921年
大正10
24歳 懸賞小説『脂粉の顔』が一等を獲り
作家デビュー
賞金200円
1922年
大正11
25歳 『墓を発く』刊行
原稿料366円
出版社に尾崎士郎を紹介され
そのまま東京で同棲
1924年
大正12
27歳 忠さんと離婚
ペンネームを藤村から「宇野千代」に
1926年
大正15
29歳 尾崎士郎と結婚
1927年
昭和2
30歳 川端康成の誘いで、伊豆湯ケ島へ
梶井基次郎、三好達治、淀野隆三らと出会う
1928年
昭和3
31歳 梶井基次郎との関係が噂になり
尾崎士郎と別居
1930年
昭和5
33歳 東郷青児と出会い同棲
尾崎士郎と正式に離婚
1933年
昭和8
36歳 北原武夫と出会う
『色ざんげ』連載
1934年
昭和9
37歳 東郷青児と麻雀賭博の容疑で検挙
東郷青児と別れる
1935年
昭和10
38歳 『色ざんげ』刊行
1936年
昭和11
39歳 スタイル社創設
ファッション誌『スタイル』創刊
1939年
昭和14
42歳 北原武夫と結婚
1982年
昭和57
85歳 菊池寛賞受賞
『生きて行く私』連載
1983年
昭和58
86歳 『生きて行く私』刊行
1996年
平成8
98歳 6月10日 息を引き取る(老衰)
勲二等瑞宝章受賞

 

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