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朝ドラ『あんぱん』やなせたかしと弟、妻のぶ、戦争、アンパンマン、東日本大震災

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2025年前期朝ドラは『あんぱん』

ヒロイン:浅田のぶ役を今田美桜さん

気が弱くて自信のない夫:柳井嵩(たかし)役を北村匠海さんが務められます。

ヒロインの夫の実在モデルは、アンパンマンの作者。

1988年に始まったテレビアニメは今なお人気を博し、絵本はシリーズ累計世界で8番目に売れています。

今回は、そのアンパンマンの生みの親、やなせたかしさんの壮絶な人生をひもときながら、関わった人たちやいかにしてアンパンマンが生まれたのか、その背景を探ります。

やなせたかし
本名:柳瀬 嵩(やなせ たかし)
出身:高知県香美市香北町
生誕:1919年2月6日‐2013年10月13日(94歳)
受賞:
1967年週刊朝日漫画賞(「ボオ氏」)
1969年大藤信郎賞
1989年第19回日本童謡賞特別賞
1990年日本漫画家協会賞大賞
1991年勲四等瑞宝章受章
1994年高知県香美郡香北町名誉町民
1995年日本漫画家協会文部大臣賞
2000年日本童謡協会功労賞
2000年日本児童文芸家協会児童文化功労賞
2001年第31回日本童謡賞
2002年高知県特別県勢功労者
2003年第50回交通文化賞国土交通大臣表彰
2004年新宿区名誉区民
2008年東京国際アニメフェア2008第4回功労賞
2011年高知県名誉県民
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朝ドラ『あんぱん』やなせたかしと弟・千尋

やなせたかしさんの半生において重要な人物は、いつもそばにいた弟・千尋さんでした。

■父の死

やなせたかしさんの父は子供の頃から秀才と言われ、地元の学校を卒業すると県から奨学金をもらい中国の学校へ留学するほどでした。

卒業後、東京で働いている時にやなせさんが生まれます。(今の東京都北区)
父は編集者としての才能を見こまれ、新聞社へ転職します。

やなせさんが2歳の時、弟・千尋が誕生。
父親は、千尋が生まれて2年後には特派員として単身上海へ赴任します。
ですが、赴任先のアモイで病死してしまいます。

上海へ向かう定期船を見送ったのが、やなせさんが父親を見た最後でした。
32歳という若さでした。

父の死後、母と祖母と高知市内にある母方の親戚の家で暮らすことになったやなせさん。

弟の千尋は、高知市の隣の後免町にいる父の兄夫婦の養子となり引き取られていきました。
弟を養子とした伯父は、地元で大きな病院を経営していました。

伯父夫婦は子どもに恵まれず、千尋は本当の子どものように可愛がられて育ちました。

千尋の容姿は、丸顔で目が大きく、色白。
性格は、明るく活発で、誰からも愛されていたそうです。

「お兄ちゃんはお父さん似でおとなしいが、器量が悪い。
弟さんはお母さんに似てハンサムで快活だ。」

やなせさんは子供の頃、そのような言葉を周囲から幾度となく聞かされていたそうです。

■母との別れ

やなせさんは小学校2年生のある日、千尋の養子先である伯父さんの家に連れてこられます。

「たかしはしばらくここで暮らすのよ。
あなたは病気がちだから、おじさんはお医者さんだから、体を治してもらいましょうね。
治ったらすぐに迎えに行きますからね。」

と母はやなせさんを置いて家を出ていってしまいました。

元気になったらまた母と暮らせると思ったやなせたかしさんは一生懸命に体を鍛えましたが、母が迎えに来ることはありませんでした。

母親は再婚し、新しい生活を始めていたからです。

■伯父夫婦の家で暮らす

伯父さん夫婦の子どもとなった弟の千尋は、奥の部屋で伯父さん夫婦と一緒に川の字で寝ていました。
一方、やなせさんは玄関にある小さな部屋で、中学生の伯父さんの末の弟と一緒に寝ていました。

やなせさんと弟・千尋は同じ学校に通い、ともに伯父伯母のことを「お父さん、お母さん」と呼んでいたのですが、千尋は「お医者さんの坊っちゃん」やなせさんは「坊っちゃんの兄がお世話になっている」という、なんとなく肩身の狭い感じがずっとしていたそうです。

