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尾崎士郎『ブラッサム』西尾一路(染谷将太)モデル

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2026年朝ドラ『ブラッサム』

こちらでは、染谷将太さん演じる

西尾一路の実在モデル・尾崎士郎さん

についてご紹介します。

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『ブラッサム』西尾一路と尾崎士郎の共通点

西尾一路(にしおいちろ)
キャスト:染谷将太
新進気鋭の若き小説家。同じ出版社に出入りしていた珠と知り合い、彼女の作家としての才能を早くから認め、やがて互いに切磋琢磨し合う仲となってゆく。

染谷将太さん演じる西尾一路は、新進気鋭の若き小説家である点、ヒロインと同じ出版社に出入りし、ともに高め合っていく点が、尾崎士郎さんと共通しています。

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『ブラッサム』西尾一路モデル|尾崎士郎とは

尾崎士郎さん
(出典:大田区公式サイト)

尾崎士郎プロフィール

尾崎士郎(おざき しろう)
婚姻期間:4年(1926〜1930)

尾崎士郎(1898〜1964)は、代表作『人生劇場』で知られる昭和の小説家であり、宇野千代と結婚・同居したものの、劇的な恋愛劇や人間関係の葛藤の末に短期間で離婚した、波乱万丈な人物です。
後年、宇野千代さんが「いちばん好きだったのは尾﨑です」と語っておられた、三人目の夫です。

尾崎士郎の家族(家系図)

家族
父 |嘉三郎:郵便局局長
母 |よね:早逝
養母|たけ:次兄とともに上京
長兄|重郎:横領を苦に自殺
次兄|昇:上京後、毎日新聞社に勤め『サンデー毎日』編集長に
妻 |宇野千代:1歳年上(婚姻期間1926〜1930)
妻 |古賀清子:12歳年下(婚姻期間1930〜)
長女|一枝:1933誕生、早稲田大学
長男|俵士:1948誕生、尾崎士郎50歳の時の子、名前は相撲に由来、早稲田大学

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尾崎士郎|吉良

西尾市立尾崎士郎記念館(愛知)

没落した家の末っ子

1898年(明治31年)2月5日、愛知県幡豆郡横須賀村(現・西尾市吉良町)に、父・嘉三郎さん、母・よねさんの三男として誕生した尾崎士郎さん。

実家は、祖父・長市さんが煙草の製造や木綿の卸などで財を成した「辰巳屋」ですが、父の代になり破産。父は、尾崎士郎さんが生まれた年に自宅で三等郵便局を開業しています。

実母・よねさんが他界し、継母・たけさんが家に入った後も家計は苦しく、横浜で耳鼻科を営む母方の叔父宅に養子に出された少年期。馴染めずに帰っては連れ戻される、を何度か繰り返したのち復籍しました。

地元愛知県立第二中学校(岡崎高校)に進むと、政治や社会思想の雑誌に投稿しては、天下国家を論ずる硬派の青年に成長し、学校で二番の成績で卒業します。

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 尾崎士郎|早稲田時代と兄の自殺

早稲田大学

社会主義運動に傾倒(18歳)

18歳、早稲田大学高等政治科に進んだ半年後に父・嘉三郎さんが61歳で病没すると、長兄・重郎さんが郵便局長を継ぎます。

尾崎士郎さん自身は、社会主義運動に傾倒し、「偶像事件」、「早稲田騒動」のリーダー格になっていきました。

この頃に新宿の柳水亭りゅうすいていという下宿・料亭で女中として働いていた女性(代表作『人生劇場』”お袖”のモデル)との初恋を経験しています。

バンカラな運動家でしたが、警保局から特別要視察人に指名され2回投獄された後に、人生が一変する出来事が起こります。

兄の自殺と中退(20歳)

郵便局長を継いだ長兄・重郎さんが、公金横領のすえピストル自殺をしたのです(享年27)。

自身の使い込みのためでなく、同じ罪を犯していた父の罪の露見を防ぐための自殺であることを知った尾崎士郎さんの動揺は、激しいものでした。

自分の生き方に疑問を持った尾崎さんは、やがて運動から遠ざかります。

一家は破産し、大学は除籍。

自宅を手放した次兄・昇さん家族と養母・たけさんが上京すると、その後30年間、尾崎士郎さんが故郷の土を踏むことはありませんでした。

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宇野千代との出会いと別れ

宇野千代との出会い(23歳)

