朝ドラ『風、薫る』
帝都医大病院外科の助手・黒川勝治(演・平埜生成さん)実在モデル・瀬尾原始(せのおげんし)さんについてご紹介いたします。
瀬尾原始さんは、新潟県高田に開院した「知命堂病院」の初代院長として、「明治のナイチンゲール」と呼ばれた大関和さんを看護婦長に迎え、地方における西洋式看護の導入と看護婦養成の礎を築いた人物です。
瀬尾原始|生い立ちと学歴(20代前半まで)
菅沼家に出生
1861年(文久元年)に菅沼家で生まれた「菅沼原始」さん。
菅沼家は、高田藩の榊原家に仕えていた武士の家系であったと推測されています。
叔父夫婦に養子入り
瀬尾家に跡継ぎの男児がいなかったため、原始さんは幼い頃に叔父(実父の弟)瀬尾玄弘(げんこう)氏の養子に入り、「瀬尾原始」を名乗ることになります。
瀬尾家は代々高田藩の藩医を担う名家。養父自身も菅沼家から瀬尾家に戸籍が変わっているようです。
原始さんは幼い頃から、医師への道が運命づけられていたのです。
学歴
医師に必要な教養を身につけ、東京大学医学部に進んだ瀬尾原始さん。
1.新潟の英語学校
地元新潟で数学や英語を学びます。
2.東京の外国学校
医者を目指して上京。
ドイツ語を修得しました。
3.東京大学医学部 予科
1878年(明治11年)入学
「予科」では語学など一般教養を学びます。
4.東京大学医学部 本科
1887年(明治20年) 卒業
ほぼ「甲」という優秀な成績で卒業されました。
(東大医学部は、卒業の前年「帝国大学医科大学」に改称)
5.帝国大学大学院
専攻は外科学でした。
瀬尾原始|勤務医時代(20代後半)

その後、勤務医として外科の技術を磨きながら、看護婦の養成や地域医療の発展に貢献しています。
帝大医科大学第一医院 外科助手・看護婦養成
1887年(明治20年)、26歳の瀬尾原始さんは大学院に在籍しつつ、帝国大学医科大学第一医院(現・東大病院)の外科助手を務め、看護婦養成の講師も兼ねていました。
そして翌年、27歳頃に、看護学生として実習に来ていた30歳の大関和さんと出会います。この時の二人の師弟関係が、のちの知命堂病院の発展や感染症予防医療へと繋がる重要な伏線となります。
岡山県病院 外科医・指導医・看護婦養成
1889年(明治22年)、28歳で大学院を修了した瀬尾原始さんは、地方医療の近代化を担うべく、当時最先端の外科医療技術を携えて岡山へと赴任します。
・第三高等中学校医学部(現・岡山大学医学部)外科教諭
高度な外科技術による診療と、後進の医療指導にあたりました。
・岡山産婆看護婦養成所 講師
設立に携わった養成所の講師を兼務し、産婆や看護婦の育成・教育に尽力します。
・岡山県病院 外科医長
病院の外科部門トップとして、日々の診療を牽引しました。
・岡山医学会 副会長
地域の医学界における要職に就き、その存在感を発揮しました。
岡山時代に出会った優秀な医師や医学生たちは、後に総合病院という夢の実現に、大きな役割を果たすこととなっていきます。
瀬尾原始|大関和と知命堂病院(30代)
大関和の転職
原始さんが岡山で活動していた頃、帝国大学医科大学第一医院外科で「看護婦取締」を務めていた大関和さんは、
1890年(明治23年)9月に看護婦の待遇改善を求める建議書を外科責任者の佐藤三吉医師へ提出したことが元で取締を解任され、11月に退職します。そして年末、新潟の越後高田へ赴き、高田女学校の舎監兼伝道師となりました。
そこは奇しくも瀬尾原始さんの故郷でした。
果たして佐藤三吉博士も辟易、女史のあまりに熱心な伝道、それに注がれる烈々の情の避退策として、ちょうど知命堂病院長瀬尾先生から話のあるを幸い、女史をそちらへ推薦したのだとのこと。
(引用:『相馬愛蔵・黒光著作集1穂高高原』)
『相馬愛蔵・黒光著作集1穂高高原』によると、佐藤医師は和さんの熱心すぎる伝道活動に手を焼いており、ちょうど知命堂病院の瀬尾原始さんから相談があったのを幸いに、彼女を推薦して遠ざけようとした、という背景が記されています。
大関和さんは佐藤三吉医師からの推薦ではなく、同僚である鈴木雅さんの勧めによって高田女学校の職を選び、伝道活動や廃娼運動に注力していきました。
(なお、高田女学校は、新潟に開設された女子学院(桜井女学校)の系列校にあたります)
大関和との再会とスカウト
養父・瀬尾玄弘氏の夢を引き継ぎ、実家を総合病院へと発展させることにした瀬野原始さんは故郷・新潟新潟県上越(高田)に戻っていました。
「私立知命堂病院」の新装開院を控えた
1891年(明治24年)10月のある日、高田の路上でかつての教え子である大関和さんと偶然の再会を果たします。
突然のことに驚く和さんに対し、原始さんは目の前に立つ新築の洋館を指さして
「ここが私の実家なんです」
と告げたそうです。そして、地元で看護婦を募集するにあたり、ぜひ看護婦長になってほしいと頼み込みました。
専門的な教育を受けた看護婦の重要性を痛感していた原始さんは、「将来的に高田で看護婦養成所を立ち上げたい、その際には講師も任せたい」と熱い展望を語ります。
