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宇野千代の家族一覧(父母・兄弟姉妹・4人の夫・子供・子孫)

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朝ドラ『ブラッサム』ヒロイン葉野珠のモデル

作家・宇野千代さんの家族(両親・兄弟姉妹・4人の夫・子供・子孫)

について、

家系図や一覧表を用いてご紹介いたします。

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宇野千代の家族一覧

家系図(相関図)

血縁者一覧

宇野家は、山口県玖珂郡下久原村(山口県岩国市)で代々に渡って酒造業を営む裕福な一族でした。先祖は周防国鞍掛山の城主・杉隆泰の家老・宇野筑後守正常で、「宇野酒造」はその三男の末裔が始めたのだとされています。

続柄 名前 備考
祖父(本家) 宇野茂吉 父の実父
養祖父(分家) 宇野熊太郎 父の養父
伯父(本家) 宇野政介 父の兄
「宇野酒造」当主
父(分家) 宇野俊次 放埒無頼
実母 トモ(土井) 25歳肺結核で他界
継母 リュウ(佐伯) 実子と分け隔てなく千代を育てる
薫(かおる) 5歳下
鴻(ひろし) 7歳下
勝子(かつこ) 9歳下
光雄(みつお) 11歳下
文雄(ふみお) 14歳下
伯母・姑 藤村カツ 実母の姉
実母の存在を千代に教える

配偶者一覧

続柄 名前 備考
藤村亮一 婚姻期間:10日(1911 )
藤村忠 婚姻期間:5年(1919〜1924)
尾崎士郎 婚姻期間:4年(1926〜1930)
パートナー 東郷青児 同居期間:4年(1930〜1934)
北原武夫 婚姻期間:25年(1939〜1964)
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宇野千代|父と2人の母

父:宇野俊次

宇野俊次(うの としつぐ)
1855年(安政2年)〜1913年(大正2年)

俊次は安政2年(1855)7月29日、宇野茂吉、シンの子として玖珂郡高森村(現・玖珂郡周東町下久原中市)で生まれた。政介を長男とする七人兄弟(弟三人妹二人)の次男である。
(引用「NPO宇野千代生家」サイト)

山口県玖珂郡(岩国市)で代々酒造業を営む裕福な宇野家に生まれた宇野俊次さんは、莫大な財産分与を受け、各地を放浪して放蕩無頼な生活を送っていました。

42歳の時、24歳の土井トモさんとの結婚を機に玖珂郡横山村329番屋敷(現・岩国市川西町二丁目9番35号)に居を構えます。

第一子・千代さんの誕生から1年半でトモさんが病没すると、翌年17歳の佐伯リュウさんと再婚し、4男1女に恵まれます。家庭では寡黙で厳格な父親だったということです。

ですが、仕事をせず、各地の放浪や競馬、博打などで財産を使い果たし、無一文になった後も本家からの送金に頼る俊次さん。
お金を借りるため、馬で本家の座敷へ乗り込むような豪快なエピソードや、病で自らの死期を悟った際に、14歳の娘・千代さんの結婚を「自分の目の黒いうちに」と強引にまとめたエピソーも有名です。

58歳で亡くなる直前、

誰もそばにいなかったほんのちょっとの隙に、父は台所にあった出刃庖丁を手に持って、往還さきににじり出たのであった。「寄るな、寄って怪我するな、寄るとどいつもぶった切るぞう」と言って、庖丁を振り廻した。あの病みほうけた父に、どうしてこれほど力があったのか。ぎらぎらした日をうけて、庖丁が光った。見ると、雪の上に、父の裾から汚物が流れているではないか。
(引用『生きて行く私』宇野千代)

狂気の一幕を起こしましたが、千代さんはそれを父の最後のエネルギッシュな絶叫であったと振り返っておられます。
その生き方は、宇野千代さんの人生観に大きな影響を与えました。

実母:トモ

宇野トモ(旧姓土井)
1873年(明治6年)7月28日
〜1899年(明治32年)7月13日
山口県玖珂郡(岩国市)土井弥兵衛の娘。

トモさんは、24歳で嫁ぎ、宇野千代さんを出産するも、千代さんが1歳半の時に肺結核で短い生涯を閉じました。娘を残して逝くことを、たいへん心残りに思っていたそうです。

継母:リュウ

宇野リュウ(旧姓佐伯)
1883年(明治16年)5月26日
〜1951年(昭和26年)1月14日
山口県玖珂郡川下村(岩国市川下周辺)佐伯 順一郎さんミヱさんの四女。