1921年(大正10年)1月、時事新報の懸賞小説に『獄中より』が二等で入選し、文壇への足がかりを掴んでいた尾崎士郎さん。

一等は「藤村千代」という札幌に住む、銀行員の妻でした。

その年の暮れ、
東京の中央公論社に次作『墓を発く』の掲載のお礼のため立ち寄った宇野千代さんと出会います。

宇野千代さんは、尾崎士郎さんの少し投げやりな身のこなしや「ぼ、ぼくが、そ、その、二等賞の尾崎士郎です」という吃音の癖にどこか放っておけない幼さを感じ、惹かれたのだと、後年、回想しています。

私はその瞬間に、ながい間、意識することもなしに過ごして来た渇望のようなものが、ふいに、堰を切って、溢れ出すような錯覚に襲われたのであった。
(引用『生きて行く私』宇野千代)

一方、尾崎士郎さんは、自伝的小説『人生劇場』のなかで宇野千代さんへの複雑な思いを次のように描いておられます。

「日本正論」の編輯長として一世に時めいている大溝白堂に引き立てられて作家生活の華やかなスタートを切ろうとしてる小岸照代と、やっと懸賞小説に当選はしたものの文壇に足場を得られずにあがいている自分をくらべると、全身をうちのめすようなやるせなさがもう一刻もじっとしていられないほどの恋情ともつれあってますます彼の心をあがきのとれぬ方向へとみちびいてゆくのである。
(引用『人生劇場 愛欲篇』尾崎士郎)

同棲開始

菊富士ホテルに逗留し、すぐに寄り添うように同棲生活を始めた二人。
その後、尾崎士郎さんは覚悟を決め、上京してきた千代さんの前夫と真っ直ぐに向き合うことになります。

この恋は、大正12年8月21日の『国民新聞』で、「若い燕、白面の士郎氏」と報じられ、世間を騒然とさせました。

しかし、尾崎さんは怯むことなく、「予は野良犬の如く彼女を盗めり」という大胆で情熱的な言葉を新聞に公表し、自らの愛を世に宣言したのです。

年の差はたったの1歳、懸賞作品で競い合った点数もわずか1点差という二人でした。
ですが、有望な女流作家として華やかに脚光を浴び始めていた千代さんの眩しさを前に、まだ何者でもなかった尾崎さんは、心の中でどこか複雑な格差や葛藤を抱えていたとも、語っておられます。

馬込文士村での日々

馬込文士村・尾崎士郎記念館(東京)
(出典:大田区公式サイト)

1923年(大正12年)
関東大震災の後、二人は荏原郡馬込村(東京都大田区)の農家の納屋を改造して暮らし始めます。そこは後に、萩原朔太郎や室生犀星、北原白秋、川端康成らが移住し「馬込文士村」と呼ばれるようになっていきます。

自宅には若い編集者や下積みの文士、さらには力士、画家、実業家まで、身分に関係なくたくさんの人が集まりました。

この時期の尾崎士郎さんは、宇野千代さんの稼ぎに頼りながらも、馬込に集まる作家たちとの交流の中で、独自の文学観を磨き、10月、「凶夢」を発表。高評価を得ていきます。

「私たちは、ただ生きていることが面白くて仕方がなかった」

宇野千代さんが後にそう語った通り、二人の生活はドラマチックそのもの。

お金がなくなれば着物を質に入れ、徹夜で麻雀に興じ、時には激しい夫婦喧嘩を演じる。尾崎士郎さんにとって千代さんは、単なる妻ではなく、「自分を常に刺激してくれるミューズ」だったのかもしれません。

新港へ(28歳)