原始さんの言葉に心を打たれ、再び看護婦として生きる決意をした和さん。恩師の熱意に応える形で高田学校を退職し、知命堂病院の初代看護婦長として迎えられることになります。
私立知命堂病院 初代院長
1891年(明治24年)11月29日(30歳)
養父である瀬尾玄弘さんを「院主」、原始さんを「初代院長」として、現在の新潟県上越市西城町に「私立知命堂病院」が新装開院しました。開院式では、大関和さんが格調高い祝辞を述べています。
こうして瀬尾原始さんは、優秀な岡山第三高等中学校医学部の卒業生をスカウトするなどして、内科・外科・産婦人科・眼科を備えた民間初となる近代的な総合病院の形を整えます。新潟新聞の広告には、各科の医師達と共に看護婦長の大関和さんも紹介されました。
1892年(明治25年)5月、病院最初の施療患者の解剖を行い、研究用の「人体骨格標本」を作成。大関和さんはその標本を使って看病婦や見習看護婦に教育を行ったそうです。
優秀な医師の在籍する総合病院として順調なスタートを切った知命堂病院。
1893年(明治26年)になると、生活の苦しい人への無料診療も行います。
赤痢の村
夏、当時流行していた赤痢患者が増えると、瀬尾原始さんは医師と大関和さんら看護婦に現地を訪れるよう指示を出しました。
この医療チームが感染症対策を徹底したことで劇的な効果を上げたと伝わっています。
コレラや赤痢などの感染症は、多くの人々の命を奪う恐ろしい病気でした。和は、看護学校で学んだナイチンゲール方式にもとづき、排せつ物の正しい処理、丁寧な清掃と換気、患者の身体や衣服を清潔にすることを徹底し、大きな成果をあげました。
(引用:上越市ホームページ)
妻・ソノの感染

また、1894年(明治27年)は、日清戦争が勃発した年であり、日本国内でコレラや腸チフスなどの悪性伝染病が猛威を振るった激動の年でもありました。
瀬尾原始さんの妻・瀬尾ソノさんも腸チフスに感染し、大関和さんの献身的な看護によって一命を取り留めています。
この一件が、瀬尾家と大関和さんの信頼関係をさらに深めることになりました。
知命堂病院附属産婆看護婦養成所 所長
同年4月には「知命堂病院附属産婆看護婦養成所」が開所。
原始さんは大関和さんと手を携え、ナイチンゲール方式に則った科学的かつ衛生的な看護教育を実践し、多くの優れた看護婦を輩出していきました。(和さんの在任中に送り出された看護婦は200人近くにのぼります)
この取り組みにより、地域における近代医療と医療従事者育成の強固な礎が築かれました。
1896年(明治29年)3月、養成所の第一期生を無事に卒業させた大関和さんは、恩師であるマリア・トゥルー先生の看病のために病院を辞し、東京へと戻っていきます。
瀬尾原始さんは、その後も私費を投じて「速成看護婦養成所」を設立し、感染症患者のケアに対応できる看護婦の養成をさらに推し進めていくのでした。
瀬尾原始|戦争と継承(40代以降)
日赤篤志看護婦人会高田分会
1904年(明治37年)43歳
日露戦争による戦傷者の国内送還が増え、看護婦の深刻な人手不足が問題視されるなか、瀬尾原始さんの発案によってソノ夫人たちが同志を募り、「日赤篤志看護婦人会高田分会」を立ち上げます。
これにより、医療や看護の重要性を地域社会全体へと広げる活動が深く浸透していきます。
財団法人知命堂病院 理事長
1912年(明治45年)
51歳となった瀬尾原始さんは理事長に就任し、養子の瀬尾雄三さんが院長を引き継ぎます。
知命堂病院の第2代院長となった瀬尾雄三さんは、もともとは新潟県直江津の渡辺家の三男(旧名:渡辺雄三)として生まれました。
雄三さんは非常に優秀で、原始さんと同じ東京帝国大学医学部を卒業し、さらにドイツへ留学して内科学、細菌学、血清学を修めた、当時トップクラスの内科学者(医学博士)でした。
原始さんは、この極めて優秀な雄三さんを我が子(養子)として瀬尾家に迎え、1912年(明治45年)に知命堂病院の院長職を譲りました。
一線を退いた後も、病院の経営と地域医療の発展を支え続けた瀬尾原始さんですが、
1930年(昭和5年)6月7日、70歳で世を去りました。
黒川勝治モデル・瀬尾原始とは
その足跡を辿ってみると、大学院で最先端の外科学を修めた輝かしいエリートでありながら、その知識と技術を地方医療の近代化のために惜しみなく捧げた人物だということがわかります。
また一方で、当時まだ社会的地位の低かった看護婦の存在にいち早く光を当て、一人の立派な医療従事者として育成することに情熱を注いだその姿勢から、非常に高い先見の明とともに、立場の弱い人に寄り添う温かく誠実な人柄が伝わってきます。
瀬尾原始さんがみずからの使命をまっとうし次代へ繋いだ知命堂病院は、現在も新潟県上越市を中心として地域医療を支える重要な病院として人々を支え続けています。
【参考資料】
医療法人 知命堂病院 公式サイト
上越市ホームページ
『大風のように生きて 日本最初の看護婦大関和物語』ドメス出版
『明治のナイチンゲール 大関和物語』中央公論社
『相馬愛蔵・黒光著作集1穂高高原』郷土出版社