宇野千代さんの継母・リュウさんは、わずか17歳で宇野家へ嫁いできた若き賢母です。

たとえば、到来物のおはぎを見ると、弟妹たちは早く食べたいと言って、母にせがむ。このとき、私がその場に居合わせなかったときなど、「まァお待ちい。姉さまがお戻りてから分けてあげるけえ」と言って、弟妹たちを待たせる。あの、芝居などで見る継子いじめの反対なのであった。
(引用『生きて行く私』宇野千代)

実子以上に千代さんを尊重し、深い愛情を注いで育てたため、千代さんは、伯母の口から「実の母親が別にいる」ことを知らされる14歳(1911年(明治44年))までリュウさんを実母だと信じていました。

家計が火の車になった際には、千代さんの学費のために工場へ働きに出、千代さんも代用教員の給与をほとんど渡して粗食に耐えるなど、二人は実の母娘以上の絆で支え合います。

岩倉で暮らしていたリュウさんですが、晩年は胃癌を患い、青山にある千代さんの自宅で看病されました。
亡くなる直前まで「川西の通りを歩くと、うちの家が一番傷んでいるとみんなが言っているようだ」と、古い生家の行く末をずっと心配されていたリュウさん。その思いを継いだ宇野千代さんは、リュウさんの没後に私財を投じて生家を昔のままの姿へと美しく修復・復元させます。

リュウさんは、千代さんの名作『おはん』のヒロインのモデルになったといわれています。

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宇野千代|兄弟姉妹

母・リュウさんの育て方が影響なのか、宇野千代さんは異母弟妹たちに慕われ、千代さんも弟たちの面倒をよくみていました。大人になってからも一緒に暮らすことがあったようです。

弟:薫(かおる)

宇野薫(かおる)
1901年(明治34年)6月19日〜
宇野千代さんの異母弟(5歳下)宇野家長男。

薫さんは、千代さんにとって一番年の近い弟で、子供の頃から片腕のような、子分のような存在だったようです。

千代さんの自伝的小説『生きて行く私』には、父が亡くなった後「長男の薫だけが、或る日、下駄をつっかけて、いきなり表へ駆け出して行ったのであった。」と家族の開放感を象徴的に描写されています。

1974年(昭和49年)荒れ果てていた岩国の生家を千代さんが修復することになったのは、東京に住んでいた薫さんからの1本の電話がきっかけでした。

「田舎の家がこけそうになったので見に行くけど、姉さんも一緒にお行きんか」或るとき、同じ東京に住んでいる弟(薫)から電話があった。
(引用『故郷の家』昭和四十九年七月「海」)

薫さんからのこの電話がなければ、現在山口県岩国市に残る「宇野千代生家」(国の登録有形文化財)は現存していなかったかもしれません。
千代さんにとって頼りになる弟であったことがうかがえます。

弟:鴻(ひろし)

宇野鴻(ひろし)
1904年(明治37年)1月10日〜1945年(昭和20年)
宇野千代さんの異母弟(7歳下)宇野家次男。

鴻さんら下の弟たちも、大家族の中で姉である千代さんの庇護を受けながらにぎやかに育ち、千代さんが一人暮らしを始めた時に薫さんと2人で引越しを手伝ったエピソードがあります。

1945年(昭和20年)終戦の年に41歳で亡くなっておられます。

妹:勝子(かつこ)

宇野勝子(かつこ)
1906年(明治39)年6月4日〜
宇野千代さんの異母妹(9歳下)宇野家次女。

千代さんにとって男兄弟に挟まれたただ一人の妹であり、大人になってからも、千代さんが多忙を極めた時期、秘書的な役割を果たしたり、生活の身の回りの世話をしたりして近くで支え続けた人物、それが勝子さんです。

1927年(昭和2年)女学校卒業を機に上京した勝子さん。
千代さんの建てた馬込の2軒の家のうち古い方で、姉の姑・よねさん(千代さんの夫・尾崎士郎さんの母)と暮らしたこともありました。おかげで宇野千代さん夫婦は安心して家を空け、伊豆の湯ヶ島にも長期滞在をすることができたとか。

千代さんが4人めの夫・北原武夫さんと別居している時も馬込に建てた洋館(新しい方)で姉とともに暮らし、「スタイル社」が倒産した時は逆に勝子さんの家に千代さんが転がり込むこともありました。

