2026年朝ドラ『ブラッサム』
ヒロイン葉野珠(はの たま) のモデル
女流作家・宇野千代
についてご紹介いたします。
宇野千代とは

宇野千代プロフィール
宇野千代
1897年(明治30年)11月28日 〜1996年(平成8年)6月10日
大正から平成まで活躍した日本の小説家、随筆家、きものデザイナー。
代表作『色ざんげ』『生きて行く私』のほか、雑誌『スタイル』の創刊や着物デザイナーとしての活動。波乱万丈な恋愛遍歴など自由奔放な生き方で知られる。
宇野千代の家族
家系図・相関図

家族
父:宇野俊次
実母:(土井)トモ
継母:(佐伯)リュウ
弟:薫
弟:鴻(ひろし)
妹:勝子
弟:光雄
弟:文雄
4人の結婚相手
藤村亮一 (1911年)
従兄であり、最初の結婚相手です。
藤村忠 (1919年〜1924年)
前夫・藤村亮一さんの弟。
京都で同棲し、忠さんの帝大入学とともに上京します。
尾崎士郎 (1926年〜1930年)
『人生劇場』で知られる作家。
互いに懸賞小説で入選したことをきっかけに出会い、東京の馬込で同棲・結婚しました。
北原武夫 (1939年〜1964年)
作家・編集者。雑誌『スタイル』を共に創刊するなど、公私ともに長きにわたるパートナーでした。
著名な恋人
東郷青児
画家。尾崎士郎さんとの別居後、自殺未遂を起こした直後の東郷青児さんと出会い、数年間同棲しました。
名作『色ざんげ』の題材となりました。
梶井基次郎
『檸檬』の著者。宇野千代さんに熱烈な恋心を抱いており、宇野千代さんをめぐって尾崎士郎さんと激しい衝突を起こしたエピソードが有名です。
宇野千代の生涯
| 1897年 明治30 |
0歳 | 山口県で生まれる |
| 1899年 明治32 |
1歳半 | 母、肺炎で亡くなる |
| 1900 明治33 |
3歳 | 父、再婚 |
| 1911年 | 14歳 | 従兄藤村亮一と結婚 10日後に実家に戻る |
| 1913年 大正2 |
16歳 | 父、亡くなる |
| 1914年 大正3 |
17歳 | 岩国高等女学校卒業 川下村小学校代用教員 月給8円、恋文事件 |
| 1915年 大正4 |
18歳 | 恋愛を理由に職を追われる 京城(ソウル)へ→帰国 従兄藤村忠を頼り京都で同棲 |
| 1917年 大正6 |
20歳 | 藤村忠帝大入学のため上京 燕楽軒で18日間働き滝田樗陰達と知り合う |
| 1919年 大正8 |
22歳 | 藤村忠と再婚 |
| 1920年 大正9 |
23歳 | 藤村忠卒業・北海道拓殖銀行就職 北海道へ |
| 1921年 大正10 |
24歳 | 懸賞小説「脂粉の顔」一等受賞 賞金200円を得る |
| 1922年 大正11 |
25歳 | 『墓を発く』刊行 原稿料366円 出版社で尾崎士郎を紹介され そのまま東京で同棲 |
| 1924年 大正12 |
27歳 | 藤村忠と離婚し尾崎士郎と結婚 ペンネームを藤村千代から「宇野千代」に |
| 1927年 昭和2 |
30歳 | 川端康成の誘いで、伊豆湯ケ島へ 梶井基次郎、三好達治、淀野隆三らと出会う |
| 1928年 昭和3 |
31歳 | 梶井基次郎との関係が噂になり 尾崎士郎と別居 |
| 1930年 昭和5 |
33歳 | 東郷青児と出会い同棲 尾崎士郎と正式に離婚 |
| 1933年 昭和8 |
36歳 | 北原武夫と出会う 『色ざんげ』連載 |
| 1934年 昭和9 |
37歳 | 東郷青児と麻雀賭博の容疑で検挙 東郷青児と別れる |
| 1935年 昭和10 |
38歳 | 『色ざんげ』刊行 |
| 1936年 昭和11 |
39歳 | ファッション誌『スタイル』創刊 |
| 1939年 昭和14 |
42歳 | 北原武夫と結婚 |
| 1959年昭和34 | 62歳 | スタイル社倒産 |
| 1964年 昭和39 |
