2026年NHK大河ドラマ『豊臣兄弟!』
第29話「 天下への道」
あらすじ
をご紹介しています。
お楽しみいただけると幸いです。
※ネタバレ含みます
大河ドラマ『豊臣兄弟!』第29話 あらすじ

光秀の自信
織田信長・信忠父子を討ち果たし、一時は天下をその手に掴みかけた明智光秀。
しかし、目有力諸将を味方につけることができぬまま、驚異的な速さで迫りくる羽柴軍を迎え撃つ窮地に立たされていました。
光秀は防衛の要として山城南部の山崎に本陣を構え、かつての盟友の城であった勝龍寺城を前線基地として決戦の備えを急ぎます。
本陣を揺るがす不穏な報せは、容赦なく舞い込みました。
密かに毛利方と通じ、こちらに味方するはずだと踏んでいた中川清秀や高山右近までもが、すでに羽柴(織田)方に転じたというのです。
次々と発覚する絶望的な戦況に、重臣の斎藤利光は焦燥を隠せず、せめて土佐の長宗我部氏に急ぎ救援を求めるべきだと必死に進言しました。
しかし、孤立無援となったその渦中で、光秀は不敵な笑みを浮かべ、利光の進言を静かに退けました。
みなが恐れ、崇めていた絶対者・織田信長は、もうこの世のどこにも存在しない。
神を殺した男として勝機は依然として己にあると、確信していたのです。
信孝の決断
その頃、織田信長の三男・織田信孝を名目上の総大将に仰ぐ織田軍も、山崎の目と鼻の先にある摂津の地に集結していました。
血気盛んに「今すぐ総攻めを仕掛けるべし!」と息巻く信孝に対し、秀吉と軍師・黒田官兵衛は、冷静に別の計略を提示します。
それは、天王山と巨椋池の沼地に挟まれた山崎の狭隘な地形を計算し尽くした、極めて緻密な作戦でした。
慎重に少しずつ明智の軍勢を追い詰めた上で、羽柴方に転じた高山右近の手勢が、あえて「寝返ったふり」をして明智軍の懐深くに入り込み、混乱に乗じて光秀を生け捕りにするという、鮮やかな欺瞞作戦です。
小一郎の説得で信孝も一度は納得しかけました。
しかし、まさにその時、兄である織田信雄から「合流するまで絶対に動くな」という書状が届きます。
「兄上に先を越されてたまるか!」
功を焦った信孝は、小一郎たちの制止を振り切り、独断で総攻めを敢行することを決意してしまいました。
家康・勝家の動向
一方、その頃の有力武将たちの動向は三者三様でした。
命がけの伊賀越えを終え、ようやく三河・岡崎城へとたどり着いた徳川家康は、羽柴軍が驚異的な速さで京へ引き返した報せを受け、「今から参陣しても、もはや機を逸する」と冷静に戦況を見極め、宿老たちに出陣の取りやめを告げました。
また、越前・北庄城の柴田勝家は、秀吉がすでに備中から駆け戻ったという信じがたい報せに、拳を強く握りしめました。
明智討伐の先陣を完全に越された悔しさを全身からにじませ、地団駄を踏んでいました。
山崎の戦い
1582年(天正10年)6月13日。
歴史の歯車が大きく回るこの日、激しい雨が降りしきる山崎の地で、ついに明智軍と織田・羽柴連合軍が真っ向から対峙しました。
秀吉の鋭い指示により、小一郎は黒田官兵衛とともに、戦況を左右する重要な別働隊を率いることになります。
小一郎は、危険な最前線へ父とともに同行しようとする与一郎を制し、総大将・信孝に逐一戦況を伝えるとともに、その身を守り抜けと命じ、決戦の戦場へと送り出しました。
突撃の法螺貝が響き渡り、両軍が激突。
戦いは当初、地の利を得た明智方が優勢に進み、連合軍を圧倒するかに見えました。しかし、秀吉が次々と送り込む怒濤の援軍と、小一郎・官兵衛らが裏手から仕掛けた猛烈な一撃により、戦況は一気にひっくり返り、織田方の圧倒的優勢へと転じます。
与一郎、負傷
地鳴りのような波状攻撃に晒され、明智軍の防衛線は次々と瓦解、もはや敗北は誰の目にも濃厚となりました。
その様子に信孝は陣の兵を鼓舞し、自らも前線に出ようとしますが、その瞬間、思わぬことが起きました。
光秀の最期
本陣が炎に包まれる中、光秀は重臣の斎藤利光に別れを告げ、わずか数人の家臣だけを連れて闇夜に紛れ、再起をかけて本拠地・坂本城を目指します。
しかし、落ち武者狩りの鋭い刃が光る闇を抜けることは叶わず、ついに途上の小栗栖の地で、無念の最期を遂げることとなりました。
与一郎、死す
激動の嵐が去り、秀吉と小一郎は、懐かしい我が家である長浜城を無事に取り戻しました。
家族は、傷ついた与一郎のためにたくさんの薬草や食べ物を届けてくれました。
が、和やかで幸せな時間は長くは続きません。
天下への道
ある夜、城の一室で、秀吉は小一郎に静かに告げました。

これは我らだけの秘め事じゃ。
信雄様でも信孝様でもない、このわしが上様の思いを継ぐ。
その瞳には、かつて信長が見上げ、秀吉が照らすと誓った「境目のない空」が、ありありと映り込んでいるようでした。
与一郎は、秀長と正室(慈雲院)の実子(唯一の男子)だと伝えられています。不明な点が多く、1582年(天正10年)に秀長が仙丸を養子にとった時にはすでに早逝していたと思われます。
与一郎という名が幼名ではない点から、元服した後に亡くなったと考えられます。