姉の激しい恋愛や数々の別れ、仕事での成功と挫折を、最も近い家族の目線で見守り、生涯を通じて千代さんの「身内」であり続けたのが勝子さんでした。

弟:光雄(みつお)

宇野光雄(みつお)
1908年(明治41年)年10月1日〜1941年(昭和16年)6月
宇野千代さんの異母弟(11歳下)宇野家三男

小樽高商(現・小樽商科大学)卒業後、読売新聞に入社した光雄さんは、22歳から26歳の4年間、千代さんと洋画家・東郷青児さんの淡島(現在の東京都世田谷区代沢)の家から通勤していました。

この家から千代さんが出ていった後も住み続け、千代さんが谷崎潤一郎から譲られた「朱塗りの箪笥」を荷車で運び出そうとした時には、次のように業者に怒鳴ったそうです。

「馬鹿野郎。その扉をちっとでも傷つけて見やあがれ。ただでは置かないぞ」と背後からどなったのは、私の弟の光雄ではないか。光雄はこのときまで、私がその最後の荷物である箪笥を引き取りに淡島の家へ行ったときまで、この家に残っていようとは。
(引用『生きて行く私』宇野千代)

光雄さんは呼吸器を患い、千代さんは、夫の北原武夫さんと共に満州・中国へ旅行中に「光雄危篤」の報せを受け、急遽帰国。その後まもなく、光雄さんは息を引き取っています。太平洋戦争が勃発する直前の1941年(昭和16年)6月、33歳でした。

弟:文雄(ふみお)

宇野文雄(ふみお)
1911年(明治44年)年2月25日〜
宇野千代さんの異母弟(14歳下)宇野家四男

6人兄弟の末っ子文雄さんは、千代さんが初めて嫁いだ14歳というタイミングで誕生しています。千代さんの強引な結婚は、家族の数を調整しようとした父俊次さんなりの苦肉の策だったのかもしれません。

千代さんが25歳のとき、原稿料を得て帰郷した際、人力車の乗り方が分からず

最後の番の文雄だけが、俥の腰掛けに腰をかけることを知らないで、上がり口の踏み台のところに、ちょこんどしゃがんでいた。
(引用『生きて行く私』宇野千代)

という11歳当時のかわいらしいエピソードが紹介されており、末っ子として可愛がられていたのではないかと思われます。
その後、船の乗組員となった文雄さん。
母・リュウさんの病気を知った時、「弟の文雄の眼に、大粒の涙が、ううっと浮かんだのを、私は見た。」と描かれています。

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宇野千代|4人の結婚相手

1人目の夫:藤村亮一

藤村亮一(ふじむら りょういち)
婚姻期間:10日(1911年)

従兄(実母の甥)であり、最初の結婚相手。
千代さんよりも4〜10歳年上(1890年代前半の生まれ)であったと推測されます。

この結婚は、強引なものでした。
余命を悟った俊次さんが、ある日突然、伯母(トモさんの姉)の家へ遊びに行ってこいと千代さんに命じ、夕暮れ時にその家の長男亮一さんに送られて帰宅した千代さんに向かって「おどれ、こんとに暗うなるまで、よう男と歩いとったな」と頬をビンタし、もう嫁入りするしかないと睨んだというのです。

ただ、千代さんがわずか10日で実家に戻ったため、事実上の婚姻解消となりました。
千代さん自身、後に「なぜ気に入らなかったのか自分でも分からないが、とにかく嫌でたまらず逃げ出した」という趣旨のことを語っています。

2人目の夫:藤村忠

藤村忠(ふじむら ただし)
婚姻期間:5年(1919〜1924)

宇野千代の従兄(前夫・亮一さんの弟)で2番目の夫。

千代さんから「ニイちゃん」と慕われていた藤村忠(1895〜1973)さん。
千代さんは、京都の三高の学生だった忠さんを頼って京都で同棲を始め、東京帝国大学入学を機に一緒に上京。在学中に結婚します。卒業後は、就職先の札幌で暮らし、千代さんが懸賞小説の入選を経て作家デビューを果たす時期をともに過ごしました。

インテリな忠さんは、文学や知識、新聞・雑誌に触れる環境を整え、札幌時代の安定した生活の中で千代さんの創作意欲を育み、作家「藤村千代」の誕生を支えました。

札幌時代に創作した千代さんの懸賞作品「脂粉の顔」は一等に当選。
ところが、賞金を手に岩国に帰省した帰りに東京へ寄った千代さんは、忠さんのもとには帰って来ませんでした。

