作家・宇野千代さんには兄姉はおらず4人の弟と1人の妹がいました。
これは父俊次さんと継母リュウさんの子供たちで、宇野千代さんにとっては異母兄弟にあたります。
宇野千代さんは弟妹たちに慕われ、千代さんも「小さなお母さんになったような心持ち」になり、面倒をよくみていました。
こちらでは、守・俊子・英男の実在モデルと思われる宇野千代さんの弟妹たちについてご紹介いたします。
宇野千代家系図・相関図

『ブラッサム』守・俊子・英男|実在モデル
宇野千代さんの5人の弟妹の中で、
真ん中の「勝子さん」を基準にして、上に「薫さん・鴻さん」、下に「光雄さん・文雄さん」という弟が存在します。
生まれ順と名前から
ヒロインの上の弟・葉野守のモデルが「薫さん・鴻さん」
ヒロインの妹・葉野俊子のモデルが「勝子さん」
ヒロインの下の弟・葉野英男のモデルが「光雄さん・文雄さん」
だと予想しています。
宇野千代の弟|薫(かおる)
プロフィール
1901年(明治34年)6月19日〜
宇野千代さんの異母弟(5歳下)宇野家長男。
宇野薫(うの かおる)さんは、作家・宇野千代の5歳年下の異母弟であり、一番年の近い弟です。
父の死後
薫さんは、千代さんにとって子供の頃から片腕のような、子分のような存在だったようです。
千代さんの自伝的小説『生きて行く私』には、父が亡くなった後「長男の薫だけが、或る日、下駄をつっかけて、いきなり表へ駆け出して行ったのであった。」と家族の開放感が象徴的に描かれています。
生家修復のきっかけ
1974年(昭和49年)荒れ果てていた岩国の生家を千代さんが修復することになったのは、東京に住んでいた薫さんからの1本の電話がきっかけでした。
「田舎の家がこけそうになったので見に行くけど、姉さんも一緒にお行きんか」或るとき、同じ東京に住んでいる弟(薫)から電話があった。
(引用『故郷の家』昭和四十九年七月「海」)
薫さんからのこの電話がなければ、現在山口県岩国市に残る「宇野千代生家」(国の登録有形文化財)は現存していなかったかもしれません。
千代さんにとって頼れる弟であったことがうかがえます。
宇野千代の弟|鴻(ひろし)
プロフィール
1904年(明治37年)1月10日〜1945年(昭和20年)
宇野千代さんの異母弟(7歳下)宇野家次男。
宇野鴻(うの ひろし)さんは、作家・宇野千代さんの7歳年下の異母弟であり、二番めに年の近い弟です。
引っ越しを手伝う
鴻さんら下の弟たちも、大家族の中で姉である千代さんの庇護を受けながらにぎやかに育ち、千代さんが一人暮らしを始めた時に薫さんと2人で引越しを手伝ったエピソードがあります。
1945年(昭和20年)終戦の年に41歳で亡くなっておられます。
宇野千代の妹|勝子(かつこ)
プロフィール
生年月日:1906年(明治39)年6月4日
宇野家次女。宇野千代さんの異母妹(9歳下)
宇野勝子(うの かつこ)さんは、作家・宇野千代の9歳年下の異母妹であり、千代さんにとってただ一人の妹です。
大人になってからも、千代さんが多忙を極めた時期、秘書的な役割を果たしたり、生活の身の回りの世話をしたりして近くで支え続けた人物、それが勝子さんです。
上京と馬込での同居
1927年(昭和2年)21歳で女学校卒業を機に上京した勝子さん。
千代さんの建てた馬込の2軒の家のうち古い方で、千代さんの姑(尾崎士郎さんの母)尾崎よねさんと暮らしたこともありました。
おかげで宇野千代さん夫婦は安心して家を空け、伊豆の湯ヶ島にも長期滞在をすることができたとか。
馬込の洋館での同居
その後も、千代さんが4人めの夫・北原武夫さんと別居している時は、馬込に建てた洋館(新しい方)で千代さんと一緒に暮らし、
1959年(昭和34年)千代さんが経営していた「スタイル社」が倒産し、木挽町の自宅を手放さざるを得なくなった際、千代さんが勝子さんを頼り、勝子さんの家の一部屋に転がり込んだこともあったそうです。
姉の激しい恋愛や数々の別れ、仕事での成功と挫折を、最も近い家族の目線で見守り、生涯を通じて千代さんの「身内」であり続けたのが勝子さんでした。
宇野千代の弟|光雄(みつお)
プロフィール
1908年(明治41年)年10月1日〜1941年(昭和16年)6月
宇野千代さんの異母弟(11歳下)宇野家三男
宇野光雄(うの みつお)さんは、作家・宇野千代さんの11歳年下の異母弟であり、兄弟の中では下から二番目です。
淡島での同居
小樽高商(現・小樽商科大学)卒業後、読売新聞に入社した光雄さんは、22歳から26歳の4年間、千代さんと洋画家・東郷青児さんの淡島(現在の東京都世田谷区代沢)の家から通勤していました。
千代さんが家を出た後も住み続け、千代さんが谷崎潤一郎から譲られた「朱塗りの箪笥」を荷車で運び出そうとした時には、次のように業者に怒鳴ったそうです。
「馬鹿野郎。その扉をちっとでも傷つけて見やあがれ。ただでは置かないぞ」と背後からどなったのは、私の弟の光雄ではないか。光雄はこのときまで、私がその最後の荷物である箪笥を引き取りに淡島の家へ行ったときまで、この家に残っていようとは。
(引用『生きて行く私』宇野千代)
33歳で病没
呼吸器を患っていた光雄さん。
満州・中国へ旅行中に「光雄危篤」の報せを受けた千代さんが、急遽帰国した後まもなく、息を引き取っています。太平洋戦争が勃発する直前の1941年(昭和16年)6月、33歳でした。
宇野千代の弟|文雄(ふみお)
プロフィール
1911年(明治44年)年2月25日〜
宇野千代さんの異母弟(14歳下)宇野家四男
宇野文雄(うの ふみお)さんは、作家・宇野千代さんの14歳年下の異母弟であり、一番下の弟です。
6人兄弟の末っ子文雄さんは、千代さんが初めて嫁いだ14歳というタイミングで誕生しています。
末っ子
千代さんが25歳のとき、原稿料を得て帰郷した際、人力車の乗り方が分からず
最後の番の文雄だけが、俥の腰掛けに腰をかけることを知らないで、上がり口の踏み台のところに、ちょこんどしゃがんでいた。
(引用『生きて行く私』宇野千代)
という11歳当時のかわいらしいエピソードが紹介されており、兄姉から可愛がられていたのではないかと思われます。
その後、船の乗組員となった文雄さん。
『生きて行く私』には、母・リュウさんの病気を知った際「弟の文雄の眼に、大粒の涙が、ううっと浮かんだのを、私は見た。」と描かれています。