弟の千尋はやなせさんのことが大好きでした。

「お兄ちゃんと一緒でなければいや!」

とどこに行くにも後をついてくるほど兄に懐いていました。

伯父さんの家は、田んぼと畑に囲まれた自然豊かな所で、当時男の子はチャンバラごっこをして遊んでいました。

チャンバラでやなせさんが他の子にやられそうになると、千尋は必ず助けに来たそうです。

「お兄ちゃん、死ぬ時は一緒だよ」

と真顔で言って、自分より大きな子に立ち向かっていったそうです。

■思春期

不良少年に憧れるやなせさんは、不良になる努力をしていたそうですが、根が真面目で不良にはなれなかったそうです。

またある時には芥川龍之介に憧れ、痩せて髪を垂らし不健康そうな様子が知的だと思っていました。とりあえず肺病になろうとわざと1日中冷たい雨の中を歩き回ったり、裸で寝ていたそうですが、風邪ひとつひかず、がっかりしていたそうです。

そんなやなせさん、小学校時代は優秀だったものの中学に入ると成績が落ち劣等生になりました。
一方、弟の千尋さんは勉強も運動も得意でした。
やなせさんは中学で柔道部に入り、弟に技をかけるのを楽しんでいました。
弟も中学生になると追いかけるように柔道部に入ります。
するとある日、弟がやなせさんに勝ちました。
怒ったやなせさんは弟をボコボコにしたといいます。
やなせさんはそんな自分を自覚していましたが、弟の可愛らしさとまっすぐな心を羨ましく感じていたのです。

また、やなせさんは中学生になってもおねしょが治りませんでしたが、伯父さん夫婦はそれに怒ることもなく優しく育ててくれました。
それでもやなせさんはいつも伯父さん夫婦に遠慮し、自分の気持ちを言い出せなかったり、修学旅行の費用を出してもらうことに心苦しさを感じてたりしていました。
伯父さん夫婦のことは大好きなのにどうしても弟の千尋のように素直になれない。
そんなやりきれない思いを救ってくれたのは、絵を描くことでした。

幼い頃から絵を描くことが好きだったやなせさん。
描いている時は、寂しさを忘れ、熱中できたのです。

■千尋の寂しさ

やなせさんは、弟の千尋が伯父さん夫婦に素直に甘えているのを見て、千尋は伯父さん夫婦を本当の両親だと思っているのだとと思っていました。
ですが、実は千尋は亡くなった父親の写真をずっと持っており、自分が養子であることを知っていました。

この事実を知ったやなせさんは、千尋の中に父親を思う気持ちが残っていることにショックを受けました。

やなせさんは小学生の頃から、再婚した母に時々会っていました。

ある時、その話をすると

「兄ちゃんはいいよ。僕は行けない。」

と千尋がポツンと言いました。

可愛がってくれる伯父さん夫婦に悪いと思う弟が、母親に会いに行くのを我慢していたことを、やなせさんはその時初めて知ったので した。

■絵の道

やなせさんは、学生の頃

「たかし、医者の学校に行く気はないか?
病院をお前に譲ってもいい。」

と伯父に言われたことがありました。

この言葉を聞いたやなせさんは、涙が止まらなくなりました。
伯父さん夫婦は実の両親のように優しくしてくれていましたが、弟の千尋のように可愛くもない、 勉強もできない、家出をして「僕なんていなくなった方がいい」と線路に横になったこともあったそうです。
そんな自分に伯父さんは病院を譲っても良いと言ってくれているのです。
しかしやなせさんは「絵描きになりたい」と告げました。

その真剣な表情を見た伯父さんは

「これからは デザインの時代だ」

とやなせさんの背中を押してくれたそうです。

伯父さんはデザインの学校を探してくれ、試験のコツまで教えてくれました。
そのかいあって、やなせさんは東京高等工芸工学校に合格。
学校は現在の千葉大学工学部の一部で、当日は田町駅近くにありました。

やなせさんは高知を離れます。

 

「1日1回は銀座に出るように。
ショーウィンドウ や歩いている人を見て、最先端のものに触れた方が学校で習うよりも栄養になる。」

という学校の担当の先生の言葉通り、やなせさんは毎日銀座に出かけ、最新の流行に触れることになりました。
銀座通いには熱心だったのですが、デッサンさえもろくにせず、ヌードを書くときだけ熱心に出席していたそうです。
やなせさんは高知にいた頃は暗い青年でしたが、東京に出て明るく積極的な若者に変わりました。