67歳 | 北原武夫と離婚 |
| 1982年 昭和57 |
85歳 | 菊池寛賞受賞 |
| 1983年 昭和58 |
86歳 | 『生きて行く私』刊行 |
| 1996年 平成8 |
98歳 | 6月10日 息を引き取る(老衰) 勲二等瑞宝章受賞 |
父と母
父は宇野俊次、母は土井トモ、父母の姓は違っているが、私は彼等の私生児ではない。私が早く生まれてきたので、入籍の手続きを怠っただけのことである。
1897年(明治30年)11月28日
宇野千代さんは、錦帯橋で有名な錦川の西側、山口県玖珂郡横山村三二九番屋敷(現・岩国市川西町2丁目9番35号)に生まれました。
当時、父・宇野俊次さんは42歳、母・トモさんは24歳。
1歳半の時に母が肺結核で亡くなると、千代さんは、父の生家である高森(現・岩国市周東町)の「宇野酒蔵」に預けられました。宇野家は代々造り酒屋で裕福でした
生母が亡くなった翌年、父は佐伯リュウさんと再婚。
代表作『おはん』のモデルとなった人物です。
この時、父の後妻は17歳。すぐに5人の異母弟妹達が生まれ、この母の賢母ぶりはこのように紹介されています。
この五人の弟妹たちに対してとった母の態度と、ただ一人の継子である私に対してとった母の態度とを比較すると、誰の目にも明らかに見受けられる違いがあった。
たとえば、到来物のおはぎを見ると、弟妹たちは早く食べたいと言って、母にせがむ。このとき、私がその場に居合わせなかったときなど、「まァお待ちい。姉さまがお戻りてから分けてあげるけえ」と言って、弟妹たちを待たせる。あの、芝居などで見る継子いじめの反対なのであった。
母の育て方のおかげで、異母弟妹たちに懐かれた千代さんは、”小さいお母さんになったような心持”(『わたしの青春物語』)で、面倒をよくみました。
私はあの母が自分にとっては生母でないと知りながら、そのままの母を愛していたのであった。
そんな賢母にひきかえ、父は職を持たず、本家から分けられた財産を博打や花街に費やし、使い果たして、家はどんどん貧しくなっていったそうです。
母が泣いて実家に帰ると、泣きながら追いかけた千代さん。こうして母娘の絆はますます深まります。
10日間の結婚生活(14歳)
14歳の千代さんは、実母の姉の息子・藤村亮一さんと結婚します。
これは余命幾ばくもない父が「目の黒いうちに」と段取りした結婚でした。
ですが、夫を「全く話の合わない、得体の知れない大人の男性」と感じた千代さんは、10日ほどで父の看病のため実家へ戻ると、そのまま父の死を看取り、二度と藤村家には戻りませんでした。
川下尋常小学校「恋文事件」(18歳)
玖珂郡立岩国高等女学校(現・岩国高等学校)を成績優秀で卒業。
1914年(大正3年)、川下尋常小学校に代用教員として採用されました。
先生との出会いは校庭朝礼での就任式で、その当時の子供心の印象は「ア・綺麗な先生ー」であった。・・・教室では時間をかけて、解るまで教えてくださったが、時には竹の鞭が遠慮なくいい響きを立てたし、平手が飛んだ音もしたようだ。
(『100年のあゆみ 川下小学校』)
千代さんはこの頃、同人7名と回覧雑誌「海鳥」を創っています。
そして、ある出会いが訪れます。
新任の教員が川下の小学校に赴任してきた。色が白く、鬚の剃り痕の、塗ったように青い優さ男であった。師範学校出の歴っきとした訓導で、佐伯正夫と言う男であった。
正規の新任教師に恋をした千代さん。
後の同窓会では、「私は先生の恋文を運んだ郵便屋でした」と話す生徒もいたそうです。
この「恋文事件」はすぐに町中の噂になり、教師を免職に。
千代さんは、逃げるように知人を頼り、京城(現・ソウル)に渡りました。
宇野千代さんは、後年、当時のことを次のように話されています。
62年前、私はこの田舎から都会へ出てまいりました。それは志を立てて郷関を出づと言うのとは全く反対なんです。私はこの町から逃げ出して行ったんです。