1926年(昭和元年)には半年間、2人は山口県新港に滞在しています。

尾﨑と一緒に私の田舎へ出掛けて行ったのは、或る年の夏であった。祖母が口を利いてくれて、私たちは新港の山の上にある、小さな一軒の家を借り、一夏、そこで仕事をした。(中略)人間の感じることはそのときどきの状況によって、こんなにも変わるものか。ここに私たちのいる間に、母も弟妹たちもたびたびやって来た。「何ちゅう尾﨑さんはええお人じゃろう」と言って、母が嘆声をあげた。
(引用『生きて行く私』宇野千代)

宇野千代さんは、京城に旅立つ時、京都へ発つ時に母から見送られた思い出深い新港に愛する人と滞在でき感慨深かったわけですが、尾崎士郎さんは本当は来たくなかったのだと、後に宇野千代さんに話したそうです。
すれ違いはこの頃からすでに始まっていたのかもしれません。

梶井基次郎の存在(29歳)

二人の関係は長くは続きませんでした。
尾崎士郎さんと宇野千代さんの生活に破局の前兆が見えたのは、この翌年、1927年(昭和2年)前後のこと。

心配した川端康成さんは、常宿としていた伊豆湯ヶ島の湯本館を二人に紹介しました。

ところが、この湯ヶ島生活は、時を同じくして当地で静養中の若い文学青年・梶井基次郎と宇野千代さんの噂により、結果的に破滅を早めてしまいます。

連れ立って訪れた湯ケ島ですが、尾崎士郎さんだけが東京に戻り、千代さんは作品を書き上げるため留まります。

毎晩宿にやってきては好意を向ける梶井基次郎さんに、親しく接する千代さん。

その後、尾崎士郎さんは、友人宅で開かれたパーティで偶然居合わせた梶井基次郎さんの態度が気に入らず、梶井基次郎さんの顔に火のついた煙草を叩きつけるという事件を起こします。

ダンスの出来ない梶井と私とはウィスキーを呻りつづけた。(中略)私はすぐ立ちあがり、右手に握りしめた煙草を火のついたままふりかざして一気に彼の面上にたたきつけたのである。(中略)それから彼は視線を私の顔から離して、じつと考へ込むやうに眼を瞑ぢた。しかし、すぐ猛然として立ちあがつた。
(引用『文学的青春傳』尾崎士郎)

古賀清子との出会い

新聞小説『世紀の夜』により大金を手にした尾崎士郎さんは、馬込の家に帰らず、千代さん抜きで銀座で仲間と会うようになっていきます。

そこで出会ったのが、銀座「カフェー・ライオン」の17歳の女給・古賀清子さん。

「カフェー・ライオン」は明治の末頃から銀座尾張町にある有名なカフェでした。
美人揃いの女給の中から客が目当ての娘に立候補し、「時間とお金と熱意を使った客」を女給が指名する、というシステムです。
(この頃、女給を妻に迎えた作家は少なくありませんでした。)

古賀清子さんは尾崎士郎さんを始めから好きだったと告白し、関係を重ねます。これは単なる遊びでは終わらず、ついには古賀清子さんの実家で祝言を挙げることに。

ただ、このことを本妻の宇野千代さんは知りません。時々馬込の家に戻り、千代さんとも過ごしていたからです。

銀座のバーの、まだ子供のように年若な娘が尾崎の相手になり、のちに、その両親の家で、尾崎と式を挙げた、と言うことまで、私ひとりが知らなかった。
(引用『生きて行く私』宇野千代)

共通の友人に料理屋へ呼び出された宇野千代さんは、尾崎士郎さんの歌に合わせて歌う古賀清子さんの初々しい姿を見て、尾崎さんがもう自分のところには戻ってこないのだと察したということです。

離婚・再婚(32歳)

1930年(昭和5年)8月、尾崎士郎さんは千代さんとの離婚が成立すると、古賀清子さんと再婚し、大森源蔵ヶ原に転居。

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 代表作『人生劇場』の大ヒット

新聞連載(35歳)