ある日、伯父さんの危篤の電報を受け取り、高知へ帰るも間に合わず、悲しみに暮れました。

この時、実は製薬会社に就職が決まっていたのです。
医師である伯父さんの役に立てればと思い、製薬会社を選んでいたのでした。
製薬会社で1年だけ働いた後、やなせさんは徴兵されました。

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朝ドラ『あんぱん』やなせたかしと戦争

やなせさんの価値観やヒーロー像に影響を与えた戦争についてご紹介します。

■戦争

普通は出身地の部隊に入るのですが、やなせさんは高知ではなく福岡県の小倉の部隊に入ることになりました。
父は死亡、母親は再婚、弟は養子。
やなせさんには法律上の家族がいませんでした。

「お前が死んでも誰も困らないから!」

と担当の軍人は言い、やなせさんの書類にハンコを押したそうです。
これはたいへん運がいいことでした。
高知の部隊はフィリピンの戦場に送られ、激戦地で多くの兵隊が亡くなっていたのです。

とはいえ軍隊では毎日のように殴られていたそうです。
悪いことをしたから殴られるのではありません。

「殴る理由は精神を鍛えるためだ!」

と言われたそうですが、殴られて精神が強くなるのかやなせさんには理解できませんでした。

やなせさんが入隊したのは、夜戦重砲隊といって大砲を使って戦う部隊です。
トラックや馬で大砲を運んでいました。
1943年、やなせさんは中国の福州に上陸しましたが、アメリカ軍の攻撃は来ず、1000キロ先の上海まで歩いて移動しました。
1日40キロ歩き、途中で中国軍との戦いに何度か遭遇しました。

すぐそばで爆弾が破裂し、耳をかすめるように銃弾が飛んできます。
やなせさんの目の前で兵隊が亡くなることもありました。
列から遅れ取り残されて一人になると敵に捕まるので、怪我をして倒れてしている人がいても振り向かずに生きるために進むしかない状況でした。

決戦に備えるため、食料を貯めておくようにと命令がありました。
やなせさんの食料は、1日2回お湯の中にほんの少しのご飯粒が入ったものだけでした。
あまりの空腹のため、たんぽぽなど雑草でも茶殻でも、お腹に溜まるものは何でも食べたそうです。
この飢えた経験は後の作品に大きな影響を与えます。

敵が来る前に戦争は終わりました。
ようやく日本に帰る船に乗れたのは、戦争が終わって半年以上も経った頃だったそうです。

やなせさんは5年近く軍隊にいたことになります。
日本に帰国する直前、何度も弟の千尋の夢を見ました。
千尋が

「おい!兄貴!」

と言って現れ、闇の向こうへ消えていく夢でした。

■千尋の死

帰国後やなせさんはすぐに高知の後免町に向かいました。
帰宅したやなせさんを見た伯母さんは泣き出し、弟の千尋が亡くなったことを知りました。

やなせさんが小倉の部隊にいた頃、海軍の制服をした千尋が訪ねてきたことがありました。
京都帝国大学、現在の京都大学の法学部を卒業後、海軍に入隊した千尋。

千尋は

「特別な任務に就くために最後の挨拶に来た」

とやなせさんに語りました。

千尋の任務とは、「人間魚雷」と呼ばれる特攻兵器で一人乗りの小さな船で水中に潜り、敵の大きな船に体当たりするというものでした。

やなせさんは大反対したのですが

「もう決まったことなので変えられない。
僕はもうすぐ死んでしまうが、兄は生きて絵をかいてくれ。」

千尋はそう言い残して去っていきました。
これが千尋と会った最後でした。
その後、千尋は大勢で船に乗ったのですが、フィリピン沖のバシー海峡で敵の攻撃に遭い、船ごと海に沈んだのです。