(「山口県医師会報」1977年)
元夫の弟と再婚(22歳)
1916年(大正5年)頃、19歳
帰国した千代さんは、元夫の弟・藤村忠さん(第三高等学校の学生)を頼り、京都で同棲を始めます。藤村忠さんは穏やかなインテリでした。
忠さんの東京帝国大学進学に伴い上京すると、出版社の事務、家庭教師、料理店での給仕などをして忠さんを支えます。料理店では多くの著名人や名士達、「中央公論」編集長との出会いもありました。
1919年(大正8年)正式に結婚した千代さんは、
1920年(大正9年)
東京帝国大学を卒業し、北海道拓殖銀行に就職した藤村忠さんとともに、本店のある札幌へ。家事の傍ら原稿を書き始めました。
作家デビュー、尾﨑士郎(24歳)
1921年(大正10年)24歳
「時事新報」に応募した懸賞短編小説「脂粉の顔」が一等に当選し、その後「中央公論」に次作『墓を発く』が掲載された千代さん。ついに作家デビューを果たします。
原稿料を手にして、岩国へ帰省した千代さんですが、その帰路、東京の「中央公論」編集長滝田樗陰を訪ね、そこで尾﨑士郎さんを紹介されました。
尾﨑士郎さんは、千代さんと同じ懸賞小説で二等になった若手作家。
千代さんは、北海道に戻らず尾﨑士郎さんと同棲を始めます。
後年、宇野千代さんは「いちばん好きだったのは尾﨑です」と語っておられます。
尾﨑士郎さんを通じて馬込村へ越してきた、川端康成、萩原朔太郎たちとも知り合います。
1924年(大正13年)、
藤村忠さんと正式に離婚し、尾﨑士郎さんと結婚。
『或る女の生活』など生活を支えるため旺盛な執筆の一方で、宇野千代さんにばかり執筆依頼が来ることで夫婦はすれ違っていきます。
画家・東郷青児(33歳)
1930年(昭和5年)、33歳で離婚。
ある日、千代さんは、画家の東郷青児さんのガス中毒による情死未遂事件を取材。
出会ったその日に同棲を始めます。
千代さんは、後に「二番目に好きだったのは東郷青児です」と話されています。
千代の初期の代表作『色ざんげ』は、東郷青児さんをモデルにしたものです。
ファッション誌「スタイル」と北原武夫(39歳)
1936年(昭和11年)、39歳
千代さんはスタイル社を設立し、雑誌「スタイル」を刊行しました。それは日本初のファッション誌として評判になり、新聞記者だった北原武夫さんが取材。
北原武夫さんに心奪われた千代さん。
北原武夫さんは、千代さんの勧めで記者を辞め、作家に転身します。
結婚時、千代さん42歳、北原武夫さんは32歳。
10歳の年の差があり、世間を驚かせました。
戦時中は発刊できなかった「スタイル」誌も終戦の翌年には復刊。大ヒットセラーとなり、1959年(昭和34年)に倒産するまで続きます。
1947年(昭和22年)12月
雑誌「スタイル」季刊誌に、故郷岩国や継母をモデルとした『おはん』連載開始。
中央公論に引き継がれた連載は完結し、単行本が出版されるとこちらも大ヒット。
第10回野間文芸賞、第9回女流文学者賞などを受賞するなど高い評価を受けました。
着物デザイナーに(52歳)
1949年(昭和24年)52歳
宇野千代さんは「宇野千代きもの研究所」を設立し、着物のデザインにも才能を開花させます。
故郷の桜をイメージした桜柄のデザインが多く、60歳のシアトルでの万国博覧会で着物のショーを催し、大盛況でした。
晩年『私 何だか 死なないような 気がするんですよ』
その後は、伊勢湾台風で被害に遭った薄墨桜を救うため、募金活動したり、生家を修繕したり、人生と故郷に感謝しながら
平成7年12月には98歳で
『私 何だか 死なないような 気がするんですよ』
を出版。
そう、近ごろ、私はふと思うのですが、私は、何だか死なないような気がするんですよ。
(『私 何だか 死なないような 気がするんですよ』)
半年後の1996年(平成8年)6月10日
老衰で息を引き取られました。

