幕末から明治という激動のうねりの中で、武士としての誇りを貫き、娘・大関和(ちか)さんに多大な影響を与えた大関弾右衛門増虎さん。
その生涯は、まさに「滅びゆく武士の美学」と「新たな時代への挑戦」そのものでした。
大関和さんの父・大関弾右衛門増虎さんの波乱に満ちた軌跡を紐解きます。
『風、薫る』一ノ瀬 信右衛門
北村一輝さん演じる一ノ瀬信右衛門は次のように紹介されています。
那須地域にあった小藩の元家老。明治維新前に家老職を辞して農家になり、役人への誘いがあっても断り続けている。穏やかな性格で、りんと安に「自分で考えること」を教えてきた。
(NHK公式サイト)
大関弾右衛門増虎の生涯
大関弾右衛門増虎(おおぜきだんえもんますとら)
1826年(文政9年)〜1876年(明治9年)
藩主・大関増裕のもと鉱山開発
代々200石の家柄で、下野国黒羽藩(現・栃木県大田原市)の国家老。
八千代・和・復彦・衛・釛の二男三女をもうけます。
次女・大関和さんは、1858年(安政5年)32歳の時の子どもです。
1863年(文久3年)37歳
代々200石の家柄であった大関弾右衛門さんを見出したのは、幕府の軍事要職を歴任した英邁な藩主・大関増裕さんでした。
大関増裕さんは蘭学を学び、洋式兵術に秀でた人物として知られており、幕府にも重用されていました。やがて幕府終焉の年1867年(慶応3年)わずか29歳で若年寄に抜擢。外様の小藩主としては異例で、家臣の勝海舟もその才能を高く評価していました。
新しい時代を見据えて外国語の習得を重視し、妻にも学問と乗馬を身につけさせ、江戸の町を妻と馬で歩くなど周囲の目を気にしない気風があったそうです。
その姿勢は幼い大関和さんにも影響を与えます。
「この茶臼岳には、宝が眠っておる」
縁戚でもある大関増裕さんの命を受け、弾右衛門さんは藩内で産出される硫黄鉱山開発に就任。
採掘された硫黄は幕府に売れ、藩はその資金を元に最新式の西洋銃や大砲を購入していきます。
1万8000石という小藩ながら、黒羽藩が列強に引けを取らない北関東屈指の精鋭部隊へと変貌を遂げた裏には、弾右衛門さんの働きがありました。
戊辰戦争、恩義と大義の狭間で
1867年(慶応3年)、王政復古の大号令。
日本中が「朝廷か、幕府か」の決断を迫られる中、黒羽藩は地獄の淵に立たされます。
時流は朝廷へと傾き、藩としては朝廷に。
ただ幕臣として忠誠を誓う藩主・増裕さんは
「弾右衛門、あとは頼む」
己の信念と藩の存続を秤にかけ、弾右衛門さんだけに自死の覚悟を告げました。
この死は猟銃の暴発事故とも暗殺とも言われています。
主君の悲痛な最期を見届けた弾右衛門さん、そして黒羽藩は、戊辰戦争時には新政府軍としてかつての友邦・会津藩を銃口の先に捉えるという、武士として最も残酷な決断を下したのでした。
「明日からは乞食と思え」:誇り高き士魂の帰還
1868年(明治元年)8月。42歳。
主君が掲げた改革が未完に終わった責任を取り、家老の座を潔く辞し帰農しようと考えた弾右衛門さん。
その時、わずか10歳の愛娘・和さんに向かって放った言葉は、あまりにも苛烈で、気高いものでした。
(『基督者列伝』)
さらに、子どもたちに四書を講じ、書道と算術の塾に通わせ、
「どんな時も学問だけは怠るな」
と伝え続けます。
武家としての特権をすべて捨て、泥にまみれても「個」として生きる。
この父の生き様こそが、後に日本初の看護婦となる大関和さんの心に、「高貴なる者の義務(ノブレス・オブリージュ)」の種を蒔いたのかもしれません。
最後の挑戦、そして正五位への昇叙
増裕さんの妻・於待夫人に強く慰留され一時は家知事として残ったものの、武士を辞した弾右衛門さんは、かつての知見を活かし、家族を連れて南東北の山々で硫黄採掘事業に心血を注ぎます。
平穏な隠居ではなく、一人の事業家として荒野に挑む父の背中を、見つめて育っていく娘・和さん。
1876年(明治9年)、
18歳になる和さんの縁談を整えた安堵からか、弾右衛門さんは病に倒れます。
故郷・黒羽の風を浴びながら、50歳の若さでその幕を閉じました。
それから40年以上が経過した1918年(大正7年)。
日本の近代化を陰で支えた功績が認められ、大関弾右衛門さんに「正五位」の位階が贈られました。それは、時代に翻弄されながらも己の職分を全うした、「火薬の男」への遅すぎた勲章でした。