「兄ちゃんと一緒でなければいや!」と言っていつもやなせさんについてきた千尋は、やなせさんの手の届かない遠くに一人で行ってしまいました。

千尋は、赤ちゃんから7歳ぐらいまでまんまるな顔をして、どこかアンパンマンに似ていたそうです。

千尋の死後、無気力感にさいなまれたやなせさんですが、生活のため友人の廃品回収の仕事を手伝うようになりました。

■本当の正義

日本は、戦前と戦後で価値観が180度変わっていました。
戦時中は国のために戦うのが正義だと信じて疑わなかったやなせさん。
終戦を迎えると、あの戦争が侵略戦争だと知り、戦争そのものが悪だということになりました。

何が正義なのかわからなくなっていたやなせさんは、ある日、幼い兄弟がおにぎりを分け合って食べているのを目にします。

服は汚れていましたが、幸せそうに笑っていた幼い兄弟。
その笑顔を見た時、

「本当の正義とは、お腹が空いている人に食べ物を分けてあげることだ」

とやなせさんは気がつきます。

時代が変わろうが、変わることのない普遍の真理を発見したのです。
この気づきが、後のアンパンマンの着想へとつながっていくのでした。

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朝ドラ『あんぱん』やなせたかしと妻・のぶ

漫画家として独立する後押しをしてくれた最愛の妻・のぶさんについてご紹介します。

■小松暢との出会い

やなせさんは27歳の時に、高知の新聞社に新設された雑誌の編集部で働き始めました。

編集部のスタッフは4人。
その中に一人だけ女性がいました。

やなせさんと同じ歳で、名前は「小松暢(こまつのぶ)」。
色白で一見弱そうに見えたのですが、肝っ玉の座った元気な女性でした。
暢が雑誌の広告の集金に行くと女だとバカにして払わない人もいたのですが、暢は引き下がらず相手にハンドバッグを投げつけ

「きちんと払いなさい!」

と怖い顔で言ったそうです。

そんな彼女の勇ましさに惚れて暢に求婚していた男性もいたそうです。
やなせさんも かっこいい暢に惹かれていきます。

ある時、編集部4人で東京に取材に行きました。
闇市でおでんの材料を仕入れ、男3人は肉や魚が入ったつみれやちくわ、卵をたくさん食べていたそうです。
暢は男性に思いっきり食べてほしいと遠慮し、大根 ばかり食べていました。
すると男性たちは全員食あたりを起こします。
懸命に看護する暢の姿を見たやなせさんはますます暢に夢中になり、お付き合いが始まったのです。

■結婚生活

ところが暢は新聞社を辞めて高知県出身の国会議員の秘書になり、東京へ行ってしまいました。 半年後にはやなせさんも後を追いかけ結婚します。

暢の下宿先である建築屋さんの子供部屋へ転がり込み、2人の新婚生活が始まりました。

2人の財産は、やなせさんが軍隊の飯盒 一つ。
暢はどういうわけか大きなストロベリージャムの缶詰だけ。
貧乏な暮らしも2人一緒なら楽しくて仕方がなかったそうです。


三越百貨店包装紙(出典:三越百貨店公式サイト

やなせさんは三越百貨店でデザイナーとして働き始めました。
画家の猪熊弦一郎がデザインした三越の包装紙のえんじ色の雲のような図柄に「Mitsukoshi」の筆記体を入れたのがやなせさんです。

家に帰ると、漫画を書き新聞や雑誌に送っていました。
何度か当選するうちに漫画の仕事も来るようになり、漫画家として独立を考えましたが不安で仕方がありません。
そんなやなせさんに対して暢は、

「大丈夫。何とかなる。
もしお金がなくなったら私が働いて食べさせてあげる。」

と背中を押してくれました。

■独立

そうして独立したのに、頼まれるのは漫画以外の仕事ばかりだったそうです。

やなせさんは色々な人に未経験の仕事をどんどん依頼されるようになり、 テレビやラジオやコンサートの台本を書いたり、ミュージカルの舞台装置をデザインしたり、映画の評論を書いたり‥。

漫画が売れていないのに『漫画学校』というテレビで先生として出演することになり、それが好評で3年間テレビに出ていたそうです。

色々なところで「漫画学校の先生、サインください」と言われたのですが、代表キャラクターがないのでいつも戸惑っていたそうです。
また、代表作の漫画もないのに『まんが入門』という単行本も出し、恥ずかしい思いがずっとあったそうです。

仕事があったので生活はできていたのですが、漫画家として独立したのに漫画の仕事自体は減っていました。
知り合いの漫画家たちがどんどん 表舞台に立っていく姿を見て、惨めな気持ちでいっぱいだったそうです。