1933年(昭和8年)、長女の一枝さんが誕生したこの年は、尾崎士郎さんの人生が大きく動き出した特別な年でした。

上泉秀信さんのすすめで都新聞に連載が始まった自伝的小説『人生劇場』が、またたく間に当時の若者たちの心を鷲掴みにし、一大センセーションを巻き起こしたのです。

主人公の挫折や苦悩、そして真っ直ぐな生き方は、若者たちの「バイブル」として熱狂的に迎えられ、何度も銀幕を彩る大ベストセラーとなりました。

『人生劇場』の魅力

物語の舞台は、愛知県の自然豊かな吉良町から始まります。
上京した主人公の青成瓢吉あおなりひょうきちが、さまざまな人間模様に揉まれて成長していく姿が、全8部作にわたって瑞々しく描かれています。純真な恋人・お袖や、豪快な父親、そして男気あふれる吉良常きらつねといった、魅力的な登場人物たちが織りなす「義理と人情」のドラマは、熱気を帯びた昭和の気運にぴったりハマります。

瓢吉には尾崎さん自身の青春が、そして劇中の小岸照代には宇野千代さんとの思い出が、投影されています。

1937年(昭和12年)、川端康成さんの『雪国』と並んで第3回文芸懇話会賞を受賞。尾崎士郎という作家の優しさと情熱が、時代に認められた瞬間でした。

「瓢吉の溜息」

当時『人生劇場』の担当だった井上友一郎さんは、「瓢吉の溜息」の中で次のエピソードを明かしています。

『人生劇場』の原稿が届かずヤキモキする井上氏が、ようやく尾崎士郎さんを見つけ出すと、本人は宴会の真っ最中。

尾崎さんは「原稿は挿絵の中川画伯に回した」と井上さんに酒を飲ませ、朝には姿を消してしまいます。
もちろん原稿はどこにもありません。

万事休すのなか、中川画伯は原稿がないまま、主人公瓢吉が「ああ、おれは、これからどうなるのだろう?」と溜息をつく挿絵を仕上げました。

結局、午後遅くに尾崎さんの原稿が滑り込み、翌日の新聞に掲載されましたが、締め切り直前の大騒動が生んだこの奇妙なコラボレーションは、読者の間で評判になったそうです。

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戦中・戦後の活動と評価

戦争

『人生劇場』が大ヒットし、まさに時代の寵児となっていた1938年(昭和13年)。尾崎士郎さんは「ペン部隊」の一員として中国の戦地へと渡りました。
帰国後、時代の大きな波に抗うことなく、軍国主義を鼓舞する作品を数多く執筆することとなります。

しかし戦後、世の中の価値観は180度ひっくり返ってしまいました。
昨日までの正義が覆るなか、1948年(昭和23年)に公職追放の身となった尾崎さん。政治的な発言や行動、そして何より作家の命である「執筆」までも厳しく制限されるという、試練の冬を迎えることになったのです。(幸いにも、その制限は2年後に解除されることとなります)

最期(66歳)

直腸がんを発病したのは、精力的に執筆を続けていた63歳の時でした。
手術により一時は回復しますが、2年後に再発。
病床にあっても尾崎士郎さんの文学への情熱は衰えず、筆が握れなくなると口述筆記によって亡くなる直前まで執筆を続けたそうです。

1964年(昭和39年)2月18日、東京は雪。
早稲田高等学院の入学試験に出かけていた長男・俵士さんの帰りを待っていたかのように、容態が急変します。

その日の夜、士郎さんは娘の一枝さんに唱歌を歌うよう求めました。一枝さんが歌う「桜井駅の別れ」を聴きながら、故郷・吉良での幼い日の情景に浸っていたのでしょうか、穏やかな表情を浮かべていたといいます。

1964年(昭和39年)2月29日に日付が変わり
その生涯に幕をおろしました。
66歳でした。

息子の尾崎俵士さん著「劇場 その夜明け」によると、「偉くならなくてもよいが、立派に生きろよ」と言い遺され旅だっていかれたそうです。

亡くなる前日付をもって文化功労者として顕彰されます。

宇野千代さんが「いちばん好きだったのは尾﨑です」と語った尾崎士郎さんは、「男が惚れる男」としても、多くの人に愛された人物でした。

 

【参考文献】
『人生劇場』尾崎士郎
『文学的青春傳』尾崎士郎
「劇場 その夜明け」尾崎俵士

『生きて行く私』宇野千代
『残っている話』宇野千代
『文学的回想記』宇野千代
「瓢吉の溜息」井上友一郎
「人生劇場」都築久義

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