3人目の夫:尾崎士郎

尾崎士郎(おざき しろう)
婚姻期間:4年(1926〜1930)

尾崎士郎(1898〜1964)は『人生劇場』で知られる作家で、宇野千代さんの3人目の夫。同じ懸賞小説で入選したことをきっかけに出会い、東京の馬込で同棲・結婚しました。

愛知県生まれの尾崎士郎さんは、早稲田大学へ進学し、社会主義運動に傾倒していましたが、父親の死に続き、父の公金横領を隠すため長兄がピストル自殺を遂げたことに激しいショックを受けます。これにより運動から離れ、大学を除籍となりました。

同じ懸賞小説の入選作家「藤村千代」が東京に立ち寄った際に出会い、情熱的な同棲生活をスタートさせます。

関東大震災後は東京馬込に移り住み、多くの文士や多士済々な人々が集まる「馬込文士村」の中心的存在に。

しかし、伊豆での千代さんと梶井基次郎との噂や、尾崎士郎さん自身が銀座のカフェーで17歳の古賀清子さん出会ったことで関係は冷え込み、1930年に離婚し、清子さんと再婚されました。

その後は、自伝的小説『人生劇場』の新聞連載が、若者の心を掴み大ヒット。何度も映画化されるなど、代表作となりました。

梶井基次郎(かじいもとじろう)
『檸檬』の著者。宇野千代さんに熱烈な恋心を抱いており、夫だった尾崎士郎さんと、宇野千代さんをめぐって激しい衝突を起こしたエピソードが有名です。

4人目の夫:北原武夫

北原武夫(きたはらたけお)
婚姻期間:25年(1939〜1964)

北原武夫(1907〜1973)は、小説『妻』で芥川賞候補となり、妻の宇野千代さんとともに日本初のファッション雑誌『スタイル』を創刊・経営した、ダンディズムを身上とする昭和の小説家・エッセイストです。

1933年、宇野千代さんが大泉黒石という作家を取材しに都新聞を訪れた際、たまたま居合わせたのが記者の北原武夫さんでした。千代さんが北原武夫さんの端正な容姿と才能に一目惚れしたと言われています。
1939年4月に正式に結婚。
当時、宇野千代さん42歳、北原武夫さん32歳の「10歳差」であり、当時は非常に珍しい姉さん女房のカップルとして世間を驚かせました。

結婚後、北原武夫さんは記者を辞めて小説家となり、2人で日本初のファッション誌『スタイル』を創刊するなど、華やかな文化人夫婦として一世を風靡。

ところが、結婚生活の裏で、1954年に銀座のバー「山」でアルバイトをしていた俳優座養成所の若き女優・公卿敬子(本名:久下慧子)さんと出会った北原武夫さん。宇野千代さんのもとを去り、公卿敬子さんと同棲を始めました。

1959年にスタイル社が倒産し、夫婦は多額の借金を背負います。
2人が執筆や着物のデザインで働き詰めて借金を完済した1964年、北原武夫さんから離婚を切り出しました。
10年間の別居生活だった千代さんは一切抗議せず、静かに署名して25年の結婚生活に終止符を打ちました。

離婚の翌年、北原武夫さんは公卿敬子さんと再婚。媒酌人は慶應義塾大学塾長の佐藤朔夫妻が務め、ホテルニューオータニで華やかな披露宴が催されました。

晩年は病魔に侵され、1973年9月29日、糖尿病による腎不全のため母校・慶應義塾大学附属病院にて息を引き取りました。享年66歳という早すぎる死でした。

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宇野千代|パートナー

パートナー:東郷青児

東郷青児(とうごうせいじ)
同居期間:4年(1930〜1934)

東郷青児(1897〜1978)は、柔らかな曲線と磁器のような滑らかな肌を持つ独特の女性像(青児美人)で戦後昭和の一世を風靡した、日本を代表する洋画家です。本の装丁や、有名な洋菓子店「モンブラン」の包装紙デザインなども手がけ、大衆に愛される芸術を追求しました。「二科会」会長。

1929年、19歳の恋人盈子(みつこ)さんとのガス心中未遂事件を起こし、世間を大騒ぎさせた東郷青児さん。(東郷青児さんには明代さんという妻がいました)