そんなある夜、手にした懐中電灯で手のひらを照らすとその美しさに感動し、『手のひらを太陽に』という詩が生まれました。

この曲は、いずみたくの音楽と宮城まりこの歌で、NHK 番組で放送され大評判となりました。
マンガの代表作よりも先に詩の代表作が生まれたのです。

ある日、巨匠・手塚治虫からの電話が突然かかってきます。
やなせさんは『千夜一夜物語』のキャラクターデザインの仕事を手伝うことになりました。
『千夜一夜物語』は大ヒットします。

手塚治虫からのお礼として、自分の好きなアニメーションを作る機会を得ることができました。
やなせさんは、みなしごライオンとその育ての親の優しい犬を描いた『優しいライオン』をアニメ化し、「毎日映画コンクール」の大藤信郎賞を受賞しました。

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朝ドラ『あんぱん』やなせたかしとアンパンマン

「眼の前のお腹を空かした人に食べ物を分け与える」という普遍的な正義を弟に似たキャラクターで具現化した「アンパンマン」誕生のご紹介です。

■アンパンマン誕生

50歳のとき、雑誌『PHP』の連載小説の中の絵本童話の一つとして発表した作品にあんぱんまんを登場させます。
これは大人向けの作品でした。

人間のおじさんが空を飛んで、困っている人のためにアンパンを配る という話でした。

この頃は、仮面ライダーなど特撮ヒーローが誕生し始め、悪者を征伐する「正義のヒーロー」が流行していました。
ですが、自分でパンを焼く小太りのおじさんは、マントに焼け焦げがあり、太っていてハンサムとは言えません。

正義とは何かについて考えていたやなせたかしさん。
戦時中、アメリカは悪。戦後は進駐軍バンザイ。

飢えた経験から、眼の前のお腹を空かした人に食べ物を分け与えることこそ正義だと考えました。

やなせさんは、お腹を空かせている人のために自分を犠牲にして戦う、格好悪いけれど優しいヒーローを描こうと決めていたのです。

アンパンマンとしたのは、アンパンが日本で誕生した食べ物だということ、安くて手に入れやすく、そこそこ長持ちすること。
おやつにもファストフードにもなる、そんな理由からでした。

しかしこの初期のアンパンマンはあまり人気が出ませんでした。

そこで、大人には理解しにくいアンパンマンですが、子供なら理解してくれるのではないかと子供向き絵本として発表します。
空飛ぶおじさんは子供には向いていないので、アンパンが空を飛ぶ設定にしました。

ところが

「顔を食べさせるなんて残酷」

とたくさんの苦情が寄せられました。

担当の編集者からも

「やなせさん、こんな本はこれっきりにしてください」

と言われる始末。

ある時、やなせさんは『詩とメルヘン』という雑誌の編集長になり、この雑誌に再度アンパンマンを登場させました。
この雑誌を見たいずみたくが

「これをミュージカルにしたい」

と言い実現させ、どんどんお客さんが増えていったのです。

やなせさんは、ある時期から

「アンパンマンは面白い。うちの子どもが毎晩 読んでいる」

という声を周囲からよく聞くようになりました。
これまで大人たちから批判されてきたアンパンマンですが、どんどん人気が出てきました。

「こんな本はもうこれきり」と言った編集者も「続きを書いてください」 と、2冊目、3冊目の出版やアニメ化までも決定したのです。

新たなキャラクターも登場し、アンパンマンの世界はひろがってしていきました。
その後もキャラクターは増え続け、最も キャラクターが多いアニメとしてギネスに認定されるまでにもなりました。
やなせたかしさんと暢夫婦には子供がいなかったので、アンパンマンやバイキンマンが子供のようになりました。

■暢の発病

ところが、アンパンマンのアニメ化が決まった頃、奥さんの暢に癌があることが分かります。
やなせさんの生活は、食事の世話から散髪まで暢に頼りきりでした。
暢は病床にアンパンマンのタオルを積み上げて、看護師さんや見舞い客、他の患者に配っていたそうです。

一時は回復した病状でしたが、余命3ヶ月の宣告を受けた6年後、病院でやなせさんに見守られながら静かに息を引き取りました。

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朝ドラ『あんぱん』やなせたかしとアンパンマンミュージアム

故郷・高知に建てた「アンパンマンミュージアム」についてご紹介します。

■故郷への思い

やなせさんが77歳の時、故郷の高知県に「やなせたかし記念館アンパンミュージアム」がオープンします。
これはやなせさんがふるさとのために土地建物を提供して作ったものです。
ミュージアム建設の話を聞いた時、当時の町長は

「年間10万人が来場しないと維持費がまかなえない」

と伝えました。
するとやなせたかしは

「大丈夫です。心配ないです。」

と言いました。
入場者が少ない時は自分が費用を負担するつもりでいたのです。
ところがわずか49日で来場者は10万人を超え、年間30万人が訪れる場所となっていきます。

やなせさんは70歳を前にアンパンマンで大ブレイクし、超売れっ子になり、仕事、仕事の毎日でした。

名称 香美市立やなせたかし記念館アンパンマンミュージアム
営業時間 9:30~17:00(火曜定休)
地図
住所 〒781-4212 高知県香美市香北町美良布1224−2
アクセス ■車
高知市中心部より約60分(約30km)
高知龍馬空港より約40分(約20km)
高知自動車道南国I.C.より約35分(約18km)
※駐車場無料(乗用車50台収容/第1駐車場)
■公共交通機関
JR土讃線・土佐山田駅のりかえ(アンパンマン列車あり)
JRバス大栃線で約25分
「美良布(アンパンマンミュージアム)」停留所より
徒歩5分
入場料 大人800円、中高生500円、小人300円、3歳未満無料
(絵本館:大人450円、中高生200円。小人100円、3歳未満無料)
TEL 0887‐59‐2300

香美市立やなせたかし記念館アンパンマンミュージアム公式サイト

※「やなせたかし記念館」はこちらですが、「アンパンマンミュージアム」は仙台、横浜、神戸、福岡にもあります。

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朝ドラ『あんぱん』やなせたかしと東日本大震災

引退を考えていたやなせたかしさんが引退を撤回したきっかけは東日本大震災。
そのメッセージと、誰かのために生涯現役で働き続けたやなせさんの晩年をご紹介します。

■東日本大震災

やなせさんはご自身のことを病気のデパートと評していました。
アンパンマンが人気が出てきた67歳に腎臓結石、70代には白内障と心臓病、80代には膵臓炎、ヘルニア、緑内障、腸閉塞、腎臓がん、膀胱がん、90代では腸閉塞の再発、肺炎、心臓病の再発と病歴を重ねます。

2011年には視界がぼやけることを理由に漫画家引退を予定していました。

その頃、東日本大震災が起こりました。

避難所での主な情報源はラジオです。

暗いニュースが多かったなか、ラジオから『アンパンマンのマーチ』のイントロが流れると、避難所で暮らすたくさんの子どもたちから歓声が上がりました。

大声で歌ったりアンパンマン体操をしたり、それをみた親御さんも笑顔になったのです。

避難所の親御さんから子供のためにと『アンパンマンのマーチ』のリクエストが数多く届くようになったそうです。

そんな話を聞き驚いたやなせさんは、引退を撤回し、絵本や被災地へのポスターなどを精力的に制作したのです。
この時、やなせさん92歳。

「生きていることが大切なんです
今日まで生きてこられたなら
少しくらいつらくても明日もまた生きていられる
そうやっているうちに次が開けてくるのです
今回の震災も永遠に続くことはありません
アンパンマンは、いつもニコニコ顔ではありません
げんこつを握りしめ、戦う姿勢です
自身と戦うことはできないけれど
自分自身の中にある弱い心をやっつけてしまいなさい
というアンパンマンのメッセージです」

やなせさんは震災から2年後の2013年8月に体調を崩し入院します。
そのひと月前には映画『それいけ!アンパンマン とばせ!希望のハンカチ』の初日舞台あいさつに出席しています。

生涯現役のまま10月、病院で静かに息を引き取りました。94歳でした。

『アンパンマンのマーチ』の歌詞を作詞したのは、やなせさん本人です。

「なんのために生まれて
なにをして生きるのか」
「なにが君の幸せ
なにをして喜ぶのか」

人の喜ばせるために生まれて、人を喜ばせるために生きた人生でした。

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