翌年、小説の描写のために「心中した男の本音を聞きたい」と考えた宇野千代さんが自宅を突撃取材。2人は会った瞬間に惹かれ合い、その日から一緒に暮らし始めます。

千代さんは東郷青児さんからモダンな洋装や美学を学び、東郷青児さんは千代さんから和服の着こなしや文章の書き方を教わりました。

同棲中の1933年、東郷青児さんが明代さんと正式に離婚が成立。
やがて東郷青児さんが元の心中相手・盈子さんと復縁し、千代さんとの関係は数年で破綻します。
千代さんは転んでもただでは起きません。
別れた直後に東郷青児さんから心中事件の一部始終を直接インタビューして聞き書きし、小説『色ざんげ』として発表すると、これが大ベストセラーとなり、千代さんは作家としての地位を不動のものにしました。

千代さんは後年、「一番好きだったのは尾崎士郎、二番目に好きだったのは東郷青児」と語っており、別れた後もその才能を愛し続けました。

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宇野千代|子ども・子孫

宇野千代さんには、生涯を通じて子どもはいませんでした。
子を持たなかったことは、宇野千代さんの人生観や生き方に少なからず影響を与えたと思われます。
ただ、愛情深く面倒見のよかった宇野千代さんは、例えば秘書の藤江淳子さんや東郷青児さんの子どもを子どものようにかわいがっておられました。

藤江淳子

藤江淳子(ふじえあつこ)
藤江淳子(1931年〜)さんは、宇野千代さんの元秘書であり、千代の晩年を公私ともに深く支え続けた、宇野千代著作権の継承者です。

私は本当の子供には恵まれなかったけれど、本当の子供以上ともいえる娘に恵まれました・・・秘書の淳っちゃんです(『人生学校』平6・二海竜社)
(引用「NPO宇野千代生家」サイト)

千代さんが「あっちゃん」と呼び、深く信頼していたのが元秘書の藤江淳子さんです。
千代さんが苦難の時期にあった頃(1958年(昭和33年))から亡くなるまでの約40年間、二人はまるで親子のように寄り添い続けました。

千代さんは藤江さんに尽きない感謝を抱き、藤江さんもまた「先生に守られていた」と振り返るなど、切っても切れない強い絆で結ばれていました。藤江淳子さんは千代さんの葬儀で喪主を務め、著作権を継承しています。

宇野千代作品からの「宇野千代像」とは一味違う、藤江淳子さんの語る「宇野千代像」が、とにかく素敵。

東郷志馬

東郷志馬
東郷志馬(1921年〜?)は、洋画家・東郷青児と明代の長男であり、少年期に宇野千代のもとで暮らしたのち、戦後は「日本スポーツマンクラブ」の代表取締役などを務めた人物です。異母妹に東郷たまみ。

東郷青児さんの息子・東郷志馬さんは、小学校低学年の頃、夜中に突然起こされ、父と宇野千代さんの暮らす世田谷山崎の家に連れて行かれたことをはっきり覚えておられます。

「志馬ちゃんね、私のことお母さんなんて呼ばなくていいから。『おばさん』でいいから。その代わり書くときには『小母さん』と書くのよ」。そんなことを最初に言われたのがとにかく印象的だったそうです。
これは、志馬さんや本妻・明代さんの気持ちを慮ったと同時に、「私は東郷青児の恋人だ」という気概を持った一言ではないでしょうか。

宇野千代さん自身は忙しくて構ってあげられなかったと当時を回想されていますが、志馬さん自身はよく面倒をみてもらったと話し、銀座に連れて行ってもらったり、千代さんが麻雀の席を外している間の代わりを任されたことについても語られています。

小学4・5年になると岩国に志馬さん1人で旅行に行くこともありました。宇野千代さんの継母リュウさんが一人で暮らす実家に泊まり、絵を描いたり錦帯橋の自由研究をして、リュウさんと一夏を過ごされたそうです。

千代さんは、都会ではできない体験を志馬さんにさせてあげたかったのかもしれませんね。

宇野純夫

1964年(昭和39年)ころ、当時2歳だった「佐野文雄」という男の子を妹・勝子さんが養子に迎えました。
養子にすると「宇野文雄」となり、弟と同じ名前だったことで、改名することに。

何か、良い名前、ないか知ら。文雄という名前と、語呂の合うような」と私は言った。そして私が考えて、純夫と言う名前をつけた。すみおとは、純粋な人間、と言うことである。私は人間の性質の中で、この純粋である、素直である、と言うことくらい、美しいものはない、と、いつでも思っていた。その通りの名前を思いついたので、何とも言いようのないほど嬉しかった。
(引用『生きて行く私』宇野千代)

当時67歳だった宇野千代さんは、純夫さんを孫のように可愛がっておられたそうです。

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